学位論文要旨



No 121429
著者(漢字) 吉川,真弘
著者(英字)
著者(カナ) ヨシカワ,マサヒロ
標題(和) ヒストン脱アセチル化酵素阻害による腎線維化抑制
標題(洋)
報告番号 121429
報告番号 甲21429
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2677号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五十嵐,隆
 東京大学 教授 北村,唯一
 東京大学 助教授 関根,孝司
 東京大学 講師 関,常司
 東京大学 講師 野入,英世
内容要旨 要旨を表示する

背景および目的

腎における尿細管の萎縮と間質の線維化は、慢性的な腎機能低下の原因となる。epithelial-mesenchymal-transition(EMT)は、上皮細胞が間葉系細胞に形質転化する現象であるが、成体腎においては尿細管の萎縮や線維化の増大により、慢性的な腎機能低下を招く。慢性的な腎機能低下に対しては、様々な治療法が試みられているが、未だ確立されたものは無い。

近年、遺伝子発現の制御にchromatin remodelingが関与していることが明らかになってきている。histone acetylationはhistone acetyltransferase (HAT)とhistone deacetylase (HDAC)の相互作用によって調節されている。histone acetylationの増加により、chromatin構造は弛緩したeuchromatinの状態となって、転写調節因子が種々の遺伝子のpromoter領域に作用することが可能となり、遺伝子発現が調節される。Tricostatin A(TSA)を始めとする種々のHDAC-inhibitorは、発生や発癌を制御し得る薬剤として大きく注目されているが、抗線維化作用も有することが肝、皮膚、肺などの臓器で報告されている。しかしその機序については大部分が未解明であり、腎線維化に対しては過去に全く検討がなされていない。

我々は、chromatin remodelingを介した遺伝子制御機構による腎臓再生を目指している。その一環として今回、培養ヒト近位尿細管細胞を用いて、EMT誘導因子であるTGF-β1誘導性の線維化が、TSAによって抑制され得るかを検討するとともに、その機序の解明を試みた。

方法と結果

培養ヒト近位尿細管細胞に対しTGF-β1およびTSAを作用させ、細胞形態変化や、上皮marker遺伝子E-cadherinおよび線維化marker遺伝子Collagen type Iの発現変化を調べた。TGF-β1誘導性の線維化に伴う紡錘状の細胞形態変化、E-cadherinの減少、Collagen type Iの増加は、すべてTSAによって抑制された。TSAは上皮細胞のphenotypeを維持する方向に働き、またTGF-β1が有する線維化作用に拮抗することが示唆された。

次にTSAが、TGF-β1のsignal経路のどの段階で拮抗しているかを検討するために、Smad2およびSmad3のリン酸化の変化をWestern-Blotによって調べた。TGF-β1によるSmad2およびSmad3のリン酸化は、TSAでは抑制されなかった。TSAはSmad2およびSmad3のリン酸化よりも下流の段階で、TGF-β1の線維化作用に拮抗することが推察された。TSAが有する遺伝子制御機構によって、何らかの抗線維化因子が誘導されている可能性が考えられた。

過去の報告から、TGF-β1誘導性の線維化に拮抗し得る因子を調べ、その遺伝子発現の変化をreal-time RT-PCRによって調べた。検討したBMP-7,HGF,Ski,SnoN,TGIF,Id1,2,3の中で、Id2,BMP-7,TGIFの遺伝子発現がTSAの作用によって増加していた。TSAは、これらの遺伝子発現の誘導を介して、TGF-β1の線維化作用に拮抗している可能性が考えられた。

これまでに認められた遺伝子発現の増加が、TSAによるchromatin remodelingの結果であるかを検討した。まずWestern-Blotによって、acetylated histoneの総量の変化を調べた。その結果、TSAの作用によりacetylatedhistoneの総量が増加していた。更に、個々の遺伝子がchromatin remodelingの影響を受けているかを検討するため、上皮markerであるE-cadherinと、抗線維化因子であるId2およびBMP-7遺伝子について、chromatin immunoprecipitation assayによって、promoter領域のacetylated histoneが増加しているかを調べた。その結果、TSAの作用により、E-cadherin遺伝子のpromoter領域ではacetylated histone H3とH4が、Id2遺伝子のpromoter領域ではacetylated histone H3が、BMP-7遺伝子のpromoter領域ではacetylated histone H4が、有意に増加していた。以上より、TSAによるE-cadherin,Id2,BMP-7の遺伝子発現増加は、chromatin remodelingを介していることが示された。

考察

HDAC-inhibitorは肝、皮膚、肺において、線維化抑制の報告があるが、その機序は未解明である。TSAはMPL-1pr/1pr mouseにおける腎炎に対して改善効果を認めているが、腎線維化に対する改善効果は未検討である。今回我々は、TSAがTGF-β1に拮抗し得る因子を誘導し、ヒト近位尿細管上皮細胞におけるTGF-β1誘導性の線維化を抑制することを示した。

TGF-β1のsignalは、リン酸化されたSmad2および3がSmad4と複合体を形成し、核内に伝達される。我々の検討では、TSAはTGF-β1によるSmad2およびSmad3のリン酸化には影響を与えなかった。このことは、TSAがSmadのリン酸化よりも下流においてTGF-β1のsignalを抑制していることを示唆している。

