学位論文要旨



No 121526
著者(漢字) 市橋,伯一
著者(英字)
著者(カナ) イチハシ,ノリカズ
標題(和) 環境変化に対する黄色ブドウ球菌のリン脂質組成変化の役割
標題(洋)
報告番号 121526
報告番号 甲21526
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1169号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 助教授 紺谷,圏二
 東京大学 助教授 東,伸昭
内容要旨 要旨を表示する

細胞の内外を区別している細胞膜は、外部環境からの刺激に直接さらされる。細胞膜のもつ流動性や、表面の電荷などの物性は、膜と相互作用するタンパク質の活性に影響を及ぼしている。したがって、細胞膜の物性を変化させるような環境変化に対して、適切に対応して細胞膜の恒常性を維持することが細胞の増殖に必要だと予想される。細胞膜の主要な構成成分であるリン脂質は、親水性の頭部と、疎水性の脂肪酸鎖からなる。その環境適応変化として、低温での脂肪酸鎖の不飽和化が知られている。一方、頭部の親水基の組成変化が環境適応に関わる例は知られていない。

ところが大腸菌、枯草菌、黄色ブドウ球菌、出芽酵母では、環境変化や増殖期に対応して、リン脂質の頭部の組成が変化することが報告されている。特に黄色ブドウ球菌では、その変化が著しい。黄色ブドウ球菌は主要なリン脂質として、負電荷を持つフォスファチジルグリセロール(PG)とPGにリジンがエステル結合した正電荷を持つリジルフォスファチジルグリセロール(LPG)を有するが、LPG含有率は培地中の塩濃度により大きく異なることが報告されている。しかしながら、環境変化に対するリン脂質組成変化の意義はどの生物種においてもが明らかにされていない。LPG合成酵素MprFを破壊した黄色ブドウ球菌の変異株は、37℃、生理的塩濃度では増殖可能である。したがって、LPGは通常の培養条件下では増殖に必須でないと考えられている。しかしながら私は、LPGはその含有率が上昇する環境に対する適応に必要であると考え、その検証を行った。

結果と方法

低塩濃度、高温シフトにより、LPGは短時間で誘導される

まず、私は環境変化によるLPG含有率の時間変化を検討した。その結果、培地中の塩濃度を10%から1%に減少させると、25分以内にLPG含有率は6%から25%に大きく上昇した(Fig.1)。さらに、私は培養温度を上昇させた場合にもLPG含有率が上昇することを見出した。

LPGが増加する高温かつ低塩濃度で、LPG欠損株の増殖が阻害された。

次に私は、LPGが増加する高温、低塩濃度における増殖を調べた。コロニー形成数を比較したところ、低塩濃度(0.1%NaCl)の培地では、野性株に比べ、LPG欠損株での30℃に対する44℃でのコロニー数は100%から0.03%に低下した。このコロニー数の低下は、培地中のNaCl濃度を上昇させることにより約100%まで回復した。したがって、高温かつ低塩濃度の条件ではLPG欠損株の増殖が阻害されることがわかった。

高温かつ低塩濃度のLPG欠損株では細胞壁の分離ができなくなっていた。

次に、44℃でのLPG欠損株の表現型を詳しく解析した。顕微鏡観察の結果、LPG欠損株では野生株に比べ、細胞どうしの結合の程度に違いが認められた。すなわち、野性株、および30℃のLPG欠損株では、90%以上の細胞について、1つか、2つの細胞が結合しているのに対し、44℃シフト後のLPG欠損株ではこの割合は28%に低下し、残りの72%の細胞は3つ以上の細胞が結合していた。したがって、高温でLPG欠損株の細胞分離が阻害されていると考えられた。さらに電子顕微鏡観察の結果、高温のLPG欠損株では細胞質の分離はできているが、細胞壁の分離ができていないことが判明した。

LPG欠損株では細胞壁の分離に重要なペプチドグリカン分解酵素活性が低下していた。

細胞壁の分離にはペプチドグリカン分解酵素が必要である。黄色ブドウ球菌には、分泌性のペプチドグリカン分解酵素が複数存在する。私はその中で、細胞壁の分離に重要であることが報告されているAtlタンパクの活性がLPG欠損株で低下しているかについて検討した。ペプチドグリカン分解活性の検出には、基質を含んだポリアクリルアミドゲル内で、分解酵素活性をバンドとして検出する系を用いた。野性株では温度シフト後もAtlの活性は大きくは変わらなかったが、LPG欠損株では、44℃シフト後その活性が著しく低下していた(Fig.2,白矢尻でAtlの全長を示す。その下の複数のバンドは活性を有するAtlの分解産物である)。このとき、総タンパク量は、野性株とLPG欠損株で変わらなかった。したがって、高温のLPG欠損株では、ペプチドグリカン分解活性が低下していることが分かった。さらに私は、このときAtlタンパク質の合成速度が低下していることを見出した。

