学位論文要旨



No 121503
著者(漢字) 蒋,宏偉
著者(英字) Jiang,Hong wei
著者(カナ) ジャン,ホンウェイ
標題(和) 中国農村部における換金作物の導入と世帯間格差の拡大が人々の労働・食事・栄養状態に与える影響 : 海南島リー族の1村落を対象にした調査研究
標題(洋) Inter-Household Variation in Adoption of Cash Cropping and its Effects on Lador,Diet and Nutritional Status : A Study in a Li Hamlet in Hainan Island,China
報告番号 121503
報告番号 甲21503
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2751号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 助教授 菅,豊
 東京大学 講師 李,廷秀
 東京大学 講師 神馬,征峰
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

中国では1950年代から1980年代初めにかけて人民公社を基盤とする農業生産がおこなわれた。その時代、水田と畑は人民公社によって所有され、人々は生産隊単位で農作業をおこなった。生産物は人民公社によって管理されたため、個人間の経済格差は制度的に存在しなかった。1980年代中頃になると、中国政府の政策転換により市場経済の考え方を取り入れた農業政策がはじまり、それぞれの世帯は、分配された水田と畑を自分の経営責任で耕作するとともに、村落の共有地に開墾した換金作物畑を耕作することによって所得の向上を目指すようになった。このプロセスで、世帯間の経済格差が拡大し、相対的な貧困層の拡大が中国農村社会における社会問題となっている。経済格差の拡大は、栄養状態と健康状態の世帯間格差をうみだすことがおおく、そのプロセスと問題生成のメカニズムの解明は、人類生態学および国際保健学において重要な課題である。

本研究は、農村部の市場経済化にともなう換金作物開発が村落社会の生存構造を急速に変化させつつある中国・海南島の1村落を対象にした研究であり、対象村落が換金作物を受容するプロセスを過去20年間にわたって再構築し、換金作物の受容にかかわる世帯間差の要因分析をおこなうとともに、換金作物の受容が世帯の栄養摂取、労働時間、栄養状態、生活の満足度にどのような影響を及ぼしたかを検討した。

方法

対象村落

海南島は中国大陸の南側に位置している。海南島は中央政府の市場経済化政策の一環として、1988年に経済特区に指定され、それ以来、中国大陸部及び海外からの莫大な投資をうけいれることで、観光開発と換金作物栽培を中心とした急速な経済発展を遂げつつある。

本研究で対象としたのは、リー族と呼ばれる少数民族が居住する内陸山岳部五指山市の番陽鎮保力村(村民小組)である。1980年代初めに人民公社が解体されて以来、この地域では政府主導の換金作物導入がおこなわれてきた。一方で、高収量ハイブリッド米とそれに対応した肥料・農薬の導入、灌漑水路の整備によって、水田が産出する籾米の生産性が、1984年の4700kg/ha(1984年)から2004年には11000kg/ha(籾米)に増加した。

対象世帯

1985年頃、保力村には20世帯が登録されていた。その後、男子の婚姻にともなう分家によって、2004年までに登録世帯数は36に増加した。本研究では、1985年の20世帯を出自とするグループを拡大家族と定義し、経時的な分析の単位とした。一方、食事調査・生活時間調査などは2004年の登録世帯を分析の単位とした。

データ収集

2000年から2004年にかけてのべ12ヶ月の住み込み調査をおこなった。データ収集には、現地語であるリー語を中心としながら、補足的に漢語を用いた。

人口学的変数および換金作物受容プロセスの経時的復元

1985年から2004年にかけての20年間に保力村でおこった人口動態(出生・死亡・婚姻・移動)と、換金作物を受容するプロセスを世帯ごとに復元するために、2000年に40歳以上であった43名全員に聞き取り調査を実施した。正確な人口データを収集するために、対象者を網羅する家系図を構築し、中国の暦による年推定、イベントカレンダーの利用などを応用した。また、換金作物の受容プロセスを量的に復元するために、地理情報を参照したQUICKBIRD高解像度衛星データを用いて2004年の土地所有・利用図を作成し、1985年から2004年にかけての耕作歴をすべての土地について所有者から聞き取った。衛星画像をGISソフトによみこみ、土地の境界線をあらわすベクターデータ(N=747)を作成し面積計算のアルゴリズムを適用することによって、全ての畑、水田の面積を推定した。これらの作業によって、1985年から2004年にかけての、世帯ごとの作物別換金作物畑面積(収穫前、収穫後)、水田面積、のべ成人人口(18-65歳人口)、のべ消費単位人口(平均体重の成人男子のエネルギー必要量を消費単位1と定義し、すべての構成員に相対的な消費単位係数を割り当てて計算したもの)が得られた。米の単位面積あたり生産性の経年変化は、1984年と2004年のデータを用いて推定した。