BMP-7は腎保護因子として報告されている。nogginやchordinなどBMP-7を抑制する因子は多く知られており、またLinらは、kielin/chordin-like proteinがBMP-7 signalを増強することを報告したが、BMP-7の発現を増加する因子は未だ報告されていない。今回の結果は、TSAがBMP-7の発現を誘導することを初めて示唆するものである。

今回、TSAによって、BMP-7の他に、抗線維化因子として報告のある、Id2,TGIFの発現が誘導された。線維化抑制の機序に関して、TSAによってTGIFのmRNA発現が誘導された報告は少なくとも過去に1例あるが、BMP-7とId2に関しては今回が初めての報告である。以上の結果より、TSAはTGF-β1のsignal伝達をSmadリン酸化より上流で遮断するのではなく、Id2,BMP-7,TGIFの拮抗因子を誘導することにより、それより下流で阻害するものと考えられる。

今回検討した遺伝子の発現増加は、TSAによるchromatin remodelingの直接の結果であることが示唆された。一般にHDAC-inhibitorによって発現が誘導される遺伝子は全遺伝子の10%未満と言われているが、TGF-β1誘導性線維化の抑制に関わる全遺伝子を決定するには、microarrayなどの包括的な解析が必要と思われる。しかし、HDAC-inhibitorは複数の遺伝子発現を同時に調節することで、BMP-7やHGFなどの薬剤を単独で用いた場合よりも大きな治療効果が得られる可能性もあり、過去の報告や今回の結果から、TSAの抗線維化作用は一層明確となったと考えられる。

今回我々は、培養ヒト近位尿細管細胞において、TSAがTGF-β1が有する線維化作用に拮抗することを示した。その機序の一端として、Id2、BMP-7、TGIFの遺伝子発現増加の関与が示唆された。これらの結果は、今後TSAや他のHDAC-inhibitorが、chromatin remodelingを介した腎線維化抑制作用による、新しい腎不全治療薬として臨床応用される可能性を示唆している。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、不可逆的な病態と考えられている慢性腎不全の新たな治療法を探るべく、培養ヒト近位尿細管上皮細胞におけるTGF-β1誘導性のEMTおよびそれに伴う腎線維化が、ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤であるTSAによって抑制されるかを検討するとともに、chromatin remodelingの関与を検証したものであり、以下の結果を得ている。

培養ヒト近位尿細管上皮細胞に対してTGF-β1およびTSAを作用させ、細胞形態変化や、上皮marker遺伝子E-cadherinおよび線維化marker遺伝子Collagen type Iの発現変化を調べた。TGF-β1誘導性の線維化に伴う紡錘状の細胞形態変化、E-cadherinの減少、Collagen type Iの増加は、すべてTSAによって抑制された。TSAは上皮細胞のphenotypeを維持する方向に働き、またTGF-β1が有する線維化作用に拮抗することが示唆された。

次にTSAが、TGF-β1のsignal経路のどの段階で拮抗しているかを検討するために、Smad2およびSmad3のリン酸化の変化を調べた。TGF-β1によるSmad2およびSmad3のリン酸化は、TSAでは抑制されていなかった。TSAはSmad2およびSmad3のリン酸化よりも下流の段階で、TGF-β1の線維化作用に拮抗することが示された。

過去の報告上、TGF-β1誘導性の線維化に拮抗し得る因子について、その遺伝子発現の変化を調べた。検討したBMP-7,HGF, Ski,SnoN,TGIF,Id1,2,3の中で、Id2,BMP-7,TGIFの遺伝子発現がTSAの作用によって増加することが示された。

これまでに認められた遺伝子発現の増加が、TSAによるchromatin remodelingの結果であるかを検討した。まずWestern-Blotによる解析で、TSAの作用によりacetylated histoneの総量が増加することが示された。更に、個々の遺伝子がchromatin remodelingの影響を受けているかを検討するため、上皮markerであるE-cadherinと、抗線維化因子であるId2およびBMP-7遺伝子について、chromatin immunoprecipitationによる解析で、promoter領域のacetylated histoneが増加しているかを調べた。その結果、TSAの作用により、E-cadherin遺伝子のpromoter領域ではacetylated histone H3とH4が、Id2遺伝子のpromoter領域ではacetylated histone H3が、BMP-7遺伝子のpromoter領域ではacetylated histone H4が、有意に増加していた。以上より、TSAによるE-cadherin,Id2,BMP-7の遺伝子発現増加は、chromatin remodelingを介していることが示された。

以上、本論文は、培養ヒト近位尿細管上皮細胞におけるTGF-β1誘導性のEMTおよびそれに伴う腎線維化が、ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤であるTSAで抑制されることを示した。本研究はこれまで検討されたことが無かった、ヒストン脱アセチル化酵素阻害剤の腎線維化抑制作用をヒトの細胞を用いて明らかにし、その機序の一端としてクロマチンリモデリングの関与を示したことで、慢性腎不全に対する新たな治療法の可能性を示しており、学位の授与に値するものと考えられる。

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