学位論文要旨



No 121394
著者(漢字) 山末,英典
著者(英字)
著者(カナ) ヤマスエ,ヒデノリ
標題(和) 心的外傷後ストレス性障害と関連した前部帯状皮質体積の減少
標題(洋)
報告番号 121394
報告番号 甲21394
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2642号
研究科 医学系研究科
専攻 脳神経医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 坂井,克之
 東京大学 助教授 高山,吉弘
 東京大学 助教授 綱島,浩一
 東京大学 教授 安藤,譲二
 東京大学 客員助教授 林,直人
内容要旨 要旨を表示する

【研究背景と目的】脳画像の進歩により、本来、脳に器質的基盤が存在しないはずの機能性精神疾患においても、微細な脳形態異常の存在が証明されてきた。統合失調症やうつ病など、機能性精神疾患の大部分は内因性精神疾患に分類され、遺伝要因などの脆弱性が発症の主な要因とされている。したがって、脳画像技術が向上し、従来は検出不能だった脆弱性の背景をなす微細な脳形態基盤が明らかになったと考えられる。

内因性精神疾患に対し、心因性精神疾患と位置づけられる心的外傷後ストレス性障害(Post-traumatic stress disorder:PTSD)は、疾患定義に病因が含まれるほぼ唯一の機能性精神疾患である。自然災害、戦争、テロ事件などによって引き起こされ、マスメディアの報道や社会的関心を集めやすい。しかし一方で、心理的ストレスが情動に及ぼす影響を検討するヒトにおける貴重なモデルとして、世界中で生物学的な研究が行われてきた。そして、90年代半ばからの脳形態MRI研究では、心因性精神疾患であるPTSDでも海馬体積が小さいことが見出され、関心を集めた。その一方、機能画像研究では、症状賦活中の扁桃体過賦活と前部帯状皮質(Anterior cingulate cortex:ACC)の活性不全が報告され、外傷体験想起による扁桃体を介した恐怖反応が、ACCの機能不全により、外傷体験から時を経ても抑制されずに遷延するという、PTSDの病態モデルが提唱されていた。

上述のように形態画像と機能画像による知見には、乖離が存在していた。90年代の多くの脳形態解析で使われた関心領域法は、測定者がスライス1枚ごとに関心領域の境界を手書きで定義し、部位によっては数十スライスにわたる作業を経て体積が測定可能になる。そのため、測定に著しい時間と労力を要し、サンプルサイズなどが制限されがちだった。また、明確な境界を定義可能な部位に制限され、簡便で分かりやすい境界を用いて測定者間一致度を高めることと、細胞構築や脳機能の観点から妥当な境界を設定することは、時として食い違う場合もあった。上記の乖離は、解析方法の問題から境界を定義しやすい海馬のような構造に、形態解析が集中していたことも一因であると考えられた。

それに対し、近年開発されたvoxel-based morphometry(VBM)は、各個人のMRIデータを標準脳座標に空間正規化する事で、全脳の形態解析を自動的に細かなボクセル単位で行なう。比較的簡便に測定者の違いに左右されずに解析でき、より大きなサンプルでも、これまで境界の定義が困難だった脳部位についても研究出来る利点がある。そして、近年のVBMを用いた研究は、内因性精神病の病態に新たな知見を付け加えていたが、PTSD研究ではVBMが応用されていない状況にあった。

本研究は、1995年におきた東京地下鉄サリン事件の被害者の方々の協力を得て、外傷体験後のPTSD発症の有無による脳形態の差を、VBMにより全脳から探索した。地下鉄サリン事件の被害者は、アルコール関連障害・薬物乱用・うつ病などの、脳形態に影響しうる要因の併存が、欧米のPTSD研究サンプルと比較して少ない。したがって、こうした要因を最小限に制御した上でPTSDと関連した脳形態異常を検討した。

【対象と方法】1995年の東京地下鉄サリン事件直後に、急性サリン中毒のために聖路加病院を救急受診した被害者のうち、本学研究倫理委員会によって承認された方法に従い、書面で研究参加の意志を確認できた36名(男性18名、女性18名)を対象とした。臨床評価とMRI撮像は、2000年から2001年に行った。MRI撮像日に、利き手、本人および両親の社会経済状況尺度、体験の心理ストレスの強度、PTSDの重症度と診断確定、それ以外の精神神経疾患の有無を評価した。また、有機リン化合物サリン暴露の影響の指標として、事件当日とMRI撮像日の血中コリンエステラーゼ値を用いた。

