学位論文要旨



No 121506
著者(漢字)
著者(英字) Krishna Chandra Poudel
著者(カナ) クリシュナ チャンドラ ポウデル
標題(和) ネパール極西部における出稼ぎ経験者のHIV感染症と梅毒の疫学
標題(洋) Epidemiology of HIV infectian and syphilis among migrants in far western Nepal
報告番号 121506
報告番号 甲21506
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第2754号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 教授 小林,廉毅
 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 助教授 黒岩,宙司
 東京大学 助教授 梅,昌裕
内容要旨 要旨を表示する

一定期間、居住の場所を移動するという現象は、世界にくまなく見られている。世界人口の2.9%に相当する約1億7500万人が自国以外の国で暮らし、HIV(Human lmmunodeficiency Virus)感染症などの疾病リスクが高い環境下におかれている。原因として考えられるのは、情報、保健サービス、コンドーム使用によるHIV感染症予防活動や性感染症治療へのアクセスの不良である。その要因としては、文化の違い、言語の違い、地域社会にとけ込んでいないこと、いつまた別の場所に移るかもしれないという不安定さ、などがあげられる。

ネパールでは、海外(特にインド) への出稼ぎがよくみられる。2001年、全人口の3.3%にあたる762,181人が6ヶ月以上の期間出稼ぎに出たと報告されている。そのうち、77.3%はインドへの出稼ぎであった。出稼ぎによる移動はHIV/STI(Sexually Transmitted Infection)感染が広がるリスクファクターであると多くの国で示されているが、ネパールではほとんど研究されていない。

本研究の最初のパートは3つの研究から成り立っている。第1の研究では、ネパール極西部の出稼ぎの状況と出稼ぎによるHIV感染リスクを調べた。第2の研究では、ネパール極西部で、出稼ぎ経験のある者とない者を対象にHIV感染症と梅毒の罹患率を測定し、さらに性感染症の行動リスクを比較した。第3の研究では、出稼ぎによってどれだけHIV/STIに対する罹患性が高まり、対象地域における流行の原因ともなりうるかについて検討した。第2部では同じ地域において呪術医に対するHIV/AIDSのトレーニングを実施した後の評価結果を示した。以下、研究の要約を示す。

ネパール極西部の出稼ぎ活動はHIV/AIDS流行の時限爆弾となるか?

本研究では、ネパール極西部に住む成人男性のネパールからインドへの出稼ぎの状況と、出稼ぎ者のHIV感染リスクについて調査した。調査期間は1999年4月から6月である。調査対象地域は人口177,789人のドティ県である。ドティ県は11のイラカという行政区画から成り、各イラカは通常5つの村からなる。県開発部の担当者などのキーインフォーマントへのインタビューをもとに、まずは各イラカの中から、出稼ぎ者を多くだしている村を特定した。各村は9つの地区から成り立っているが、こうして選び出された村から、3つの地区を無作為に選び出した。さらに各地区から30%にあたる戸数を無作為に選び出した。その結果、全体で714戸が対象となった。

714戸の戸主にインタビューすることによってデータを収集し、HIV/AIDS罹患者の有無も確かめるようにした。 714戸でインタビューをした結果、351戸(49%)の戸主が、家族のなかで少なくとも一人がインドに出稼ぎにでた経験があると回答した。また研究期間中も、293人(41%)の回答者が、少なくとも一人は出稼ぎにでていると答えた。その総数は372人であり、平均年齢は30歳、95%は男性、82%は既婚であった。また全体の94%はインドを対象地としていた。372人のうち、80%の仕事の内容は、ガードマン、ホテル・宿泊所の雑務や車・バスなどの補助スタッフであった。全体の3%は、売春関係の宿の呼び込みとして働いていた。回答者のうち、28%が、出稼ぎにでている男性家族は対象地で婚外セックスをしているであろうと答えた。また村を観察した結果、HIV/AIDSに罹患していると思われる者は少なくとも4名いることを確認した。

研究の結果、ドティ県の少なくとも20%の村において、出稼ぎは頻繁になされており、出稼ぎ経験者とその家族はHIV/AIDSの危険にさらされていることが示唆された。

ネパール極西部におけるムンバイ病:男性出稼ぎ経験者と非経験者のHIV感染症と梅毒の疫学

本研究では、ネパール極西部における男性出稼ぎ経験者と非経験者を対象にHIV感染症と梅毒の罹患率を測定した。またこれらの感染症の行動リスクファクターについても調べた。2001年4月、インドのムンバイ市を出稼ぎ対象地とする住民の多く住むドティ県の5村より、97名の出稼ぎ経験者と40名の非経験者を選出した。収集データは、HIVと梅毒検査のための血清検査結果、HIV感染症と梅毒に関する認識と行動調査結果である。

