学位論文要旨



No 121387
著者(漢字) 李,智平
著者(英字)
著者(カナ) リ,チヘイ
標題(和) 培養ヒト乳癌細胞MDA-MB-468における放射線によるERK活性化とその機序の解析
標題(洋)
報告番号 121387
報告番号 甲21387
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2635号
研究科 医学系研究科
専攻 生体物理医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮川,清
 東京大学 助教授 中川,恵一
 東京大学 助教授 小野木,雄三
 東京大学 助教授 渡邉,聡明
 東京大学 講師 遠藤,久子
内容要旨 要旨を表示する

[背景と目的]

細胞の放射線感受性に関する研究において、近年細胞膜に存在する増殖因子受容体の一つepidermal growth factor receptor(EGFR)の放射線による活性化が注目されている。放射線によるEGFRの活性化の生理的な意味としては放射線感受性と細胞増殖に影響を及ぼすことである。EGFRと放射線感受性の関係については(1)EGFR過剰発現細胞が放射線抵抗性で、(2)EGFRを過剰発現していない細胞にEGFR遺伝子を導入し過剰発現させると細胞は放射線抵抗性になり、(3)EGFR阻害剤、EGFR阻害抗体、dominant negative EGFRによりEGFRを阻害すると細胞は放射線感受性になることから、放射線によるEGFRの活性化は細胞を放射線抵抗性に導くものと考えられる。このため、EGFRが放射線感受性予測の新たな指標となる可能性や、EGFR阻害剤による放射線増感の可能性が考えられている。

EGFRは、通常EGF等のリガンドが結合し、EGFRの受容体チロシンキナーゼにより自己リン酸化を起こす。EGFによるEGFRのリン酸化ではserine、threonine、tyrosineのリン酸化が起こるが、放射線によるリン酸化ではtyrosineのみがリン酸化されてserineやthreonineのリン酸化は起こらないことから、放射線によるEGFRの活性化はリガンドが結合した場合と異なるものと考えられる。EGFRからの情報伝達経路としては、放射線によりGrb2、Sos、Ras、Raf-1、Phospholipase Cγ(PLCγ)、ERK1/2(Thr202/Tyr204)、p90 ribosomal S6kinase(p90RSK)、CREB等の活性化が起こることが報告されている。また、EGFRの阻害剤であるAG1478が照射後のERK1/2(Thr202/Tyr204)リン酸化亢進を阻害することから、ERK1/2(Thr202/Tyr204)の活性化はEGFRを介したものと考えられている。

このように、放射線によりEGFR,ERK1/2(Thr202/Tyr204)の活性化が起こり、細胞が放射線抵抗性になることが報告されているが、放射線によるEGFR/ERK1/2(Thr202/Tyr204)活性化の機序は明らかではない。本研究は放射線によるEGFR/ERK1/2(Thr202/Tyr204)活性化の機序を明らかにすることを目的とした。

[材料と方法]

試薬と抗体: recombinant human epidermal growth factor(EGF)とvanadateは和光純薬工業株式会社(大阪、日本)から、EGFR阻害剤4-(3-Chloroanillino)-6,7-dimethoxyquinazoline(AG1478)、Src阻害剤(4-amino-5-(4-chlorophenyl)-7-(t-butyl)pyrazolo[3,4-D]pyrimidine(PP2)及びPTP阻害剤bis(N,N-Dimethylhydroxamido)hydrooxovanadate (DMHV)はCalbiochem(La Jolla,CA)から、phosphoinositide 3-kinase(PI3-K)阻害剤wortmanninはSigma(Saint Louis,MO)からそれぞれ購入した。抗phospho-ERK1/2(Thr202/Tyr204)抗体、抗phospho-EGFR(Tyr845)抗体、抗phospho-EGFR(Tyr992)抗体、抗phospho-EGFR(Tyr1045)抗体、抗phospho-EGFR(Tyr1068)抗体、抗phospho-SHP-2(Tyr542)抗体、抗SHP-2抗体。抗phospho-Src(Tyr416)抗体抗phospho-PTPα(Tyr789)抗体、抗phospho-Akt(Ser473)抗体、抗Akt抗体はCell Signaling Technology(Beverly,MA)から購入した。抗phospholipase C(PLC)γ-1抗体はUpstate(Lake Placid,NY)から購入した。抗Src抗体はOncogeneResearchProducts(SanDiego,CA)から購入した。抗EGFR抗体と抗活性化EGFR抗体はTransduction Laboratories(Lexington,KY)から購入した。抗β-actin抗体はSigmaから購入した。本研究に使われたMDA-MB-468細胞はAmerican TypeCulture Collection(Rockville,MD)から購入した。

