学位論文要旨



No 121444
著者(漢字) 古賀,一郎
著者(英字)
著者(カナ) コガ,イチロウ
標題(和) 抗HIV療法中の薬剤耐性変異に関する研究
標題(洋)
報告番号 121444
報告番号 甲21444
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2692号
研究科 医学系研究科
専攻 内科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 教授 北,潔
 東京大学 助教授 俣野,哲朗
 東京大学 講師 北村,義浩
 東京大学 講師 井,大哉
内容要旨 要旨を表示する

1型ヒト免疫不全ウイルス(human immunodeficiency virus type 1:HIV-1)はヒトに後天性免疫不全症候群(acquired immunodeficiency syndrome:AIDS)を引き起こす。主な感染経路は性的接触による感染、血液を介した感染、母子感染であるが、現在の我が国における新規感染者のほとんどが性的接触による感染である。

HIV感染症の治療には3剤以上の抗HIV薬を併用する強力な抗レトロウイルス療法(highly active antiretroviral therapy;HAART)が行われるようになり、体内のHIVの増殖を確実に抑制し、CD4陽性T細胞数の回復も可能となった。しかしHAARTを妨げる最も大きな要因として抗ウイルス薬に対して耐性を示すウイルスの出現が問題となっている。

また、HIV感染者における他の感染症の合併は高頻度にみられ、特に男性同性愛者(MSM)のHIV感染者における梅毒に代表される性感染症の合併は現在も増加傾向にある。今後HIV感染者の増加、HAART導入によるHIV感染者の予後の改善により性感染症はさらに増加することが懸念される。MSMを中心としたHIV感染者における梅毒の流行は、新たなHIV感染者を生み出すばかりでなく、HIV感染者が新たに別のHIV株に感染するHIV重感染(superinfection)の可能性をも孕む。さらにHIV感染者が梅毒など他の感染症を罹患後に血中ウイルス量が増加したとの報告がされているがその影響について完全には明らかになっていない。

そこで有効なHAART中に梅毒の初感染を認めた東京大学医科学研究所附属病院の4名のMSM症例について、保存されていた末梢血単核球(PBMC)を用いて梅毒感染前後のHIVプロウイルスDNAの塩基配列を決定し、他のHIV株の重感染の有無、薬剤耐性関連変異の獲得の有無、HIVプロウイルスDNAの変異の頻度を解析し、これらに対して梅毒感染が影響を及ぼす可能性について検討を行った。

4例はいずれもMSMのHIV感染者で、HAART導入以後梅毒感染まで良好に血中ウイルス量(VL)を抑制していた症例であった。症例1は、肝悪性リンパ腫でAIDSを発症後、他院にて化学療法と並行してHAARTが導入された症例であった。当院初診時から15ヶ月間VLが検出感度以下に抑制されていたが梅毒感染を契機としてVLの急増を認めた。症例2も梅毒感染前の時点と比較して梅毒感染後に十倍以上のVLの上昇を示した。症例3、4は、梅毒感染の前後での大きな変化を認めない症例であった。

まず、症例1では、梅毒感染後に確認された突然のVLの急増と多数の薬剤耐性関連変異が薬剤耐性HIV株の重感染の可能性について検証を要するものと考えられた。envV3領域のダイレクトシークエンス、サブクローンのシークエンスで得られた塩基配列とHIV-1 Mgroupの各サブタイプの参照配列、当研究室で解析した日本人患者の参照配列を用いて系統樹解析を行い、他のHIV株の重感染の可能性を検討した。この結果、過去のHIVsuperinfection報告例で示された大きな変化は梅毒感染の前後では認められなかった。

薬剤耐性関連変異がどのようにして蓄積したかを明らかにするため梅毒感染前に二点(1-1,1-2)、梅毒感染後に二点(1-3、1-4)を選び、PR領域、RT領域について塩基配列の経時的変化を決定した(図1)。その結果、梅毒感染後に確認された薬剤耐性関連変異のうち、ZDV耐性に関連するM41L、L210Wが1-1時点ですでに存在し、ZDV耐性変異からの復帰変異であると考えられるT215Dも確認された。またVLが検出感度以下で経過していた1-2時点でもPR領域にM46Iが新たに加わり、さらに梅毒感染時(1-3)にRT領域のD67N、M184V、T215Y、PR領域のD30N、N88Dも加わって合計9カ所まで増えたことが分かった。また梅毒感染2ヶ月後ではRT領域のD67N、M184V、T215Y、PR領域のD30N、 M461、D88Nの6カ所(いずれも1-1時点以後に獲得された変異)の薬剤耐性変異部位で野生型アミノ酸の再出現が確認された。