結果として、137人中11人(8%)がHIV陽性であり(内出稼ぎ経験者10%, 非経験者3%)、30人(22%)が、梅毒陽性(内出稼ぎ経験者25%, 非経験者15%)であった。回答者のうち、特にムンバイ市を対象とした出稼ぎ経験者は性感染症罹患リスクの高い行動をしていた。非経験者に比べ、経験者は婚前または婚外のセックス経験が多く(odds ratio(OR)=2.2, 95% confidential interval(CI)=1.5-5.1,p=0.04)、セックスワーカーとのセックスも多かった(OR=8.2, 95%CI:3.2-20.5, p<0.001)。さらに多数のパートナーとのセックス経験をもっていた(OR=2.8, 95%CI:1.2-6.5, p=0.01)。

本研究の結果、ムンバイ市に出稼ぎに行く住民が多く住むネパール極西部の村の出稼ぎ経験者、非経験者に、HIV感染症と梅毒の罹患者がいることがわかった。特に出稼ぎ経験者に性感染症のハイリスク行動が多くみられたことから、この集団に対する行動変容プログラムを迅速に行う必要があると示唆された。

ネパール極西部の出稼ぎ経験者によるインドと出身地における性感染症リスク行動に関する研究

本研究では、ネパール極西部出身の出稼ぎ経験者のHIV/AIDSへの罹患のしやすさと一般住民へ感染の流行をもたらしうる危険性について調査した。2000年8月から10月、主にインドのムンバイ市から戻った53名のドティ県出身の出稼ぎ労働者に6回のフォーカス・グループ・ディスカッションを実施した。ディスカッションのトピックは以下に示す通りである。出稼ぎ先での生活環境と性生活について、出身地における性行動、HIV/STIについての知識・認識、コンドームの使用状況について。データは詳細なテーマ分析によって実施した。

結果として、インドでも出身地でも、出稼ぎ経験者は複数のパートナーを持っていた。コンドームの使用頻度は低かった。このようなハイリスク行動に影響を及ぼしていた要因として、インドでは以下のようなものがあった。同僚問での誘い。安くセックスできること、家族のしがらみからの開放感、飲酒、HIV/STIに罹りにくいであろうという認識。一方、ネパールの出身地では以下の要因が認められた。出稼ぎ経験者として得た新たな社会的地位、多くの村祭り(女性パートナーとの出会いが多くなる)、HIV/STIに躍りにくいであろうという認識。またHIV/STIに関する出稼ぎ経験者の知識のレベルは極めて低かった。

結論として、ネパール極西部出身の出稼ぎ経験者の間に、インドでも出身地でもハイリスクな性行動が認められた。

ネパール極西部における呪術医HIV/AIDSトレーニングの効果とトレーニング内容の定着に関する研究

本研究では、ネパール極西部における呪術医に対するHIV/AIDSトレーニングの評価を行った。61人の呪術医にインタビューし、HIVの感染ルートに関する知識、HIV感染についての誤解、予防法について聞いた。まずは1999年の6月から12月の間、トレーニング実施前にベースライン調査を実施した。次にトレーニング修了後9ヶ月から12ヶ月後、2000年になってから、評価調査を実施した。トレーニング修了後には6回にわたるフォーカス・グループ・ディスカッションによって、呪術医の仕事ぶりも評価した。キーインフォーマント・インタビューによって、トレーニングを受けた呪術医に対する認識も調べた。

トレーニングの結果、呪術医は、HIVの感染ルートに関する知識、HIV感染についての誤解、予防法について、より正しい回答を示すようになった。またフォーカス・グループとキーインフォーマント・インタビューの結果より、トレーニングを受けた呪術医は、呪術医が住む村の住民が受け入れることのできるような方法でHIV/AIDSに関する教育を実施しており、コンドームを配布していたこともわかった。さらに、HIV/AIDS関連のスティグマを軽減させる役割をも担っていたことが確認された。

以上のことより、ネパールでHIV/AIDSプログラム推進する際は、呪術医が重要な役割を果たしうることが示唆された。

結論

以上の研究より、ネパール極西部からインドに出稼ぎにでた労働者は、出身地でもHIV/STI蔓延のハイリスクな状況を作り上げていることが示唆された。出身地においてもハイリスクな性行動を保持しているからである。出稼ぎ経験者はその意味で、ハイリスク集団からローリスク集団へHIV感染を広げるブリッジ集団といってもよい。この点からみてネパール政府は、出稼ぎ経験者と彼らのセックスパートナーに対し、HIV/STI予防プログラムを、現地の文化にあわせた形で開始すべきである。そのためには、呪術医が重要な役割を果たしうるので、今後ネパール農村でなされるHIV/AIDSプログラムには呪術医をより一層活用していくべきである。

キーワード:HIV/AIDS, syphilis, migration, sexual behaviors, traditional healers, Nepal

審査要旨 要旨を表示する

本研究はネパール極西部における出稼ぎ経験者のHIV感染症と梅毒に関する疫学調査である。3つの研究から成る第1部と呪術医に対するHIV/AIDSトレーニングの評価結果を示した第2部から構成され、下記のような結果を得ている。

ネパール極西部の出稼ぎ活動はHIV/AIDS流行の時限爆弾となるか?

