学位論文要旨



No 121535
著者(漢字) 白畑,孝明
著者(英字)
著者(カナ) シラハタ,タカアキ
標題(和) セロトニン枯渇薬5,7-dihydroxytryptamineのナメクジの嗅覚記憶に対する効果
標題(洋)
報告番号 121535
報告番号 甲21535
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1178号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 助教授 川原,茂敬
 東京大学 助教授 東,伸昭
 東京大学 助教授 田仲,昭子
内容要旨 要旨を表示する

【序論】

軟体動物であるナメクジは高度な嗅覚学習を行ううえ、一回の条件付けでこの学習を成立させることができるので、行動レベルにおける学習・記憶研究の有用なモデル動物である。ナメクジにニンジンの匂い(条件刺激)とキニジンの苦み(侵害性の無条件刺激)を同時に提示すると、条件付け(忌避性の嗅覚−味覚連合学習)が成立する。その後ニンジンの匂いをこのナメクジに再度提示すると、ナメクジはそれに対して忌避反応(条件反応)を示す。この忌避反応の記憶は、少なくとも条件付け後二週間持続する。条件付け一日後までの記憶はタンパク質合成阻害剤で阻害されないことから短期記憶であり、条件付け二日後またはそれ以降の記憶はそれで阻害されることから長期記憶である、と考えられている。短期記憶と長期記憶の形成過程においては、(1)短期記憶が形成され、その後それが長期記憶になる(逐次処理)という考えと、(2)短期記憶と長期記憶がそれぞれ別々に形成される(並列処理)という考えがある。逐次処理では短期記憶が形成されなければ長期記憶が形成されないのに対し、並列処理では短期記憶が形成されなくても長期記憶が形成される。どちらの処理が行われているかは100年来議論されてきた重要な問題であるが、いまだはっきりしていない。

ナメクジではセロトニンが神経調節物質のひとつである。ナメクジの中枢神経系には多くのセロトニン含有神経細胞が存在している(*)。また、セロトニンによって中枢神経系の生化学的および電気生理学的変化が生じることが知られている。したがって、セロトニンがナメクジの学習に重要な役割を果たしている可能性がある。

そこで、本研究ではセロトニンがナメクジの短期記憶及び長期記憶に関与しているかどうかを調べた。

他の脊椎動物及び無脊椎動物では選択的セロトニン枯渇薬5,7-dihydroxytryptamine(5,7-DHT)が中枢神経系においてセロトニン含有量を減らし、セロトニンによる電気生理学的変化を抑制することが知られている。はじめにナメクジにおいてもこの点について調べ、5,7-DHTの中枢セロトニン神経系への障害効果を確認した後、行動実験を行ってこの薬物の効果を調べた。

【方法と結果】

5,7-DHTのナメクジ中枢神経系のセロトニン含有量に対する効果

アメフラシの中枢神経系におけるセロトニン含有量に対する5,7-DHTの効果を調べた実験では、5,7-DHTの投与5日後にセロトニン含有量が半分程度に減少していることが知られているので、これを参考にナメクジに5,7-DHTを投与して5日後の中枢神経系におけるセロトニン含有量をHPLCにて測定した。

その結果、コントロール溶液を投与されたナメクジに比べて、5,7-DHT溶液を投与された方は、セロトニン含有量がおよそ半分程度に減少していた(図1)。これは統計的に有意(P<0.05)だった。

5,7-DHTのナメクジ中枢神経系におけるセロトニンによる電気生理学的変化に対する効果

ナメクジの中枢神経系には多くのセロトニン含有神経細胞が存在するが、セロトニンによって生じる電気生理学的変化は十分に分かっていない。近年、脳神経節中脳に存在するある同定可能なセロトニン含有神経細胞pCSCによる脳神経節前脳へのセロトニン性の投射が明らかになった。この細胞は学習に関与することが推測されている。前脳には自発的に局所場電位が振動しているが、その振動がこの細胞から、興奮した時に放出されるセロトニンによって変化することが推測されている。この変化は学習中に生じることが推測されている。そこで、5,7-DHTがナメクジにおけるセロトニンによる電気生理学的変化に効果があるかどうか判定する一つの指標として、この推測されている変化が有用であると考えられる。

pCSCを興奮させて同時に局所場電位を測定したところ振動数は有意な上昇を認めた。したがって、次にこれが5,7-DHTで抑制されるかどうか調べた。コントロール溶液及び5,7-DHT溶液を投与したナメクジから作成した単離脳標本での電気生理学的測定をした結果が図2に示されている。pCSCの静止電位及びそれに1nAの興奮性電流を加えたときの発火頻度はコントロール溶液を投与したナメクジと5,7-DHTを投与されたそれとの間に有意な違いはなかった(図3)。また、pCSCを興奮させる前の振動の振動数にも有意な差はなかった(図3)。しかし、pCSCの興奮による振動数の上昇は5,7-DHT群で有意に抑制された(図3)。