以上から症例1では梅毒感染前に4カ所の薬剤耐性変異を保持し、梅毒感染後に血中ウイルス量の増加とともにさらに5カ所の薬剤耐性変異を獲得したことが明らかになった。1-4の時点で9カ所の薬剤耐性変異のうち6カ所で、野生株や薬剤感受性株の塩基配列への復帰が一部のサブクローンに認められた原因として、服薬の不履行による血中薬剤濃度の低下や梅毒感染によるHIV感染細胞の活性化により潜在していた野生型株が増加した可能性が考えられた。また、梅毒による影響ではないが、 HAART導入後一貫して血中ウイルス量が検出感度以下に抑えられ良好な治療経過を辿っていたとしても元々薬剤耐性関連変異を持つウイルス株に感染している可能性、またVLが検出感度以下で経過していても新たな変異を蓄積する可能性についても明らかになった。

次に症例2について、梅毒感染後に梅毒感染前と比較して10倍以上のVLの上昇を示したことから症例1と同様に梅毒感染前(2-1)、梅毒感染後(2-2)の2時点を設定し、薬剤耐性関連変異の変化、envV3領域の塩基配列の変化を調べた。envV3領域の塩基配列は梅毒感染前後とも同一であり、症例2でもHIVの重感染の可能性は示唆されなかった。

梅毒感染前のサブクローンのRT領域のシークエンスでは塩基配列を決定した20株全てに薬剤耐性関連変異(V179D)が-カ所確認された。また梅毒感染後には新たにV106M(20株中3株)、M184V(20株中5株)の2カ所の薬剤耐性変異が確認された(図2)。その一方でV179Dは全体の40%のサブクローンからしか確認されなかった。

梅毒感染後に新たに確認された薬剤耐性関連変異の一つであるM184Vはこの例が過去に内服していた薬剤3TCに対して強力に耐性を示す変異であり、またM184Vを含む株はいずれも梅毒感染前の2-1で全株から確認されたV179Dを持っていなかった。そのためM184Vを持つ株は2-1よりさらに過去の時点で耐性変異を獲得したものと考えられた。このようなHIVが出現した原因として梅毒感染後にサイトカインが増加し潜伏感染HIVの活性化を促進した可能性が考えられた。

これら2例の結果から、梅毒感染後に血中ウイルス量が増加した原因として、梅毒感染による潜伏感染HIVを含めた体内のHIVの活性化、抗HIV薬内服の不十分な履行の可能性が考えられた。また可能性は限定されるものの類似した塩基配列を持つHIVの重感染の可能性を完全に否定することは出来なかった。

梅毒感染の前後でVLの変化がほとんど見られなかった症例3、4では、いずれも梅毒感染前にRT領域、PR領域に薬剤耐性に寄与する変異はなく、梅毒感染後にも新たな薬剤耐性関連変異の獲得はなかった。しかし症例4では、梅毒感染後の時点で一時的にenvV3領域の塩基配列に他の時点とは異なる配列が多く見られた。また塩基配列の変化はenvV3領域に限定されていて、またその変化は一時的であった。envV3領域の塩基配列の変化の原因として症例1、症例2で挙げた梅毒感染後に潜伏感染HIVが活性化され、再出現した可能性が考えられた。

最後に、全症例の梅毒感染前後のHIVプロウイルスDNAの塩基配列を用いて、2時点間の変異蓄積を定量化するEvolutionary Distance(ED)を計算し、梅毒感染が塩基配列の変化に及ぼす影響を検討した。envVZ領域の変化について、V3領域のEDが比較的大きかった2例(症例1,4)でも、過去のHIVのsuperinfection報告例に見られる大きな変化を認めることは出来なかった。また、RT領域についての解析から梅毒感染後に血中ウイルス量が増加した2例だけでなく、血中ウイルス量に変化を認めなかった2例でも梅毒感染前後で一定の変化が認められた。しかし梅毒感染後に塩基配列の変異が促進された可能性は示唆されなかった。

今回解析した有効なHAART下で梅毒を合併した4例のうち2例では、梅毒感染後に血中ウイルス量が増加し、その一例は治療失敗から薬剤の変更を余儀なくされた。また血中ウイルス量が増加したもう一例では、梅毒感染後に増加した血中ウイルス量はその後元の水準まで収束し、治療失敗には至らなかったが、新たに薬剤耐性変異の獲得により将来の薬剤の選択肢を減らしうる結果となった。また血中ウイルス量が変化しなかった2例のうちの1例を含め、4例中3例で梅毒感染後に体内のHIVが増殖した可能性や潜伏感染HIVが活性化された可能性が考えられた。

