学位論文要旨



No 121460
著者(漢字) 河田,光弘
著者(英字)
著者(カナ) カワタ,ミツヒロ
標題(和) 胸部大動脈手術における脳保護
標題(洋)
報告番号 121460
報告番号 甲21460
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第2708号
研究科 医学系研究科
専攻 外科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 矢作,直樹
 東京大学 助教授 森田,明夫
 東京大学 助教授 村上,新
 東京大学 講師 柴田,政廣
 東京大学 講師 相原,一
内容要旨 要旨を表示する

これまでに心臓血管外科領域は著しく発展してきた。しかしながら、胸部大動脈手術、特に大動脈弓部手術における脳障害の発生率は他の心臓血管外科手術と比べてまだ高い。大動脈弓部手術では手術部位の特徴として腕頭動脈、左総頸動脈、左鎖骨下動脈を切り離し、その再建が必要となる。この3本の血管はいずれも脳へ血液を供給する血管(鎖骨下動脈は椎骨動脈を分岐し脳へ至る)でありその再建中に脳虚血をいかに防ぐかが極めて重要になる。脳障害は、十分な酸素供給を得られずに発生する広範囲な低酸素脳症、動脈硬化の著しい血管壁の粥腫が飛ぶことによって起こる脳梗塞、が挙げられる。これは生命にかかわる重篤な合併症で、救命できてもその後の生活は著しく制限を受けることになってしまう。我々心臓血管外科医が克服すべき問題である。現状では各種の脳保護法が各施設で工夫され実用されている。代表的な脳保護法としては次の3つがある。

超低体温循環停止法(Deep Hypothermic Circulatory Arrest:DHCA)

人工心肺を使用して体温を18〜20℃まで下げ、目標温度に達したところで人工心肺を止める。その間に大動脈弓を人工血管に置換し弓部分枝(腕頭動脈、左総頸動脈脈、左鎖骨下動脈)を再建する。最も簡便で大動脈弓手術における脳保護法として広く使われてきた方法である。利点としては循環を停止している間、無血視野を得る事ができる。欠点としては許容時間に制限があり教科書的には30分間程度とされている。

逆行性脳灌流法(Retrograde Cerebral Perfusion:RCP)

DHCAに組み合わせてより脳保護効果を高める方法である。通常、人工心肺を確立するには上大静脈、下大静脈より脱血し静脈血を人工肺にて酸素化し、ポンプで上行大動脈、または大腿動脈より送血している。低体温となったところで循環を停止し大動脈弓を切開する。この時、弓部分枝は大気開放となっている。そこで上大静脈に留置してある脱血管より酸素化された血液を送ることにより静脈→細静脈→毛細血管→細動脈→動脈と灌流し弓部分枝からは、上大静脈から送血した血液よりも酸素濃度の低下した血液が流れ出てくる。つまり生理的血流方向とは逆の方向で血液が脳を灌流することになる。利点としては人工心肺回路のクランプ操作で脳灌流を開始でき、新たな送血管、ポンプを必要としないため手技は簡便である。術野に妨げとなる回路がなく良好な視野を得られる。弓部分枝内、脳動脈内に存在する粥腫を洗い流すことができる。許容時間を60〜90分間程度まで延ばせる。欠点は脳浮腫を来たす可能性あり、また静脈一静脈シャントを経由して十分脳組織に酸素が供給されない可能性が挙げられている。手術時間が長時間となれば許容時間の60〜90分間も欠点と言える。

順行性選択的脳灌流法(Antegrade Selective Cerebral Perfusion:ASCP)

低体温となったところで循環を停止し大動脈弓を切開し、弓部分枝にそれぞれ送血管を新たに挿入し酸素化された血液を送る。利点としては最も生理的な血液の流れであり、許容時間に制限がないとされている。ただし教科書的にはこの方法でも80分を越える場合は脳保護効果に制限があるのでは?とされている。欠点は、病的な(動脈硬化のある)弓部分枝に直接カニュレーションすることにより塞栓子を飛ばしてしまうため脳梗塞を引き起こしてしまう可能性がある。また人工心肺回路が煩雑となることや血管吻合の術野に送血管が存在し吻合の妨げになることが挙げられる。

この3つの方法の中で最も良好な脳保護効果が得られるのはどの方法か?