ペプチドグリカン分解活性の低下は、LPG欠損株の細胞壁分離阻害、増殖阻害を引き起こした。

ペプチドグリカン分解酵素活性低下が、高温でのLPG欠損株における細胞壁分離不全、および増殖阻害の原因であるかを検討するため、外からペプチドグリカン分解酵素を加えることにより、LPG欠損株の細胞が分離するか、あるいは増殖ができるようになるか検討した。その結果、高温でのLPG欠損株は、72%の細胞について3つ以上の細胞が結合していたが、ペプチドグリカン分解酵素であるリゾスタフィンで処理することにより、その割合は8%に低下し、ほとんどの細胞が1つか2つに分散していた。また、リゾスタフィンを加えた低塩濃度寒天培地上では、44℃においてLPG欠損株のコロニー形成がみられた。したがって、高温かつ低塩濃度のLPG欠損株における細胞壁分離不全、増殖阻害は、ペプチドグリカン分解活性の低下によると考えられた。

野性株の黄色ブドウ球菌では、低塩濃度でLPG含有率が上昇するのに伴い、ペプチドグリカン分解酵素の活性が上昇した

LPG欠損株の解析結果から、LPGがペプチドグリカン分解酵素の発現誘導に必要であることがわかった。野生型の黄色ブドウ球菌では、LPGが欠損することはなく、環境変化に応じて、全リン脂質の4%〜25%程度の範囲で変化する。そこで、このLPG含有率の変化に伴ってペプチドグリカン分解酵素(Atl)の活性が上昇するかを検討した。その結果、塩濃度の低下により、LPG含有率が増加すると同時にAtl活性も増加することを見出された(Fig.3左側)。このときのAtl活性上昇に対するLPG含有率上昇の寄与を知るため、塩濃度を低く保ったままで、LPG合成酵素の発現を人為的に抑えることを試みた。IPTGによりLPG合成酵素MprFを誘導する株(Plac-mprF)を構築し、IPTGを減らすことにより低塩濃度のままでMprF発現量を低下させた。その結果、LPG含有率低下に応じてAtl活性も低下した(Fig.3右)。したがって、低塩濃度における黄色ブドウ球菌のLPG含有率の増加、及び減少に伴い、Atl活性が増加、及び減少することが分かった。

Atl以外のタンパク質の発現、活性に対するLPG欠損の影響

さらに私は、LPG欠損株では、Atlだけではなく、黄色ブドウ球菌の病原性に関与するプロテインA、腸管毒素B、溶血毒素αについても、44℃、並びに37℃、生理的塩濃度の条件で発現量が低下していることを見出した。

また、私は修士課程において、LPGはin vitroでDNA複製開始タンパクDnaAの再活性化を阻害することを見出していたことから、LPGのDNA複製に対する影響も調べた。その結果、LPG欠損株では、染色体の複製開始点をもつプラスミド(oriCプラスミド)のコピー数が上昇していた。この結果は、LPG欠損株では、DnaAが活性化されていることを示唆する。

まとめと考察

本研究で私は、黄色ブドウ球菌の細胞膜におけるLPG含有率が高温、低塩濃度の環境条件で増加すること、並びにこの条件でLPG合成酵素が細胞の増殖、並びに細胞壁の分離に必要であることを示した。さらに私は、黄色ブドウ球菌で見られる低塩濃度でのLPG含有率の上昇が、ペプチドグリカン分解活性の誘導を引き起こすことを示唆する結果を得た。したがって、塩濃度や温度などの環境条件の変化に伴い細胞膜のLPG含有率が変化し、その結果、ペプチドグリカン分解酵素の発現が制御されると予想される。また、LPG欠損株ではAtlだけではなく、いくつかの病原性タンパクの発現も低下していたことから、この制御は、黄色ブドウ球菌の病原性発揮機構にも働くと考えられる。このように細胞膜のリン脂質の頭部の組成変化が環境によって変化し、遺伝子発現の制御に重要であることを示唆したのは本研究が初めてである。また、LPG欠損株では、oriCプラスミドのコピー数が増加しており、複製開始蛋白DnaAが活性化していることが示唆された。したがって、リン脂質組成変化は、DNA複製開始にも影響を与えていると予想される。この機構は、環境に応じた増殖速度の制御に寄与していると予想している。

今回の実験は、高温、低塩濃度という特殊な条件で行っているが、LPG欠損株では、37℃かつ生理的塩濃度でも、増殖は正常に見えるものの、細胞壁の分離が一部阻害されていることが示唆されている。また、病原性タンパクの発現量は37℃でも大きく低下していた。したがって、LPGによるペプチドグリカン分解酵素や病原性タンパクの発現誘導は、通常の条件においても制御に働いていると考えている。

枯草菌、大腸菌、酵母でも塩濃度に応じてリン脂質組成が変化することが知られている。これらのリン脂質組成変化の役割も、それぞれの環境条件への適応に働くと予想している。頭部の違いによるリン脂質組成変化は、生命の環境適応のひとつの機構として広く使われていると私は考えている。