細胞培養とサンプル回収:MDA-MB-468細胞はEGFRを過剰発現している。細胞培養はminimum essential medium(MEM)(Sigma,St.Louis,MO)に10% fetal bovine serum(FBS)を加えた培地を用いて行った。5×105個の細胞を直径60mmのdishに播種し、37℃、5% CO2のインキュベーターで培養し、培地を途中で交換することなく、4日後に実験に用いた。

Western blotting:細胞はelectrophoresis sample buffer[62.5 mM Tris(ph6.8),2% SDS,5% glycerol,0.003% bromophenol blue,1% β-mercaptoethanol]で溶解し、5分間100℃で処理した後15,000 rpmで10分間遠心した後、上清を細胞溶解液としてWestern blottingに用いた。細胞溶解液は7.5% polyacrylamide gel electrophoresisにより電気泳動し、polyvinylidene difluoride membranes(Milipore Corporation,Bedford,MA)にtransferした。抗体によりmembraneを処理した後、ECL PlusTM Western blotting detection reagents(Amersham Pharmacia Biotech lnc.Piscataway,NJ)を用いて検出を行った。

X線照射方法: X線照射は島津X線発生装置HF350(Shimadzu,Kyoto,Japan)を用い、200kV-20mAで、0.5mm Cu+1.0mmAlのフィルターを用いて行った。照射は室温で行い、線量率1.36Gy/minであった。

[結果と考察]

MDA-MB-468細胞において、0.5-10Gy放射線によりERK1/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化は照射2-5分後と6時間後の2相性に亢進し、放射線によるERK1/2(Thr202/Tyr204)の活性化が示唆された。また、これらのリン酸化亢進はEGFR阻害剤AG1478により阻害されたことから、EGFRを介した情報伝達経路に基づいたものが考えられる。しかし、EGFRからの情報伝達経路の活性化に重要なリン酸化部位であるTyr845、Tyr992、Tyr1045、Tyr1068のリン酸化状態を調べた結果、Tyr845、Tyr1068のリン酸化亢進が照射後6時間後にだけ認められ、ERK1/2(Thr202/Tyr204)のような2相性リン酸化は認められなかった。この結果は、放射線によりEGFRのリン酸化が亢進するというこれまでの報告と矛盾する。その原因は、これまでの報告では抗EGFR抗体を用いてEGFRを免疫沈降した後に抗phospho-tyrosine抗体を用いてリン酸化を検出しているのに対して、本研究ではリン酸化されたEGFRのTyr845、Tyr992、Tyr1045、Tyr1068に対する特異的な抗体を用いた点が挙げられる。本研究で用いた方法は、これまでの研究における非特異的tyrosineリン酸化評価する方法より正確と考えられる。

SHP-2(Tyr542)の照射後のリン酸化タイムコースは放射線によるERK1/2(Thr202/Tyr204)活性化のタイムコースとほぼ一致していることと、SHP-2がEGFRを活性化する方向に制御することからSHP-2(Tyr542)の活性化がERK1/2(Thr202/Tyr204)の活性化に関与していることが考えられる。さらに、SHP-2(Tyr542)とERK1/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化亢進がSrc阻害剤PP2によって阻害されることから、SHP-2(Tyr542)とERK1/2(Thr202/Tyr204)の活性化がSrcに依存しているものであることが示唆された。

Srcは活性制御に関する2つの重要なリン酸化部位を持ち、Tyr416がリン酸化されると活性化され、Tyr527がリン酸化されると不活性される。PTPαはSrc(Tyr527)を脱リン酸化し、Srcを活性化することが報告されている。本研究では、PTPαは照射1-6時間後にTyr789のリン酸化が亢進し活性化することが示唆された。Src(Tyr416)のリン酸化も照射1-6時間後に亢進することから、PTPαによるSrcが活性化される可能性が考えられた。更に、SHP-2はSrcをリン酸化することなく活性化することが報告されている。Src(Tyr416)のリン酸化は照射後2-5分後に変化が認められなかったが、SHP-2がSrcをリン酸化することなく、活性化している可能性が考えられた。

