学位論文要旨



No 121537
著者(漢字) 西内(竹原),可織
著者(英字)
著者(カナ) ニシウチ(タケハラ),カオリ
標題(和) 長期記憶形成制御と貯蔵の座としての内側前頭前野
標題(洋) The Medial Prefrontal Cortex as a Site for Integration of Memory Acquisition,Storage and Retrieval
報告番号 121537
報告番号 甲21537
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1180号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 川原,茂敬
 東京大学 助教授 東,伸昭
内容要旨 要旨を表示する

【序】

ヒトが海馬を中心とする内側側頭葉を損傷すると最近の記憶は失われるが、昔の記憶は全く影響を受けない。このことから記憶は学習後に海馬の働きにより海馬外へ固定化され、安定に保持されると考えられてきた。私は修士課程の研究において、連合学習の一つであるラット瞬目反射条件付けのトレース課題を用い、内側前頭前野が最終的な記憶貯蔵を担う海馬外神経回路の一構成要素であることを見出した(Takeharaetal.,2003)(Fig.1)。このことは前頭前野が長期記憶の形成および貯蔵に重要である可能性を示唆する。一方、過去の霊長類を用いた電気生理学的実験から前頭前野は作業記憶、行動決定、注意などに重要であると考えられており、長期記憶への関与は今までほとんど報告されていない。そこで前頭前野の新機能であると予想される、長期記憶における役割をさらに追求することを目的とし、獲得、固定化、貯蔵、想起といった各記憶過程における前頭前野の必要性と応答性を、薬物局所投与法を用いた行動解析および多細胞同時神経活動解析により検討した。

【結果】

最終的な記憶痕跡の形成に学習後の前頭前野での可塑的変化が必要である

記憶は獲得後に海馬の働きにより海馬外領域へと徐々に固定化される(システム固定化)という仮説に従って考えると、もし前頭前野に最終的な記憶痕跡の一部が貯蔵されるのであれば、学習後に前頭前野で可塑的変化が起きることが予想される。そこで前頭前野のNMDA受容体依存的可塑性に着目し、システム固定化への関与とその時間スケールを調べた。学習成立直後からの2週間に浸透圧ポンプを用いて前頭前野にNMDA受容体阻害薬(D-APV)を慢性的に局所投与すると、前頭前野依存的な獲得後後期の記憶保持が障害された(Session 1 in Fig.2A)が、学習成立2週間から4週間後に行っても全く影響がなかった(Fig.2B)。以上より学習成立直後の2週間における前頭前野のNMDA受容体の活性化による可塑的変化が最終的な記憶痕跡の形成に必要であることが示された。この結果は前頭前野がシステム固定化に必要であると同時に最終的に記憶を貯蔵する神経回路において重要な働きをすることを強く示唆する。

前頭前野は記憶の獲得と初期の固定化に必要である

前頭前野はシステム固定化や貯蔵といった記憶形成の後期過程特異的に重要であるのか、それとも獲得や固定化といった初期過程から関与するのであろうか?ラットは条件付け中に提示刺激間の連合を学習し(獲得)、この記憶は条件付け後に不安定な状態から安定な状態へと遷移する(固定化)。そこで日々の条件付け前または直後に前頭前野に薬物を局所投与し、獲得と固定化への影響を区別して調べた。条件付け中に前頭前野を可逆的に不活性化した(GABAA受容体アゴニスト:Muscimol)場合や、そのNMDA受容体を阻害した(NMDA受容体アンタゴニスト:APV)場合は記憶の獲得が顕著に障害されたが、一度獲得した記憶の表出はあまり影響を受けなかった(Fig.3A)。一方、条件付け直後に同様の処置を行った場合は固定化が中程度に障害を受けた(Fig.3B)。しかし条件付け終了3時間後から前頭前野を不活性化しても、固定化は影響を受けなかった。以上より前頭前野は記憶の獲得および初期の固定化に必要であり、その情報処理は前頭前野NMDA受容体依存的に達成されることが示された。

