学位論文要旨



No 121401
著者(漢字) 糸山,智
著者(英字)
著者(カナ) イトヤマ,サトル
標題(和) アンギオテンシン変換酵素(ACE)とACE2の遺伝的多型と、重症急性呼吸器症候群(SARS)重症化機構の探究
標題(洋)
報告番号 121401
報告番号 甲21401
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2649号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長瀬,隆英
 東京大学 特任教授 山崎,力
 東京大学 助教授 滝澤,始
 東京大学 助教授 土屋,尚之
 東京大学 講師 森屋,恭爾
内容要旨 要旨を表示する

重症急性呼吸器症候群(SARS)は2003年に世界的に流行した新興感染症である。SARSは発症した場合に死亡率が約10%に達するため、重症化機構を含めた病態の解明が急務である。感染症の重症化の要因を考える場合、大きくウイルス側の要因と宿主側の要因に分けられる。原因病原体であるSARS-CoVに同じように曝露されながら、発症者の70〜80%は自然軽快する一方で、致死的な肺炎に発展する症例もあり、SARS重症化には宿主側の要因とその個体差の関与が予想された。

重症化したSARSの肺病変は、ARDSの状態である。急性期のARDSは、血管内皮細胞と気道上皮細胞の傷害が重要な要素と理解されており、細胞のアポトーシスや炎症細胞の浸潤が関与すると考えられている。

レニンアンギオテンシン系(RAS)は、人体における主な血圧の調節機構であり、主に肺の血管内皮から分泌されるACEにより、AT-IIが産生される。AT-IIは強い血管収縮作用を示すが、一方でAT-IIが肺局所において、血管透過性の亢進、肺胞上皮細胞のアポトーシスや炎症細胞の浸潤を促進するなど、RASの構成要素であるAT-IIは、ARDSの炎症病態にも重要な役割を果たすことが明らかになりつつある。

また、RASの新たな構成要素であるACE2が、SARS-CoVのウイルスレセプターの1つであることが報告された。ACE2もウイルスレセプターとしての働きを介して、SARSの病態に影響を与える可能性が考えられる。さらにACE2はRASにおいて、AT-IIを減少させる。ACEはAT-IIを増加させ、両者はAT-II量の調節に関して、拮抗的に働く。このことから、ウイルスレセプターとしての働きとAT-IIの量を負の方向に調節する働きをもつACE2が、正の方向へ調整するACEと拮抗しながら、SARSの病態と重症化に関与している可能性が推測される。

個体差という視点からも、ACE遺伝子のイントロン16に存在するdeletion(D)/insertion(I)の遺伝的多型のDアリルが、ARDSの発症と予後に関連することが報告されている。さらに、この多型のDアリルと末梢血液中のACE活性との関係も知られており、D型が機能的にACEの高発現型であり、ARDSの病態増悪に関与している可能性が推測される。

以上より、拮抗するACEとACE2の活性のバランスに基いて、RASはAT-IIなどを介してSARSの重症化機構に関与する可能性があり、遺伝的多型にもとづくRASの個体差がSARSの発症と重症度に関与するのではないかと考え、以下の2つの作業仮説を立てた。

ACE遺伝子のD/I多型は機能的に意味があり、SARSの重症化(ARDS)に関与している

ACE2の遺伝的多型が、SARS-CoVのレセプターとして、あるいはRAS系の構成要素として、SARSの病態に影響を与える

この2つの仮説の検証を、SARSの流行が認められた国の1つである、ベトナムとの共同研究により行った。ベトナム国内の流行は、発端となった1症例から、主に病院内感染により、短期間に感染が拡大した。ウイルスへの曝露の状況が比較的均一で、しかも患者のほとんどがベトナム人であったことから、ベトナムの患者集団と同一病院の接触非発症コントロール集団はSARSと遺伝的多型の関係の検証に適した集団であった。

SARS発症群44人、SARS患者と接触したが発症しなかった接触コントロール群103人、非接触コントロール群50人を対象とし、さらにSARS発症群を、酸素投与を指標に、低酸素血症群22人、非低酸素血症群22人に分けた。対象者の末梢血よりゲノムを抽出し、遺伝的多型の解析に用いた。また血漿中の抗SARS-CoV抗体を測定した。この重症度分類の方法は、胸部レントゲン写真における肺病変の広がりとの相関を確認することによって、妥当性があると判断した。