頭部MRIは、本学医学部付属病院放射線部のGE社製1.5テスラMR機器で3D-SPGRを採用し、0.9375×0.9375×1.5mmの空間解像度で撮像した。SPM99を用いた画像処理は、SPMの開発者らが推奨する方法を周到し、空間正規化、灰白質・白質・脳脊髄液への分離、半値幅12mmの平滑化を行った。統計解析では、包括的正規化を採用し、個々人の脳の解剖学的特徴を保持していた灰白質あるいは白質の画像は、全く同一の座標空間上で全く同じ量の灰白質もしくは白質に変換され、ボクセル濃度の情報へと置き換えられた。先行研究によるVBMのボクセル濃度と関心領域法での体積の比較から、ボクセル濃度は脳局所体積を反映すると考えられる。こうして、年齢・性別の影響も共変量として加えた共分散分析モデルで、PTSD診断の有無による2群比較と、PTSD症状の重症度とボクセル濃度の相関解析を行った。また、その他の因子が脳形態に影響を与えている可能性を検討するため、年齢・身長・体重・本人および両親の社会経済尺度・羅病期間・外傷体験強度・血中コリンエステラーゼ値などの指標と脳形態の関連も検討した。有意水準は、p<0.001のボクセルで構成されたクラスターのうち、多重検定の補正の後にピークボクセルがp<0.05となるクラスターを有意とした。有意水準補正は、あらかじめ所見が予想された両側海馬とACCについては、予想された領域内のボクセル数に基づく補正を、それ以外の部位にでは、灰白質もしくは白質全域を構成するボクセル数に基づく補正を行った。

【結果】36名の被害者のうち9名にPTSD診断を認めた。別の10名は、診断基準上必須のPTSD症状3項目のうち1-2項目を満たし、PTSD診断の有無による脳形態の差をより明確にするため、この10名は解析から除外した。さらに別のアルコール依存症と診断された1名も、アルコール関連障害による脳形態への影響を考慮し除外した。残り16名は、PTSDを含めた精神神経疾患の既往を認めなかった。最終的に、9名のPTSD診断を有する被害者と、16名のPTSD診断を有さない被害者を対象とした。これら2群に、年齢・男女比・教育歴・本人および両親の社会経済状況尺度、事件直後およびMRI撮像時点の血中コリンエステラーゼ値の有意差はなかった(表1)。PTSDと診断された9名の中には、うつ病(1名)やパニック障害(2名)の合併症を認めたが、これらの合併率も両群で有意差を認めなかった。

PTSD診断を有する群では、PTSD診断を有さない群に比べ、左ACCに有意に灰白質濃度が低い部位を認めた([x,y,z(mm)]=[-8,12,32],k=113,Z-score=4.33)(図1)。海馬も含め、ACC以外の灰白質部位および全ての白質部位では、PTSD診断の有無による有意差を認めなかった。さらに、ACCの灰白質濃度と血中エステラーゼ値との相関も認めず、この部位の体積減少がサリンの神経毒によるものではないと示唆された。

PTSD診断を有する群では、群間差の認められたクラスター内(左ACC)の灰白質濃度と、PTSDの重症度に有意な負の相関を認めた([8,12,28],Z=4.36)(図2)。また、他にPTSD重症度と有意な相関を示す部位はなく、ACCの体積は、年齢・身長・体重・本人および両親の社会経済的背景・羅病期間・外傷体験強度・血中コリンエステラーゼ濃度などの指標との有意な相関を示さなかった。

【考察】PTSD診断のある群で左ACCの体積が小さいこと、および、この体積減少とPTSD症状の重症度との有意な関連が示された。これら二つの理論的に独立した所見が存在したことは、PTSDの病態におけるACCの役割の重要性を示すと考えられた。また、ACC以外では、海馬を含めたいずれの部位についても、PTSD診断の有無に関連した有意差は認めなかった。これらの脳形態所見は、PTSD患者におけるACCの機能不全や神経組織減少を示唆してきた先行する機能画像研究と矛盾しない。そして、これらの先行研究と併せて、恐怖などの強い感情反応をACCが制御しきれないために、再体験症状のようなPTSD症状が出現するとする仮説を支持すると考えられる。また、急性で一過性の外傷体験では、記憶などの海馬と関連した機能は障害されず、むしろ注意機能などの前頭葉機能が障害されるとする報告とも一致する。

ACCは、情動の制御や注意機能において重要な役割を持つことが指摘されており、特に近年では、危険が過ぎ去った後に恐怖や驚情などの反応を抑制する段階でACCの役割が重要であると報告されている。健常ヒトにおいても、元来不安などの陰性感情が高まりやすい特性を持つ個体では、ACCの機能や構造が、陰性感情の低い特性の固体に比べて異なることも報告されている。また、PTSD患者では陰性感情が高まりやすい特性がみられ、重症度の予測因子でもあるとされている。