前頭前野は提示刺激間の連合を符号化し、その表象は記憶過程依存的に変化する

上述の実験から前頭前野は記憶の獲得から貯蔵まで常に必要であることが示された。では各記憶過程において前頭前野は何を符号化し、どのような働きをしているのであろうか?この点について検討するため、記憶獲得中と学習成立6週間後の記憶想起中に前頭前野の単一神経細胞群の活動を測定し、提示刺激(CS:音、US:瞼への電気刺激、TI:CS-US間隔)に対する応答性を調べた(Fig.4A,B)。前頭前野には提示刺激に応答する細胞(1型)だけでなく、試行全体(CS提示からUS終了まで)に応答する細胞(2型)が観察され、多くの場合単一細胞が1と2型両方の応答パターンを示した(Fig.4B)。記憶獲得初期から6週間後の記憶想起時まで一貫して、全体の約80%の神経細胞が1型の応答を示し、全体の約60%の細胞は2型の応答を示した。両型の応答細胞はCSとUSをランダムに提示し、刺激間の連合を不可能にした(偽条件付け:Pseudo)群では20%以下しかみられなかった(以上Fig.4C)。階層クラスタ分析により応答パターンを分類したところ、1型応答細胞はCSやTIに対し一過的に興奮性応答を示す細胞群とCS提示から持続的に応答する細胞群に分けられた(Fig.4D)。それに対して、2型応答細胞は試行中のみ応答を示す細胞群と試行終了後も数秒間持続的に応答する細胞群に分けられた(Fig.4E)。これらの細胞群の全体に占める割合を記憶過程ごとに解析したところ、記憶獲得時にはCS提示から持続的に抑制性応答を示す細胞群が多数を占めたが、記憶想起時には6週間前に記憶を獲得した群(Ret-Paired)ではこの細胞群の割合は減少し、CSに対して一過的な興奮性応答を示す細胞群の割合が増えた(Fig.4F左)。この細胞集団の割合の変化は6週間前に記憶を獲得していない群(Ret-Pseudo)では見られなかった。さらに記憶獲得初期(Early)では試行全体に対して持続的に抑制性応答を示す細胞の割合が特に多かった(Fig. 4F右)。以上より、前頭前野には記憶獲得中および6週間前の記憶の想起中に提示刺激や試行全体に応答する細胞群が多数存在することが示された。応答細胞は偽条件付け群では少数であることより、集団として提示刺激間の連合を符号化していると考えられる。また前頭前野は記憶の獲得中は提示刺激や試行に対して持続的な応答を示し、動物にとって重要な出来事の出現を大まかに符号化していると考えられる。それに対して、6週間前に獲得した記憶の想起中は、前頭前野は提示刺激に対して一過的な応答を示し、行動出力を生み出すべき入力を正確に符号化するようになることが示唆される。

【まとめと考察】

本研究の一連の成果を通じて、瞬目反射条件付けトレース課題の記憶の獲得、固定化、貯蔵そして想起の全過程において、前頭前野は記憶を担う神経回路の重要な構成要素であることが示された。記憶獲得中では、前頭前野は記憶すべき学習試行の出現に持続的に反応し、海馬や小脳など記憶回路の他の構成要素が試行内容を符号化するのを修飾する働きをしているが、記憶獲得6週間後ではCS提示に一過的に反応し、小脳など行動出力を生み出す構成要素へ実行指令を送る働きをするようになると考えられる。このような前頭前野の機能の変化はシステム固定化を通じ、前頭前野の神経回路が学習後に成熟することにより達成されると考えられる。他の脳領域と豊富な結合を持つ前頭前野は記憶回路の分散的に存在する構成要素を結びつけるのに適しており、他の脳領域と相互作用することで記憶情報処理を制御しているのではないか。本研究の一連の成果は、短期記憶への関与が強調されてきた前頭前野が長期記憶の形成や貯蔵においても重要であることを示唆し、前頭前野の機能に新たな知見を加えるものである。

Fig.1 海馬と前頭前野の記憶保持への関与の時間依存性。海馬(左)は獲得後初期に重要であり、前頭前野(右)は獲得後後期に重要になる。

Fig.2 前頭前野依存的に保持される獲得後後期の記憶形成への前頭前野NMDA受容体の関与。グラフ上:実験スケジュール。各グラフ左側が初回条件付け時の、右側が6週間後に行った再条件付け時の学習率を示す。