食事調査・生活時間調査

保力村の中央ブロックに居住する11世帯を対象に、直接秤量による7日間の食事調査と、巡回式(朝7時から夜8時30分まで90分おき)の生活時間調査を実施した。調査は、2003年11月、12月、2004年12月のいずれも換金作物栽培を主たる活動とする3回の時期に繰り返しおこなった。154日・世帯の食事調査データと6,804の行動観察データを分析した。世帯レベルの栄養摂取量と労働時間の代表値を計算するために、栄養摂取量は体重53.1kgの成人男子の値に換算し、労働時間は成人1人1日あたり時間を算出した。食品成分表は、中国の栄養研究機関が出版したものを用いた。

生体計測・質問紙調査

対象者全員(N=136)について、身長、体重、胴囲、皮脂厚、上腕周囲の生体計測をおこなった。測定誤差を最小化するために、早朝空腹時の対象者について、著者がすべての計測をおこなった。18歳以下の対象者の測定値は、中国農村部を対象に作成された標準成長曲線を用いてZスコアに変換した。一方、全世帯を対象にした質問紙調査では、肉類の摂取頻度、食用油の使用頻度、年収、主観的な生活の満足度についての聞き取りをおこなった。

結果

主たる結果は、以下の6点にまとめられる。

換金作物導入のプロセスにおいて、ある個人の成功というエポックイベントが、村落レベルで換金作物の受容がすすむ重要な要因になっていることが明らかになった。保力村の場合、1995年にひとつの世帯がパラゴムの収穫に成功したことと、1998年に隣村の世帯がライチとリュウガンの栽培に成功し莫大な利益をあげ中央政府から「労働模範」として北京の授賞式に招待されたことをきっかけに、ほとんどの世帯が換金作物栽培を集約化させていった。

エポックイベント前の時期(1985-1994年)を対象にした分析によると、1985-1994年の世帯の余剰米総量と1994年時点での換金作物畑の面積との間に相関関係がみられた(Spearman's r=0.69、p=0.001)。世帯の労働力は換金作物畑の面積と関連していなかった。一方、エポックイベントの後の時期(1995-2004年)を対象にした分析では、1995-2004年の世帯労働力(成人の数)が2004年の換金作物畑の面積と相関していた(Spearman's r=0.57、p=0.008)。この結果は、エポックイベントの前と後で、換金作物畑の開発に影響する世帯要因が変化したことを示唆している。

食事調査の結果によると、換金作物期における保力村の成人1人あたりエネルギー摂取量は9.9MJ、タンパク質摂取量は68.2gであった。生活時間調査によると、成人1人あたり労働時間は4.6時間で、そのうち3.2時間が換金作物栽培に費やされていた。労働時間から判断して、保力村における成人の労働負荷は基礎代謝量(BMR)の1.55〜1.78の範囲にあると考えられ、観察されたエネルギー摂取量(1.6×BMR)は、エネルギー消費量と対応していた。また、摂取タンパク質レベルは、保力村で消費されるタンパク質の正味利用率(NPU)を65%と仮定して算出した安全摂取レベル(62.0g)を上回っていた。

世帯が所有する収穫後換金作物畑の面積とタンパク質摂取量との間にはマージナルな相関関係がみられた(Spearman's r=0.55、p=0.08)。また、世帯が所有する収穫前換金作物畑の面積と換金作物栽培に費やす労働時間との間には相関関係がみられた(Spearman's r=0.75、p=0.01)。

成人を対象とした生体計測の結果、平均BMIは男性で19.6、女性で20.5であった。男性の28%と女性の25%はBMIが18.5より小さく、低体重と考えられた。18歳以下の対象者について計算したZスコアによると、保力村の子供は軽い低栄養状態にあることが示唆された。成人および子供の栄養状態と世帯の換金作物栽培状況との間に一貫した関連性はみられなかった。

世帯の換金作物畑面積と、申告された肉類の摂取頻度、年収、主観的な生活の満足度との間には関連はみられなかった。

考察

本研究の重要な発見のひとつは村落レベルでの換金作物受容のプロセスにおいて、先駆的な世帯による成功のイメージが大きな役割を果たすということである。保力村の場合は、1985年にパラゴムが導入されてから1995年にひとつの世帯が収穫に成功するまでの10年間、ほとんどのパラゴム畑は手入れされることなく水牛に食い荒らされる存在であった。それが、成功のイメージを目にしてからは、ほとんどのパラゴム畑は溝と柵で囲われるようになった。1998年のライチとリュウガンの収穫成功はさらに大きな影響をもち、保力村の世帯はすべての資本を投入して、換金作物栽培の成功を目指しているようにみえる。このような「先駆的世帯」が生業転換において果たす役割は、農村開発における鍵概念であると考えられ、中国雲南省で実施されたUNU/GEFアグロフォレストリープロジェクトにおいてもその有用性が報告されている。

保力村で先駆的に換金作物を受容したのは余剰米をおおく生産する世帯、いいかえれば焼畑で生産される作物への依存が相対的に少ない世帯であった。一方、1995年のエポック以降は、世帯の労働力が換金作物畑を開発するにあたって重要な世帯要因となっていた。この背景には、保力村における換金作物開発は政府主導でおこなわれたために、苗が無償もしくは安い価格で提供されたことがある。ところが、2002年より、政府の方針転換によって、それぞれの世帯は自己の経済的負担を求められるようになり、すでに換金作物栽培から現金を得ている世帯とそうでない世帯では、換金作物開発にかかわる条件が大きく異なることになった。換金作物栽培にかかわる世帯間差は、今後も不可避的に拡大していくと考えられる。