ACE遺伝子のD/I多型はPCR法でタイピングを行った。解析の結果、非低酸素血症群と比較して低酸素血症群においてDアリルの頻度が有意に高かった(p=0.013)。SARS発症、接触非発症、非接触非発症の群間ではこの差はなかった。さらに年齢、性別、SARS患者との接触の程度も、SARSの発症や重症化との関連はなく、Dアリルが独立したSARS重症化の危険因子であることが示された。

仮説2の検証について、ヒトの肺組織からのACE2全長cDNAクローニングにより、気道における発現エクソンを確認したうえで、全ての発現エクソンに存在する遺伝的多型をスクリーニングし、SARSとの関連解析を行った。スクリーニングによって13ケ所の新しいSNPsを含め、19ケ所のSNPsを同定したが、いずれのSNPsも、SARSの感染や発症との関係を見出せなかった。

しかし、ACE2遺伝子cDNAクローニングの過程で、5'-RACEによりエクソン1よりも5'側上流に新しいエクソンを発見し、ACE2遺伝子には2つの転写開始点が示された。また、RT-PCRにより、SARS-CoVの複製の場と考えられている肺や小腸において、その発現が確認された。この新エクソンは非翻訳領域であり、ACE蛋白の構造に直接影響を与えないが、mRNAの安定性やプロモーター活性の違いなどを介して、ACE2蛋白の発現量に影響を与えるかもしれない。

さらに、ACE遺伝子D/I多型のDアリルとSARSの重症化が関連する結果を受けて、この多型の機能的意義の検討を試みた。全身を循環するRASとは独立して、臓器局所のRASの存在が知られ、RASの鍵となる酵素であるACEは主に肺の血管内皮で発現することからも、ARDSが起こる肺局所におけるD/I多型のACE発現に与える影響の検討が必要と考えた。

本研究では、ACE遺伝子D/I多型ヘテロの細胞において、D/I多型の各アリル由来のmRNAの発現比を測定した。この検討には、ヒト末梢血液白血球、培養HUVEC、培養気管支上皮細胞より抽出したtotalRNAを使用した。まず、D/I多型の各アリル由来のmRNAをRT-PCRによりDNAとして増幅した。そして、イントロンの多型であるD/I多型とほぼ100%連鎖不平衡であるエクソン上のA/GのSNPにおいて、D/I多型のIと連鎖不平衡のSNPのGのみが切断される酵素を用いてRFLPを行った。PCRの相補鎖プライマーを蛍光色素で標識しておき、PAGEで分離した各アリル由来のPCR-RFLP産物の量を蛍光度で測定し、D/I比を算出した。

この実験系は同一条件の細胞集団のmRNAの発現比を測定するので、mRNAの転写に与える影響として、アリルの違い以外の細胞の要素や培養条件が一定である。すなわち、ACE遺伝子アリル特異的mRNA発現量の違いは、D/I多型を含めたアリル自体の機能の違いによると考えられる。さらに、RTに使用するtotal RNA、PCRのサイクル数、PCRのDNA polymerase、そしてRFLPの酵素を変えて比較検討することによって、この実験系を用いてサンプル間でD/I比を比較することができることを確認した。

ヒト末梢血白血球は10サンプル中3サンプルでACE遺伝子D/I多型がヘテロであった。HUVECは12サンプル中6サンプル、気管支上皮細胞は50サンプル中26サンプルでD/Iヘテロであった。それぞれのサンプルで実験を行ったところ、末梢血白血球におけるACE遺伝子アリル特異的mRNAのD/I比は1.63であり、過去の報告のD/I=1.79に近似した。それに対して、培養HUVECと培養気管支上皮細胞においては、その発現比がそれぞれ3.57、3.02と明らかに高かった。DアリルのACE発現に与える影響が、気管支上皮や血管内皮といった肺局所において、これまでに理解されていた以上に大きい可能性が示唆された。さらに、HUVECの6サンプル中の2サンプルと、気管支上皮細胞の26サンプル中の5サンプルにおいて、他のサンプルと比較してmRNAのD/I比が突出して高かった。今回発見したこのような現象は、これまでには報告がない。長年の研究にも関わらず、イントロンに存在するこのD/I多型がACEの発現に影響を与える機序は解明されていない。今回観察された現象からも、ACEの発現に個体差を与える因子として、D/I多型以外の因子の存在を想定し探索する必要がある。