Fig.3 前頭前野の記憶の獲得と初期の固定化への関与。グラフ上:薬物投与パターン、中:薬物投与スケジュール。

Fig.4 前頭前野の単一神経細胞群の提示刺激に対する応答とその記憶過程依存的変化。A.記録スケジュール。左はCとの対応。B.前頭前野神経細胞の提示刺激に対する応答の例。上:提示刺激と解析の時間関係。左:活動電位の波形。この神経細胞はCS選択的な興奮性応答(1型)と同時に試行1秒後までの持続的な興奮性応答(2型)も示した。C.応答細胞の割合の記憶過程依存的変化。D.1型応答細胞の応答パターン分類。E.2型応答細胞の応答パターン分類。F.各応答パターンの割合の記憶過程依存的変化。

Takehara K., Kawahara S., Kirino Y. (2003) Time-dependent reorganization of the brain components underlying memory retention in trace eyeblink conditioning. J Neurosci 23:9897-9905.Takehara-Nishiuchi, K., Kawahara, S., and Kirino, Y. (2005) NMDA receptor-dependent processes in the medial prefrontal cortex are important for acquisition and the early stage of consolidation during trace, but not delay eyeblink conditioning. Learn. Mem 12: 606-614
審査要旨 要旨を表示する

ヒトが海馬を中心とする内側側頭葉を損傷すると最近の記憶は失われるが、昔の記憶は全く影響を受けない。このことから記憶は学習後に海馬の働きにより海馬外へ固定化され、安定に保持されると考えられてきた。西内(旧姓竹原)は修士課程の研究において、連合学習の一つであるラット瞬目反射条件付けのトレース課題を用い、内側前頭前野が最終的な記憶貯蔵を担う海馬外神経回路の一構成要素であることを見出した。このことは前頭前野が長期記憶の形成および貯蔵に重要である可能性を示唆する。一方、過去の霊長類を用いた電気生理学的実験から前頭前野は作業記憶、行動決定、注意などに重要であると考えられており、長期記憶への関与は今までほとんど報告されていない。そこで、前頭前野の新機能であると予想される、長期記憶における役割をさらに追究することを目的とし、記憶の獲得、固定化、貯蔵想起といった各記憶過程における前頭前野の必要性と応答性を、薬物局所投与法を用いた行動解析および多細胞同時神経活動解析により検討した。

最終的な記憶痕跡の形成に学習後の前頭前野での可塑的変化が必要である。

記憶は獲得後に海馬の働きにより海馬外領域へと徐々に固定化される(システム固定化)という仮説に従って考えると、もし前頭前野に最終的な記憶痕跡の一部が貯蔵されるのであれば、学習後に前頭前野で可塑的変化が起きることが予想される。そこで前頭前野のNMDA受容体依存的可塑性に着目し、システム固定化への関与とその時間スケールを調べた。学習成立直後からの2週間に浸透圧ポンプを用いて前頭前野にNMDA受容体阻害薬(D-APV)を慢性的に局所投与すると、前頭前野依存的な獲得後後期の記憶保持が障害されたが、学習成立2週間から4週間後に行っても全く影響がなかった。以上より学習成立直後の2週間における前頭前野のNMDA受容体の活性化による可塑的変化が最終的な記憶痕跡の形成に必要であることが示された。この結果は前頭前野がシステム固定化に必要であると同時に最終的に記憶を貯蔵する神経回路において重要な働きをすることを強く示唆する。

前頭前野は記憶の獲得と初期の固定化に必要である。

前頭前野はシステム固定化や貯蔵といった記憶形成の後期過程特異的に重要であるのか、それとも獲得や固定化といった初期過程から関与するのであろうか?ラットは条件付け中に提示刺激間の連合を学習し(獲得)、この記憶は条件付け後に不安定な状態から安定な状態へと遷移する(固定化)。そこで日々の条件付け前または直後に前頭前野に薬物を局所投与し、獲得と固定化への影響を区別して調べた。条件付け中に前頭前野を可逆的に不活性化した(GABAA受容体アゴニスト:Muscimol) 場合や、そのNMDA受容体を阻害した(NMDA受容体アンタゴニスト:APV) 場合は記憶の獲得が顕著に障害されたが、一度獲得した記憶の表出はあまり影響を受けなかった。一方、条件付け直後に同様の処置を行った場合は固定化が中程度に障害を受けた。しかし条件付け終了3時間後から前頭前野を不活性化しても、固定化は影響を受けなかった。以上より前頭前野は記憶の獲得および初期の固定化に必要であり、その情報処理は前頭前野NMDA受容体依存的に達成されることが示された。