5,7-DHTによる行動実験

(1)5,7-DHTが短期記憶の獲得、保持、及び想起の少なくとも一つを障害するか、または短期記憶の獲得を障害しないかを調べる実験

記憶には少なくとも3つの過程が存在することが知られており、第一段階が記憶の獲得、第二段階が記憶の保持、そして第三段階が記憶の想起である。前の結果を踏まえて5,7-DHT群には5,7-DHT溶液をコントロール群にはコントロール溶液を投与して5日後に条件付けをおこなって、その次の日に条件刺激を再度提示して条件反応が生じるかどうかを調べた(条件反応試験)。

この条件反応試験の結果、コントロール群に比べて5,7-DHT群での忌避反応(条件反応)を示す個体数の比率は統計的に有意(P<0.05)に減少していた(図4)。

5,7-DHTが長期記憶の獲得、保持、及び想起の少なくとも一つを障害するか、または長期

(2)記憶の獲得を障害しないかを調べる実験

(1)と同様に5,7-DHT溶液またはコントロール溶液を投与して5日後に条件付けをおこなって、今度はその6日後に条件反応試験を行った。

この条件反応試験の結果、コントロール群に比べて5,7-DHT群での条件反応を示す個体数の比率はほとんど同じで、統計的に有意な減少は認められなかった(P>0.05)(図5)。

(3)5,7-DHTが長期記憶の想起を障害するかどうかを調べる実験

(2)とは異なり、条件付けを行って1日後に5,7-DHT溶液またはコントロール溶液を投与して、その5日後(すなわち、条件付け6日後)に条件反応試験を行った。

この条件反応試験の結果、(2)と同様にコントロール群に比べて5,7-DHT群での条件反応を示す個体数の比率はほとんど同じで、統計的に有意な減少は認められなかった(P>0.05)(図6)。

【考察】

ナメクジにおいても他の動物と同様に5,7-DHTにより、セロトニン含有量が減少することが明らかになった。また、pCSCの興奮によるセロトニン性の電気生理学的変化として前脳の局所場電位の振動数上昇を明らかにし、これが5,7-DHTにより障害されることを明らかにした。以上の点から、5,7-DHTがナメクジにおいても中枢セロトニン神経系を抑制する有用な手法であることを明らかにした。これを踏まえ、行動実験を行った結果、セロトニンは短期記憶には関与するが、長期記憶には短期記憶ほど関与しないことが明らかになった。また、長期記憶の形成は短期記憶が欠如していても可能であることから、ナメクジの嗅覚学習では短期記憶と長期記憶が並列処理されることが明らかになった。アメフラシのえら引き込み反射学習やウミウシの光学習でも並列処理の可能性が示唆されているが、この可能性はシナプス可塑性のレベルでの話に過ぎず、行動レベルで明らかにしたものではない。この点、本研究では行動レベルで短期記憶及び長期記憶の処理のされ方を明らかにした点が重要である。

審査要旨 要旨を表示する

軟体動物ナメクジは高度な嗅覚学習を行い、また単離脳を機能を保持したまま培養できるので、学習・記憶の研究に有用なモデル動物である。特に、一回の条件付けでこの学習を成立させることができるので、学習・記憶に関する現象を経時的に追跡するのに有用である。ナメクジにニンジンの匂い(条件刺激)とキニジンの苦み(侵害性の無条件刺激)を同時に提示すると、条件付け(忌避性の嗅覚−味覚連合学習)が成立する。その後ニンジンの匂いをこのナメクジに再度提示すると、ナメクジはそれに対して忌避反応(条件反応)を示す。この忌避反応の記憶は、条件付け後約3週間持続する。条件付け1日後までの記憶はタンパク質合成阻害剤で阻害されないことから短期記憶であり、条件付け2日後またはそれ以降の記憶はそれで阻害されることから長期記憶である、と考えられている。短期記憶と長期記憶の形成過程においては、(1)短期記憶が形成され、その後それが長期記憶になる(逐次処理)という考えと、(2)短期記憶と長期記憶がそれぞれ別々に形成される(並列処理)という考えがある。逐次処理では短期記憶が形成されなければ長期記憶が形成されないのに対し、並列処理では短期記憶が形成されなくても長期記憶が形成される。どちらの処理が行われているかは古くより議論されてきた重要な問題であるが、いまだはっきりしていない。

ナメクジではセロトニンが神経調節物質のひとつである。ナメクジの中枢神経系には多くのセロトニン含有神経細胞が存在している。また、セロトニンによって中枢神経系の生化学的および電気生理学的変化が生じることが知られている。したがって、セロトニンがナメクジの学習に重要な役割を果たしている可能性がある。

そこで、白畑は、まず、セロトニンがナメクジの短期記憶及び長期記憶に関与しているかどうかを調べた。他の脊椎動物及び無脊椎動物では選択的セロトニン枯渇薬5,7-dihydroxytryptamine(5,7-DHT)が中枢神経系においてセロトニン含有量を減らし、セロトニンによる電気生理学的変化を抑制することが知られている。はじめにナメクジにおいてもこの点について調べ、5,7-DHT の中枢セロトニン神経系への障害効果を確認した後、行動実験を行って、学習行動に対するこの薬物の効果を調べた。