UVやH202はPTPを阻害してEGFRのtransactivationを介してERK1/2(Thr202/Tyr204)を活性化することが報告されていることから、放射線も同様な機序によりERK1/2(Thr202/Tyr204)を活性化している可能性が考えられる。この可能性を検討するために、PTP阻害剤DMHVによりPTPを不活性化した場合の、EGFRやERK1/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化状態に及ぼす影響を検討した。低濃度(6.25-25μM)のDMHVはEGFR(Tyr845)とEGFR(Tyr1068)のリン酸化を低下させたにもかかわらずERK1/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化を亢進させた。DMHVによるERK1/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化亢進はEGFR阻害剤AG1478とSrc阻害剤PP2によって阻害されたことから、EGFR、Srcを介した情報伝達経路によるものと考えられる。これらの現象は放射線により誘導された現象と非常によく似ている。このため、軽度のPTP阻害が放射線により誘導されている可能性が考えられる。

本研究では、放射線照射2-5分後にSHP-2(Tyr542)、ERK1/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化が認められ、Src阻害剤PP2がSHP-2(Tyr542)とERK1/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化を阻害し、EGFR阻害剤AG1478がERK1/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化を阻害することから、放射線によるERK1/2(Thr202/Tyr204)活性化の機序がSrcに依存したEGFRのtransactivationを介したものであることを明らかにされた。

今後の研究課題としては、放射線がSrc活性に及ぼす影響とその機序を解明していくことが重要である。放射線によるEGFRの活性化が細胞を放射線抵抗性にすることから、EGFRとその上流のシグナル伝達経路を解明することが新たな放射線増感剤の開発につながるものと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、放射線によるERKl/2(Thr202/Tyr204)活性化の機序を明らかにするため、epidermal growth factor receptor(EGFR)の阻害剤であるAG1478やSrc阻害剤であるPP2を用いて、EGFRを過剰発現している培養ヒト乳癌細胞MDA-MB-468における放射線照射後のERKl/2(Thr202/Thr204)活性化経路の解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

MDA-MB-468細胞において0.5-10Gy放射線照射によりEGFR下流のERKl/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化は照射2-5分後と6時間後の2相性に亢進することから、放射線によるERKl/2(Thr202/Tyr204)の活性化が示唆された。また、これらのリン酸化亢進はEGFR阻害剤であるAG1478により阻害されたことから、ERKl/2(Thr202/Tyr204)の活性化はEGFRを介した情報伝達経路に基づいたものであることが示唆された。

EGFRを活性化するSHP-2のTyr542のリン酸化は2Gy照射により照射後2-5分後と4-6時間後に亢進し、放射線によるSHP-2の活性化が示唆された。このタイムコースは放射線によるERKl/2(Thr202/Tyr204)活性化のタイムコースとほぼ一致していることから、SHP-2の活性化がERKl/2(Thr202/Tyr204)の活性化に関与している可能性が考えられる。さらに、SHP-2とERKl/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化亢進がSrcの阻害剤PP2によって阻害されることから、SHP-2とERKl/2(Thr202/Tyr204)の活性化はSrcを介したものであることが示唆された。

Srcは活性化制御に関する2つの重要なリン酸化部位を持ち、Tyr416がリン酸化されると活性化し、Tyr527がリン酸化されると不活性化する。PTPαはSrc(Tyr527)を脱リン酸化しSrcを活性化することが報告されている。PTPα(Tyr789)のリン酸化は照射1-6時間後に亢進し、PTPαが放射線により活性化することが示唆された。Src(Tyr416)のリン酸化も照射1-6時間後に亢進することから、PTPαによりSrcが活性化される可能性が考えられた。さらに、SHP-2はSrcをリン酸化することなくSrcを活性化するという報告がある。Src(Tyr416)のリン酸化は照射2-5分後に変化が認められなかったが、SHP-2がSrcをリン酸化することなく活性化している可能性が考えられた。

以上、培養ヒト乳癌細胞MDA-MB-468において、放射線照射によりSHP-2とERKl/2(Thr202/Tyr204)が活性化し、Src阻害剤PP2がSHP-2とERKl/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化を阻害し、EGFR阻害剤AG1478がERKl/2(Thr202/Tyr204)のリン酸化を阻害した。これらのことから、放射線はSrc、SHP-2、EGFRを介してERKl/2(Thr202/Tyr204)を活性化していると考えられる。本研究は、放射線によるERKl/2(Thr202/Tyr204)活性化のメカニズムがSrcに依存したEGFRのtransactivationを介したものであることを明らかにした。このことは細胞の放射線照射に対する応答の分子機構の解明に大きく貢献するものであり、学位の授与に値するものと考えられる。

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