Fig.1 塩濃度変化後のLPG含有率の変化

Fig.2 高温のLPG欠損株におけるAtl活性の低下

Fig.3低塩濃度におけるLPG含有率のAtl活性に対する影響

審査要旨 要旨を表示する

リン脂質は生体膜の構成因子であり、その機能に関する理解は、薬学領域にとどまらず、生物全般の重要な課題となっている。申請者は、黄色ブドウ球菌のリジルフォスファチジルグリセロール(LPG)が温度や塩濃度という、環境変化に対して変化することに着目し、その生理的意義について研究した。

申請者の論文は、下記の各章から構成されている。第一章(序論)では、申請者がなぜ黄色ブドウ球菌という細菌のリン脂質を研究対象に選んだのかが述べられている。申請者は、細菌の増殖制御に関する研究が、人類にとっての主要な疾患である細菌感染症の治療に役立つと考えた。また、細菌は最も単純な生命であり、細菌の増殖制御の理解は基礎生物学の発展に大きく寄与すると考えた。

第二章において申請者は、リン脂質組成変化が細胞壁の分離において重要な役割について述べている。すでに、いくつかの細菌で、環境変化や増殖期に対応して、リン脂質の頭部の組成が変化することが報告されている。黄色ブドウ球菌において、膜のリジルフォスファチジルグリセロールの含量は、培地中の環境変化により大きく変化する。そこで著者は、リジルフォスファチジルグリセロールが増加する高温や低塩濃度条件におけるリジルホスファチジルグリセロール欠損黄色ブドウ球菌変異株の表現型を解析した。その結果申請者は、高温かつ低塩濃度のリジルホスファチジルグリセロール欠損株では増殖、細胞壁の分離ができなくなることを見いだした。この条件で、リジルフォスファチジルグリセロール欠損株では細胞壁の分離に重要なペプチドグリカン分解酵素活性、合成速度が低下していた。外から精製されたペプチドグリカン分解酵素を加えることにより、リジルフォスファチジルグリセロール欠損株の細胞壁の分離、増殖が回復した。これらの結果から、申請者は、リジルフォスファチジルグリセロールは、高温や低塩濃度環境における細胞の分離、増殖に必要だと結論した。さらに著者らは、野性株の黄色ブドウ球菌における低塩濃度でリジルホスファチジルグリセロール含有率が上昇するのに伴い、ペプチドグリカン分解酵素の活性が上昇することを見出し、さらに、この活性上昇にはリジルホスファチジルグリセロールの上昇が重要であることを示した。この結果は、リジルホスファチジルグリセロール含有率がペプチドグリカン分解酵素の活性制御に重要であることを示唆している。

第三章において申請者は、リジルホスファチジルグリセロールの黄色ブドウ球菌の病原性に対する役割を論じている。申請者は、リジルホスファチジルグリセロール欠損株では、ペプチドグリカン分解酵素だけではなく、黄色ブドウ球菌の病原性に関与するプロテインA、腸管毒素B、溶血毒素αの発現量が低下していることを見出し、リジルホスファチジルグリセロールは病原性因子の発現にも関わることを示した。

第四章で申請者は、リジルホスファチジルグリセロールとDNA複製開始タンパクDnaAとの関わりについて論じている。申請者は申請者自身の修士論文において、リジルホスファチジルグリセロールはin vitroでDNA複製開始タンパクDnaAの再活性化を阻害することを述べている。本論文では、DNA複製に対するリジルホスファチジルグリセロール含有率の影響について検証した結果を述べている。すなわち、リジルホスファチジルグリセロール欠損株では、染色体の複製開始点をもつプラスミド(oriCプラスミド)のコピー数が上昇することを申請者は明らかにした。また、このコピー数上昇は、DnaAの再活性化によることを示唆する知見が得られている。したがって、リジルホスファチジルグリセロール含有率はDnaAの再活性化を介してDNA複製開始にも関与することが示唆された。

第五章では、申請者が明らかにした、リジルホスファチジルグリセロール含有率変化の役割について述べられている。リジルホスファチジルグリセロールは環境変化に対応したペプチドグリカン分解酵素の発現、病原性因子の発現、そしてDNA複製開始因子の活性に影響を与えた。申請者は、この影響が黄色ブドウ球菌が宿主体内に侵入するときに重要になることを指摘している。皮膚表面や外界から宿主体内に侵入する際には、塩濃度、温度が変化する。申請者は、黄色ブドウ球菌はその変化を感じ取って、リジルホスファチジルグリセロール含有率を変化させ、細胞壁分離を制御して菌の拡散を調節したり、病原性因子発現を制御したり、DNA複製開始を制御して増殖を調節していると予想している。

以上、申請者が提出した論文は、黄色ブドウ球菌のリジルフォスファチジルグリセロールの環境適応についての機能について、これまでは明らかにされていなかった生理的意義について明らかにした点で、細菌学、遺伝生化学、分子生物学に対する貢献が認められる。よって申請者は、博士(薬学)の学位を受けるにふさわしいと認めた。

UTokyo Repositoryリンク