前頭前野は提示刺激間の連合を符号化し、その表象は記憶過程依存的に変化する。

上述の実験から前頭前野は記憶の獲得から貯蔵まで常に必要であることが示された。次に、各記憶過程において前頭前野は何を符号化し、どのような働きをしているのか、を検討するため、記憶獲得中と学習成立6週間後の記憶想起中に前頭前野の単一神経細胞群の活動を測定し、提示刺激(CS:音、US:瞼への電気刺激、TI:CS-US間隔)に対する応答性を調べた。前頭前野には提示刺激に応答する細胞(1型)だけでなく、試行全体(CS提示からUS終了まで)に応答する細胞(2型)が観察され、多くの場合単一細胞が1と2型両方の応答パターンを示した。記憶獲得初期から6週間後の記憶想起時まで一貫して、全体の約80%の神経細胞が1型の応答を示し、全体の約60%の細胞は2型の応答を示した。両型の応答細胞はCSとUSをランダムに提示し、刺激間の連合を不可能にした偽条件付け群では20%以下しかみられなかった。階層クラスタ分析により応答パターンを分類したところ、1型応答細胞はCSやTIに対し一過的に興奮性応答を示す細胞群とCS提示から持続的に応答する細胞群に分けられた。それに対して、2型応答細胞は試行中のみ応答を示す細胞群と試行終了後も数秒間持続的に応答する細胞群に分けられた。これらの細胞群の全体に占める割合を記憶過程ごとに解析したところ、記憶獲得時にはCS提示から持続的に抑制性応答を示す細胞群が多数を占めたが、記憶想起時には6週間前に記憶を獲得した群(Ret-Paired)ではこの細胞群の割合は減少し、CSに対して一過的な興奮性応答を示す細胞群の割合が増えた。この細胞集団の割合の変化は6週間前に記憶を獲得していない群(Ret-Pseudo)では見られなかった。さらに記憶獲得初期(Early)では試行全体に対して持続的に抑制性応答を示す細胞の割合が特に多かった。以上より、前頭前野には記憶獲得中および6週間前の記憶の想起中に提示刺激や試行全体に応答する細胞群が多数存在することが示された。応答細胞は偽条件付け群では少数であることより、集団として提示刺激間の連合を符号化していると考えられる。また前頭前野は記憶の獲得中は提示刺激や試行に対して持続的な応答を示し、動物にとって重要な出来事の出現を大まかに符号化していると考えられる。それに対して、6週間前に獲得した記憶の想起中は、前頭前野は提示刺激に対して一過的な応答を示し、行動出力を生み出すべき入力を正確に符号化するようになることが示唆される。

西内の本研究により、瞬目反射条件付けトレース課題の記憶の獲得、固定化、貯蔵そして想起の全過程において、前頭前野は記憶を担う神経回路の重要な構成要素であることが示された。記憶獲得中では、前頭前野は記憶すべき学習試行の出現に持続的に反応し、海馬や小脳など記憶回路の他の構成要素が試行内容を符号化するのを修飾する働きをしているが、記憶獲得6週間後ではCS提示に一過的に反応し、小脳など行動出力を生み出す構成要素へ実行指令を送る働きをするようになると考えられる。このような前頭前野の機能の変化はシステム固定化を通じ、前頭前野の神経回路が学習後に成熟することにより達成されると考えられる。他の脳領域と豊富な結合を持つ前頭前野は記憶回路の分散的に存在する構成要素を結びつけるのに適しており、他の脳領域と相互作用することで記憶情報処理を制御しているのではないか。本研究の一連の成果は、短期記憶への関与が強調されてきた前頭前野が長期記憶の形成や貯蔵においても重要であることを示唆し、前頭前野の機能に新たな知見を加えるものであり、従って、博士(薬学)の学位に値すると判断された。

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