MSMを中心としたHIV感染者における梅毒の高頻度の合併はやはり看過されるべきではなく、HAART中のHIV感染者における梅毒に代表される性感染症の合併の影響について今回の研究から得られた知見をHIVの臨床の場に還元し、HIV感染者における性感染症の蔓延を抑止していくことが求められた。また今回の研究では対象症例が4例に留まったが、今後該当する症例があればさらに検討を続けていきたいと考えた。

図1症例1における薬剤耐性関連変異の経時的変化(経過中を通じてZDV+3TC+NFVを服薬)

症例1の1-1から1-4までの各時点での薬剤耐性関連変異の獲得状況を示す。

図中□は薬剤耐性変異アミノ酸を、-は野生株と同一のアミノ酸であることを示す。

分数はサブクローンのシークエンスから得られたウイルス株の存在比率を示す。

なお、1-2、1-4のRT領域は前半、後半を別々に増幅し、サブクローンの解析を行った。

*は同じ列のRT領域前半とRT領域後半が同一の株であることを示す。

図2 症例2におけるRT領域の薬剤耐性関連変異の変化(経過中を通じてd4T+ddl+EFVを服薬)

症例2の2-1、2-2の各時点での薬剤耐性関連変異の獲得状況を示す。

図中□は薬剤耐性変異であることを示す。-は野生株のアミノ酸と同一であることを示す。

分数はサブクローンのシークエンスから得られたウイルス株の存在比率を示す。

審査要旨 要旨を表示する

HIV感染者における急性感染症、特に梅毒に代表される性感染症の合併は昨今のHIV臨床における懸案事項である。本研究は抗HIV療法中のHIV感染者における性感染症の合併が及ぼすHIV感染症への影響を明らかにするために、有効なHAART下で梅毒を合併した4症例についてHIVプロウイルスDNAの解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

複数の抗HIV薬による強力な抗レトロウイルス療法(HAART)により良好に経過中に梅毒初感染を認めた四名について梅毒感染前後のHIVプロウイルスDNAの解析を行い、血中ウイルス量の変化、薬剤耐性変異の獲得の有無を含めた塩基配列の変化、新たなHIVへの重感染(superinfection)の有無について解析し、梅毒感染の及ぼす影響について検討した。

4例中2例で梅毒感染後に血中ウイルス量の増加を認めた。これら2例では、梅毒感染後に新たな薬剤耐性変異の獲得を認めた一方で一部のサブクローンで野生型の再出現も認められた。また1例では梅毒感染後に過去に内服していた抗HIV薬に関連した耐性変異の出現を認めた。これら2例の結果から、梅毒感染後に血中ウイルス量が増加した原因として、梅毒感染によるHIV感染細胞の活性化、抗HIV薬内服の不十分な履行の可能性が考えられた。また可能性は限定されるものの今回の結果から類似した塩基配列を持つHIVの重感染の可能性を否定することは出来なかった。

4例中2例では梅毒感染前後で血中ウイルス量の変化を認めなかった。この2例では、梅毒感染後に一定の塩基配列の変化は見られたものの、新たな薬剤耐性変異の獲得は見られなかった。一例では、envV3領域に限定して梅毒感染後に一過性に変化を認めた。

また、4例の梅毒感染前後の塩基配列の変化を定量的に解析したところ、梅毒感染後に血中ウイルス量が増加した2例だけでなく、血中ウイルス量に変化を認めなかった2例でも梅毒感染前後で一定の変化が認められた。しかし梅毒感染後に塩基配列の変異が促進された可能性を示唆するものではなかった。

今回解析した有効なHAART下で梅毒を合併した4例のうち2例では、梅毒感染後に血中ウイルス量が増加し、その一例は治療失敗から薬剤の変更を余儀なくされた。また血中ウイルス量が増加したもう一例では、梅毒感染後に増加した血中ウイルス量はその後元の水準まで収束し、治療失敗には至らなかったが、新たに薬剤耐性変異の獲得により将来の薬剤の選択肢を減らしうる結果となった。また血中ウイルス量が変化しなかった2例のうちの1例を含め、4例中3例で梅毒感染後のHIVの増殖、潜伏感染HIVが活性化された可能性が考えられた。

以上、本論文は有効な抗HIV療法中のHIV感染者における梅毒感染前後のHIVプロウィルスDNAの解析から梅毒感染時のHIVのsuperinfectionの可能性、梅毒感染により塩基配列の変異が促進された可能性は示唆されなかったが、その一方で梅毒感染後のHIVの増殖、潜伏感染HIVの活性化の可能性が考えられた。本研究は、これまで解明が不十分で未知の部分の多い有効な抗HIV療法中のHIV感染者における性感染症の合併が及ぼすHIV感染症への影響の解明に貢献をなすとともにHIV感染者における性感染症蔓延の抑止力になりうると考えられ、学位の授与に値すると考えられる。

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