これまでの、基礎研究、臨床研究からはDHCA単独では、他の2つの方法に劣ってしまう事は明らかとなっている。では、RCPとASCPはどちらが最適かと言うと、最近の研究ではASCPのほうが有利ではないかとする報告が増えてきている。

一方、我々東京大学医学部附属病院心臓外科では大動脈弓手術においてRCPを積極的に行ってきたが、良好な手術成績を得て、術後の合併症発生頻度も低く維持できている。この事実はこれまで、当教室から積極的に学会発表、論文発表してきた。そこで報告されているRCPの欠点を十分に分析しRCPを改良する事でその欠点を克服し、RCPの利点は維持することができるならば、結果としてより高い脳保護効果を得られることになる。そこで、我々は新しい間歌的高圧血流を使用した逆行性脳灌流法=Retrograde Cerebral Perfusion with intermittent pressure augmentation:RCP-INTを考案し、その脳保護効果についてASCPとの比較検討実験を行った。

実験 1-1

【方法】雑種犬18頭をランダムに間歇的高圧血流を使用した逆行性脳灌流法群(RCP-INT群、n=6)、順行性選択的脳灌流法群(ASCP群、n=6)、循環停止を行わない群(Control群、n=6)に分けた。型の通り人工心肺を確立し26℃まで冷却。Control群以外は60分間循環停止。Control群は心停止後、循環は人工心肺で通常通り維持。RCP-INT群は両顎静脈から送血。15mmHgの定常流逆行性脳灌流に毎分2回灌流圧を45mmHgまで上昇させる操作を加えた。ASCP群は10-15ml/kg/minで両側総頸動脈から送血した。循環再開、加温し人工心肺を離脱、閉胸。術後12時間経過観察し深麻酔下に犠牲死。脳を病理組織学的評価した。中枢神経障害の評価として脳脊髄液中のTau蛋白を経時的に測定し比較した。

【結果】血行動態は各群間に有意差を認めなかった。術後12時間の脳脊髄液中の総Tau蛋白(pg/mL × hour)はRCP-INT群、ASCP群間で有意差を認めなかった。病理組織学的評価として虚血性変化をスコア化して比較した。RCP-INT群、ASCP群の2群間に有意差を認めなかった。

【結論】中程度(26℃)低体温、60分間の範囲ではRCP-INTはASCPと同程度の脳保護効果を得ることができた。

実験1-2

【背景】Diffusion MRIとperfusion MRIの組み合わせで超急性期虚血性脳障害を検出できるようになってきた。このモダリティを使用してRCP-INTと各脳保護法の評価を試みた。

【方法】対象は10kgのビーグル犬16頭。ASCP群(順行性選択的脳灌流 n=4)、RCP-INT群(間歌的高圧血流を用いた逆行性脳灌流 n=4)、RCP-C群(慣例の逆行性脳灌流 n=4)、CA群(循環停止のみn=4)に分けた。胸骨正中切開後、人工心肺を確立し18℃まで冷却し循環停止。各脳保護を開始。4.7T、MRIにてROIを海馬、視床、側頭葉、頭頂葉に置きADC(apparent diffusion coefficient)、rrCBV(relative regional cerebral blood volume)を求め比較し、最終的に病理組織学的評価をした。

【結果】ADC:RCP-INT群が各領域で最も良い値を示した。rrCBV:ASCP群が最も良い値を示した。病理所見はRCP-INT群はRCP-C群、CA群より有意に障害が少なく、ASCP群とは有意差を認めなかった。

【結論】RCP-INTは脳組織におけるADC値を高く保ち、良好な脳保護効果を示した。

さらに実際に起こりうる状況としては、先に述べたそれぞれの脳保護法の許容時間を大幅に超えてしまう手術がある。もしも薬剤の投与で脳を虚血に強い状態にできるならば重篤な合併症回避に光明となる。最近の研究では、腎臓で生産される赤血球造血因子のErythropoietin(EPO)が中枢神経保護作用を有する事が分かってきており、また中枢神経系にもEPOの産生、EPO receptorの存在が明らかとなってきている。そこで、長期超低体温循環停止モデルにおけるEPOの中枢神経保護効果を調べた。

実験2

【方法】10kgのビーグル犬を対象とし、ランダムに2群に分けた。術直前にEPO5000IU/kg静注:EPO群、placebo(生食)静注:Control群とした。胸骨正中切開後、型の通り人工心肺を確立し、超低体温循環停止120分。加温し人工心肺を離脱、閉胸。術後12時間経過観察し深麻酔下に犠牲死させた。中枢神経障害の評価としては脳脊髄液中のTau 蛋白を経時的に測定し比較した。術後経過中の神経学的評価はNeurological Deficit Score(NDS;0=normal、500=worst)を使用。脳脊髄は病理組織学的評価した。EPOが血行動態、hemoglobinに与える影響についても調べた。

【結果】EPOの経静脈全身投与は血液脳関門を通過し十分に脳脊髄液中に移行した。この実験中の全経過でControl群とEPO群でヘモグロビン濃度、血行動態には有意差はなかった。有意にEPO群で神経障害が少なかった。Tau蛋白は術後6時間後、12時間後とも有意にEPO群でのTau蛋白上昇が抑えられていた。病理所見ではEPOは有意に脳脊髄の虚血性変化を抑えていた。