本研究では、PTSD群に海馬所見を認めなかったが、主に2点から先行研究との不一致を説明できる。1つには、外傷体験の種類による不一致で、戦闘や被虐待のような反復される体験による成人のPTSDでは、一貫して海馬体積減少が報告されているが、交通事故やテロ事件などの急性で単回の体験によるPTSDでは、海馬体積減少が認められていない。第2に、アルコール間連障害やうつ病の合併の有無による不一致が認められ、海馬体積減少の報告では、いずれも対象の7割以上にうつ病やアルコール関連障害の併発を認めるが、戦闘体験によるPTSDでもアルコール関連障害やうつ病の併発を除外すると海馬体積減少を認めないとする報告がある。急性で単回の体験であるサリン事件被害者においてアルコール関連障害患者を除外し、うつ病の併発も1例のみのPTSD群では海馬体積減少を認めなかった本研究は上述の観点と矛盾しない。

【結論】PTSD研究に世界で初めてVBMを応用し、PTSD診断の有無および重症度と関連した脳形態異常部位として、これまで形態解析がされていなかった左半球のACC体積減少を見出した。これらの結果は、注意機能や情動の制御に関わるACCが、PTSDの病態において重要な役割を持つことを示唆している。

図1. 地下鉄サリン事件被害者のうち、健常被害者に比べてPTSDと診断された被害者で灰白質体積が小さい部位を黄色で表示(カラーバーはT値を表示)

図2. 左前部帯状皮質の体積が小さいほどPTSD症状が重症であることを示す散布図

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、1995年におきた東京地下鉄サリン事件の被害者の方々の協力を得て、心的外傷体験後の心的外傷後ストレス障害(PTSD)発症の有無による脳形態の差を、voxel-based morphometry(VBM)により全脳から細かなボクセル単位で探索した。地下鉄サリン事件の被害者は、アルコール関連障害・薬物乱用・うつ病などの、脳形態に影響しうる要因の併存が、欧米のPTSD研究サンプルと比較して少ない。したがって、こうした要因を最小限に制御した上でPTSDと関連した脳形態異常を検討したものであり、下記の結果を得ている。

36名の事件被害者のうち9名にPTSD診断を認めた。別の10名は、診断基準上必須のPTSD症状3項目のうち1-2項目を満たし、PTSD診断の有無による脳形態の差をより明確にするため、この10名は解析から除外した。さらに別のアルコール依存症と診断された1名も、アルコール関連障害による脳形態への影響を考慮し除外した。残り16名は、PTSDを含めた精神神経疾患の既往を認めなかった。最終的に、9名のPTSD診断を有する被害者と、16名のPTSD診断を有さない被害者を対象とした。これら2群に、年齢・男女比・教育歴・本人および両親の社会経済状況尺度、事件直後およびMRI撮像時点の血中コリンエステラーゼ値の有意差はなかった(表1)。PTSDと診断された9名の中には、うつ病(1名)やパニック障害(2名)の合併症を認めたが、これらの合併率も両群で有意差を認めなかった。

PTSD診断を有する群では、PTSD診断を有さない群に比べ、左ACCに有意に灰白質濃度が低い部位を認めた([x,y,z(mm)]=[-8,12,32],k=113,Z-score=4.33)(図1)。海馬も含め、ACC以外の灰白質部位および全ての白質部位では、PTSD診断の有無による有意差を認めなかった。さらに、ACCの灰白質濃度と血中エステラーゼ値との相関も認めず、この部位の体積減少がサリンの神経毒によるものではないと示唆された。

PTSD診断を有する群では、群間差の認められたクラスター内(左ACC)の灰白質濃度と、PTSDの重症度に有意な負の相関を認めた(-8,12,28],Z=4.36)(図2)。また、他にPTSD重症度と有意な相関を示す部位はなく、ACCの体積は、年齢・身長・体重・本人および両親の社会経済的背景・羅病期間・外傷体験強度・血中コリンエステラーゼ濃度などの指標との有意な相関を示さなかった。

以上、本論文はPTSD研究に世界で初めてVBMを応用し、PTSD診断の有無および重症度と関連した脳形態異常部位として、これまで形態解析がされていなかった左半球のACC体積減少を見出した。これらの結果は、注意機能や情動の制御に関わるACCが、PTSDの病態において重要な役割を持つことを示唆しており、今後のPTSDの病態解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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