本研究の遺伝的多型とSARSの関連解析から、ACE遺伝子D/I多型のSARS重症化への関与が支持された。さらにこのD/I多型はACE発現に、肺局所においてより大きい影響を与える可能性が示された。ACE活性の個体差が病変局所のAT-IIの産生量の個体差を生み、サイトカイン様の働きを示すAT-IIが血管透過性の亢進や炎症細胞の浸潤、細胞のアポトーシス促進を介してARDSを発症する傾向を強めるかもしれない。最近の報告では、SARS-CoVのspike蛋白の刺激により、レセプターであるACE2の発現が抑制されることと、ACEとACE2のアンバランスがAT-IIの量の変化を生み、肺障害の程度に影響を与えることが示されており、これらのことを踏まえると、SARS-CoVの感染によりACE2の発現が抑制されると、ACEを高発現するDアリルを持つ個体では、よりバランスがACE側に傾き、ARDSを発症する傾向が強くなる可能性も推測される。

このような研究から、RASがARDS発症機序に関与することが、今後、より一層明確になれば、治療にも新たな道が開かれるのではないかと期待される。

審査要旨 要旨を表示する

重症急性呼吸器症候群(SARS)は、SARSコロナウイルス(SARS-CoV)による新興感染症であるが、他のコロナウイルス感染症と比較して、明らかに致死率が高い。本研究はSARSの重症化機構の一部を明らかにすることを目的とし、重症化に関与すると予想されるレニンアンギオテンシン系について、その構成要素であるアンギオテンシン変換酵素(ACE)と、構成要素でありつつSARS-CoVのウイルスレセプターでもあるACE2の遺伝的多型と、SARS-CoVの感染、SARSの発症と重症化との関連を解析している。さらにACE2遺伝子の新たに発見したエクソンの検討と、ACEの遺伝的多型のACE発現に与える影響の検討を行い、以下の結果を得ている。

ベトナム人のSARSを発症し回復した人とコントロールのゲノムを用いて、ACE遺伝子のイントロン16に存在する挿入、欠失の多型と、SARSの重症度との関連を解析した結果、非低酸素血症群と比較して、低酸素血症群ではACE遺伝子の欠失アリルの頻度が有意に高いことが示された。性別、年齢、ウイルス曝露の程度と合わせたロジスティック解析から、個体の欠失アリルの保有数は独立したSARS重症化のリスクファクターである可能性が示唆された。また、この遺伝的多型はSARS-CoVの感染とSARSの発症には関与していなかった。

同じゲノムを用いて、ACE2の遺伝的多型とSARSの関連を解析した結果、ベトナム人では、ACE2遺伝子のエクソンとプロモーター領域に19ケ所の一塩基多型(SNP)が存在したが、いずれのSNPもSARSとの関連は示されなかった。

ACE2遺伝子の全長cDNAクローニングの結果、エクソン1において5'側に伸長するバリアントの存在と、エクソン1よりも5'側に新しいエクソンが存在することが示された。様々な臓器由来のtotal RNAを用いたRT-PCRの結果、この新しいエクソン領域はSARS-CoVの感染と複製の場と考えられている気道や小腸で発現していることが示された。さらに、この遺伝子には複数の転写開始点が存在する可能性が示された。

ACE遺伝子の挿入、欠失多型について、遺伝子型がヘテロであるヒト末梢血白血球(BEC)、気管支上皮細胞(BEC)、臍帯静脈血管内皮細胞(HUVEC)を用いて、アリル特異的mRNAの発現量を検討した結果、欠失アリル由来のmRNAは挿入アリル由来のmRNAに対して発現量が多く、WBCでは1.63倍、BECでは3.02倍、HUVECでは3.57倍であった。すなわち、SARSの炎症の場である気道上皮や血管内皮において、ACE遺伝子のこの多型はより重要である可能性が示された。

以上、本論文はACEの遺伝的多型とSARSの重症度との関係と、炎症の場におけるこの多型のACE発現に与える影響の大きさを示すことにより、レニンアンギオテンシン系がSARS重症化機構に関与する一端を明らかにした。さらに、本研究はSARS-CoVのウイルスレセプターでもあるACE2遺伝子の、これまでに知られていなかった新しいエクソンの存在を明らかにした。これらの結果は今後のSARSの研究に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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