【結論】EPOは長期超低体温循環停止における脳脊髄障害を抑制した。

まとめ

この研究の結果から、RCP-INTは有効な脳保護法であることが示され、EPOを術前に投与する事で、脳の虚血許容時間を延長できることも示唆された。これをもとに胸部大動脈手術がより安全に行えるようになると考える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、胸部大動脈手術における脳障害の発生をいかに防ぐかについて追求した研究である。大動脈弓部手術では弓部分枝再建中に脳虚血をいかに防ぐかが極めて重要になり現状では各種の脳保護法が各施設で工夫され実用されている。その各脳保護法の利点欠点を考慮し新たに考案した間歇的高圧血流を使用した逆行性脳灌流法=Retrograde Cerebral Perfusion with intermittent pressure augmentation:RCP-INTの脳保護効果について検証し下記の結果を得ている。

実験1-1

雑種犬を対象にした実験で間歇的高圧血流を使用した逆行性脳潅流法群は、順行性選択的脳潅流法群、コントロールとしての循環停止を行わない群と同程度の脳保護効果を得ることができると示された。評価項目は、術後神経学的評価としてのNeurologic Deficit Score (NDS)、中枢神経障害のマーカーである神経脳脊髄液中のTau蛋白、病理組織学的評価としての虚血性変化をスコア化したHistopathologic Damage Score(HDS)で、いずれも3群間で有意差を認めなかった。眼底の網膜血管の観察から間歇的高圧血流を使用した逆行性脳潅流法は、高圧をかけた時には有意に、動脈、静脈とも血管径を拡張させ良好な血流を脳へ供給していることが示された。よって、間歇的高圧血流を使用した逆行性脳灌流法は従来の逆行性脳灌流法の欠点を改善し、利点はそのまま維持することができる良い方法である事が示された。

実験1-2

ビーグル犬を対象にした実験で、上記の実験1-1で有効性を確認した、間歇的高圧血流を使用した逆行性脳灌流法をDiffusion MRIとperfusion MRIの組み合わせを用いてその脳灌流中の脳組織をreal timeに画像化し評価した実験であった。これはこれまで報告されたことのない新しい手法で、貴重な知見を得たと考える。4.7T、MRIにてROIを海馬、視床、側頭葉、頭頂葉に置きADC(apparent diffusion coeffficient)、rrCBV(relative regional cerebral blood volume)を求め比較し、最終的に病理組織学的評価をしたものであった。間歇的高圧血流を用いた逆行性脳灌流法、順行性選択的脳灌流法、従来の逆行性脳灌流法、超低体温循環停止法を比較したところADC値は間歇的高圧血流を用いた逆行性脳灌流法群が各領域で最も良い値を示した。一方rrCBVは順行性選択的脳灌流法群が最も良い値を示した。病理所見は間歇的高圧血流を用いた逆行性脳灌流法群は従来の逆行性脳灌流法群、超低体温循環停止法群より有意に虚血性障害が少なく、順行性選択的脳灌流法群とは有意差を認めなかった。つまり間歌的高圧血流を用いた逆行性脳潅流法は脳組織におけるADC値を高く保ち、良好な脳保護効果を示した。

この実験1-1、1-2の結果から間歇的高圧血流を使用した逆行性脳灌流法は良好な脳保護効果がある事が示された。

さらに腎臓で生産される赤血球造血因子のErythropoietin (EPO)が中枢神経保護作用を有する事が分かってきており、その効果を胸部大動脈手術における脳障害の発生抑制に利用可能かどうかを下記の実験で検証した。

実験2

ビーグル犬を対象にした実験で、EPOは長期超低体温循環停止における脳脊髄障害を抑制し有用な中枢神経保護作用を有することを示唆した。評価項目は、術後神経学的評価としてのNeurologic Deficit Score (NDS)、中枢神経障害のマーカーである脳脊髄液中のTau蛋白、病理組織学的評価としての虚血性変化をスコア化したHistopathologic Damage Score(HDS)、神経細胞のアポトーシスをスコア化した、Apoptoic Scoreで、EPO群は有意に中枢神経保護効果を示した。その作用機序は神経細胞のapoptosis抑制のみではなくnecrosis抑制も関与している事を示唆した。

また、EPOの経静脈全身投与は血液脳関門を通過し十分に脳脊髄液中に移行することを示した。

以上、本論文は間歇的高圧血流を使用した逆行性脳灌流法の有用性を証明し、またErythropoietinが胸部大動脈手術における脳障害の発生抑制に有用であることも示された。本研究は胸部大動脈手術をより安全に行う為に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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