ナメクジ中枢神経系のセロトニン含有量に対する5,7-DHTの効果

アメフラシの中枢神経系におけるセロトニン含有量に対する5,7-DHTの効果を調べた実験では、5,7-DHTの投与5日後にセロトニン含有量が半分程度に減少していることが知られているので、これを参考にナメクジに5,7-DHTを投与して5日後の中枢神経系におけるセロトニン含有量をHPLCにて測定した。その結果、コントロール溶液を投与されたナメクジに比べて、5,7-DHT溶液を投与された方は、セロトニン含有量がおよそ半分程度に減少していた。これは統計的に有意(P < 0.05)な減少であった。

ナメクジ中枢神経系におけるセロトニンの効果を5,7-DHTは抑制する

ナメクジの中枢神経系には多くのセロトニン含有神経細胞が存在するが、セロトニンの機能については十分に分かっていない。近年、脳神経節中脳に存在する同定可能なセロトニン含有神経細胞pCSCによる脳神経節前脳へのセロトニン性の投射が明らかになった。この細胞は学習に関与することが推測されている。前脳には自発的に局所場電位が振動しているが、その振動がこの細胞から、興奮した時に放出されるセロトニンによって変化することが推測されている。この変化は学習中に生じることが推測されている。そこで、5,7-DHTがナメクジにおけるセロトニンによる電気生理学的変化に効果があるかどうか判定する一つの指標として、この推測されている変化が有用であると考えられる。

pCSCを興奮させて同時に局所場電位を測定したところ振動数は有意な上昇を認めた。したがって、次にこれが5,7-DHTで抑制されるかどうか調べた。コントロール溶液及び5,7-DHT溶液を投与したナメクジから作成した単離脳標本での電気生理学的測定をした結果、pCSCの静止電位及びそれに1 nAの興奮性電流を注入したときの発火頻度はコントロール溶液を投与したナメクジと5,7-DHTを投与されたそれとの間に有意な違いはなかった。また、pCSCを興奮させる前の振動の振動数にも有意な差はなかった。しかし、pCSCの興奮による振動数の上昇は5,7-DHT群で有意に抑制された。

学習行動に対する5,7-DHTの効果

まず、5,7-DHTが短期記憶を障害するかどうか、調べた。記憶には少なくとも3つの過程が存在することが知られており、第一段階が記憶の獲得、第二段階が記憶の保持、そして第三段階が記憶の想起である。前の結果を踏まえて5,7-DHT群には5,7-DHT溶液をコントロール群にはコントロール溶液を投与して5日後に条件付けをおこなって、その次の日に条件刺激を再度提示して条件反応が生じるかどうかを調べた(条件反応試験)。

この条件反応試験の結果、コントロール群に比べて5,7-DHT群での忌避反応(条件反応)を示す個体数の比率は統計的に有意(P < 0.05)に減少していた。

次に、5,7-DHTが長期記憶の獲得を障害するかどうか、調べた。5,7-DHT溶液またはコントロール溶液を投与して5日後に条件付けをおこなって、今度はその6日後に条件反応試験を行った。この条件反応試験の結果、コントロール群に比べて5,7-DHT群での条件反応を示す個体数の比率はほとんど同じで、両群間で統計的に有意な差異は認められなかった。

次に、5,7-DHTが長期記憶の想起を障害するかどうか、を調べた。(2)とは異なって、条件付けを行って1日後に5,7-DHT溶液またはコントロール溶液を投与して、その5日後(すなわち、条件付け6日後)に条件反応試験を行った。その結果、(2)と同様にコントロール群に比べて5,7-DHT群での条件反応を示す個体数の比率はほとんど同じで、統計的に有意な減少は認められなかった(P > 0.05)。

本研究は、pCSCの興奮によるセロトニン性の電気生理学的変化として前脳の局所場電位の振動数上昇を観測し、これが5,7-DHTにより障害されることを明らかにした。また、5,7-DHTがナメクジにおいても中枢セロトニン神経系を抑制する有用な手法であることを明らかにした。これを踏まえ、行動実験を行った結果、セロトニンは短期記憶には関与するが、長期記憶には短期記憶ほど関与しないことが明らかになった。また、長期記憶の形成は短期記憶が欠如していても可能であることから、ナメクジの嗅覚学習では短期記憶と長期記憶が並列処理されることを初めて明らかにした。アメフラシのえら引き込み反射学習やウミウシの光学習でも並列処理の可能性が示唆されているが、この可能性はシナプス可塑性のレベルでの話であり、行動レベルで明らかにしたものではない。この点、本研究では行動レベルで短期記憶及び長期記憶の処理のされ方が異なることを明らかにした点が新規な特徴である。以上より、白畑の本研究は、学習・記憶の研究の進歩に貢献するものであり、博士(薬学)の学位を授与するに値するものであると判定された。

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