本研究では、ネパール極西部にある人口177,789人のドティ県において、インドへの出稼ぎ状況と出稼ぎ者のHIV感染リスクについて調査した。出稼ぎ経験者の多い村(全体の約20%)から714戸を抽出しインタビューした結果、全体の49%の家で家族の中から少なくとも一人がインドに出稼ぎにでた経験があると回答した。また研究期間中、全体の41%の家から少なくとも一人は出稼ぎにでていた。その総数は372人であり、平均年齢は30歳、95%は男性、82%は既婚、94%はインドを対象地としていた。全体の回答者の28%は、出稼ぎにでている男性家族は対象地で婚外セックスをしているであろうと答えた。最後に村を観察した結果、HIV/AIDSに罹患していると思われる者は少なくとも4名いることを確認した。本研究の結果、ドティ県の対象となった村(全体の約20%)において出稼ぎは頻繁になされており、出稼ぎ経験者とその家族はHIV/AIDSの危険にさらされていることが示唆された。

ネパール極西部におけるムンバイ病:男性出稼ぎ経験者と非経験者のHIV感染症と梅毒の疫学

本研究では、ネパール極西部における男性出稼ぎ経験者と非経験者を対象にHIV感染症と梅毒の有病率を測定し、これらの感染症の行動リスクファクターについても調査した。ドティ県の97名の出稼ぎ経験者と40名の非経験者に対し、HIVと梅毒検出のための血清検査をした結果、出稼ぎ経験者の10%、非経験者の3%がHIV陽性であり、出稼ぎ経験者の25%、非経験者の15%が梅毒陽性であった。特にムンバイ市を対象とした出稼ぎ経験者は性感染症罹患リスクの高い行動をしていた。非経験者に比べ、経験者は婚前または婚外のセックス経験が多く(odds ratio(OR)=2.2, 95% confidential interval(CI)=1.5-5.1、p=0.04)、セックスワーカーとのセックスも多かった(OR=8.2, 95%CI:3.2-20.5, p<0.001)。さらに多数のパートナーとのセックス経験をもっていた(OR=2.8, 95%CI:1.2-6.5, p=0.01)。本研究の結果、ネパール極西部の村からムンバイ市への出稼ぎ経験者、非経験者に、HIV感染症と梅毒への罹患者がいることがわかった。特にハイリスク行動の多くみられた出稼ぎ経験者に対する行動変容プログラムを迅速に行う必要があると示唆された。

ネパール極西部の出稼ぎ経験者によるインドと出身地における性感染症リスク行動に関する研究

本研究では、ネパール極西部出身の出稼ぎ経験者のHIV/AIDSへの罹患のしやすさと一般住民へ感染の流行をもたらしうる危険性について調査した。主にムンバイ市から戻った53名のドティ県出身の出稼ぎ労働者に対し、出稼ぎ先での生活環境と性生活について、出身地における性行動、HIV/STIについての知識・認識、コンドームの使用状況について、6回のフォーカス・グループ・ディスカッションを実施し、詳細なテーマ分析を行った。本研究の結果、インドでもネパールの出身地でも、出稼ぎ経験者は複数のパートナーを持っていた。コンドームの使用頻度も低かった。このようなハイリスク行動に影響を及ぼしていた要因として、インドでは同僚間での誘い、安くセックスできること、家族のしがらみからの開放感、飲酒、HIV/STIに躍りにくいであろうという認識があることが示された。一方、ネパール出身地では出稼ぎ経験者として得た新たな社会的地位、多くの村祭り(女性パートナーとの出会いが多くなる)、HIV/STIに罹りにくいであろうという認識が要因としてあることが示された。HIV/STIに関する出稼ぎ経験者の知識のレベルは極めて低かった。結論として、ネパール極西部出身の出稼ぎ経験者はインドでも出身地でもハイリスクな性行動をしていることが認められ、彼らに対する迅速なプログラムの実施が必要であることが示唆された。

ネパール極西部における呪術医HIV/AIDSトレーニングの効果とトレーニング内容の定着に関する研究

本研究では、ネパール極西部における呪術医に対するHIV/AIDSトレーニングの評価を行った。61人の呪術医に対し、HIVの感染ルートに関する知識、HIV感染についての誤解、予防法について、トレーニング実施前にベースライン調査を行い、修了9ヶ月から12ヶ月後には評価調査として6回にわたるフォーカス・グループ・ディスカッション、キーインフォーマント・インタビューを実施した。トレーニングの結果、呪術医は、HIVの感染ルートに関する知識、HIV感染についての誤解、予防法について、より正しい回答を示すようになった。またトレーニングを受けた呪術医は、呪術医が住む村の住民が受け入れることのできるような方法でHIV/AIDSに関する教育を実施しており、コンドームを配布していたこともわかった。さらに、HIV/AIDS関連のステイグマを軽減させる役割をも担っていたことが確認された。本研究の結果、ネパールでHIV/AIDSプログラム推進する際は、呪術医が重要な役割を果たしうることが示唆された。

以上、本研究はネパールにおいて出稼ぎ経験者のHIV感染症と梅毒の有病率と帰国後の性行動について系統的に調査した最初の研究である。本結果は出稼ぎ者が帰国後もたらす性感染症の理解に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値すると考えられる。

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