換金作物栽培は、世帯の栄養摂取および労働に部分的な影響をあたえていた。保力村では、米の生産性向上による余剰米の生産によって、人々が日常的に必要とするエネルギーとタンパク質が充足していることもあり、換金作物栽培による現金収入は肉や魚の購入による動物性タンパク質の摂取を増加させる効果をもっていると考えられた。一方、収穫前の換金作物畑を所有する世帯は相対的に長い時間の労働に従事せざるをえず、将来の成功にむけての投資をおこなっていると解釈された。換金作物栽培の成功は、市場と天候に大きく左右される。市場経済化のプロセスにある農村社会の生存基盤の解明には、さらなる長期間のフォローアップが必要である。

本研究の方法論的特長は、調査者が現地の言語を習得し、村落内に長期間住み込むことによって対象者との人間関係を構築したことにある。このことによって、換金作物の導入のプロセスにかかわる詳細なデータを収集できただけでなく、これまでデータの少ない地域における食事調査や生活時間調査を実施することができた。さらには、地理情報システムやリモートセンシングを利用することで、定量的な環境評価・土地利用変化と人々の活動を結びつけて分析することができた。このような調査は中国農村部においてほとんど例がなく、東南アジアにおける人類生態学・農村開発学の研究に寄与するものである。しかし一方で、方法論的帰結として対象世帯数が34にとどまり、より高度な統計分析による検討を十分におこなうことができなかった。結果的に、論文は「分析的」というよりも「記述的」な傾向にある。今後、他の地域でおこなわれた研究との比較、あるいは大規模研究と組み合わせることにより、本研究の意義は高められると考えている。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、農村部の市場経済化にともなう換金作物開発が村落社会の生存構造を急速に変化させつつある中国・海南島の1村落を対象にした研究であり、対象村落が換金作物を受容するプロセスを過去20年間にわたって再構築し、換金作物の受容にかかわる世帯間差の要因分析をおこなうとともに、換金作物の受容が世帯の栄養摂取、労働時間、栄養状態、生活の満足度にどのような影響を及ぼしたかを検討し、下記の結果を得ている。

換金作物導入のプロセスにおいて、ある個人の成功というエポックイベントが、村落レベルで換金作物の受容がすすむ重要な要因になっていることが明らかになった。

エポックイベント前の時期(1985-1994年)を対象にした分析によると、1985-1994年の世帯の余剰米総量と1994年時点での換金作物畑の面積との間に相関関係がみられた(Spearman's r=0.69、p=0.001)。世帯の労働力は換金作物畑の面積と関連していなかった。一方、エポックイベントの後の時期(1995-2004年)を対象にした分析では、1995-2004年の世帯労働力(成人の数)が2004年の換金作物畑の面積と相関していた(Spearman's r=0.57、p=0.008)。この結果は、エポックイベントの前と後で、換金作物畑の開発に影響する世帯要因が変化したことを示唆している。

食事調査の結果によると、換金作物期における保力村の成人1人あたりエネルギー摂取量は9.9MJ、タンパク質摂取量は68.2gであった。生活時間調査によると、成人1人あたり労働時間は4.6時間で、そのうち3.2時間が換金作物栽培に費やされていた。労働時間から判断して、観察されたエネルギー摂取量は、エネルギー消費量と対応していた。また、摂取タンパク質レベルは、保力村で消費されるタンパク質の正味利用率(NPU)を65%と仮定して算出した安全摂取レベル(62.0g)を上回っていた。

世帯が所有する収穫後換金作物畑の面積とタンパク質摂取量との間にはマージナルな正の相関関係がみられた(Spearman's r=0.55、p=0.08)。また、世帯が所有する収穫前換金作物畑の面積と換金作物栽培に費やす労働時間との間には正の相関関係がみられた(Spearman's r=0.75、p=0.01)。

成人を対象とした生体計測の結果、平均BMIは男性で19.6、女性で20.5であった。18歳以下の対象者について中国の生体計測標準値をもとに計算したZスコアによると、保力村の子供は軽い低栄養状態にあることが示唆された。成人および子供の栄養状態と世帯の換金作物栽培状況との間に一貫した関連性はみられなかった。

世帯の換金作物畑面積と、申告された肉類の摂取頻度、年収、主観的な生活の満足度との間には関連はみられなかった。

本研究では、調査者が現地の言語を習得し、村落内に長期間住み込むことによって対象者との人間関係を構築し、このことによって、換金作物の導入のプロセスにかかわる詳細なデータを収集できただけでなく、これまでデータの少ない地域における食事調査や生活時間調査を実施することができた。さらには、地理情報システムやリモートセンシングを利用することで、定量的な環境評価・土地利用変化と人々の活動を結びつけて分析することができた。このような調査は中国農村部においてほとんど例がなく、東南アジアにおける人類生態学。農村開発学の研究に寄与するものであり、学位の授与に値するものと考えられる。

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