学位論文要旨



No 121538
著者(漢字) 種村,修平
著者(英字)
著者(カナ) タネムラ,シュウヘイ
標題(和) マスト細胞からの顆粒放出に対する"プロテインキナーゼ阻害薬"SP600125の抑制作用とその分子機構の解析
標題(洋)
報告番号 121538
報告番号 甲21538
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第1181号
研究科 薬学系研究科
専攻 機能薬学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 一條,秀憲
 東京大学 助教授 青木,淳賢
 東京大学 助教授 東,伸昭
 東京大学 講師 黒川,健児
内容要旨 要旨を表示する

〔はじめに〕

マスト細胞は、アレルギーや炎症反応で主要な働きをする細胞として知られている。抗原が細胞表面上のIgE受容体に結合すると(抗原刺激)、細胞内にシグナルが伝わりマスト細胞は活性化される。活性化されたマスト細胞は、サイトカイン遺伝子の発現とヒスタミン等を含んだ細胞内顆粒の放出の主に2種の応答により炎症反応を誘導する(図1)。最近、プロテインキナーゼの阻害薬であるSP600125は、気管支喘息のモデルラットにおいて抗原刺激時に気管支への好酸球やリンパ球の浸潤を抑制することが報告された。マスト細胞はアレルギーや炎症時に血球細胞を組織へ誘導する作用をもつことから、SP600125が抗原刺激時のマスト細胞機能を抑制する可能性を考え、その作用の検討と分子機構の解明が試みられた。その結果、SP600125はマスト細胞の細胞応答を効果的に抑制すること、さらにその抑制作用は従来考えられていたプロテインキナーゼの阻害ではなく、脂質キナーゼPI3Kのδアイソフォームを特異的に阻害した結果である可能性を見出した。

〔結果〕

プロテインキナーゼ阻害薬SP600125はマスト細胞の機能を抑制する

SP600125はストレス応答性MAPキナーゼであるJNKを特異的に阻害することが知られている。そこで、マウス骨髄から調製したマスト細胞を用いて、マスト細胞抗原刺激時の顆粒放出に対する諸種のMAPキナーゼ阻害薬の効果を検討した。ERK阻害薬PD98059、p38阻害薬SB203580は顕著な抑制作用を示さなかったのに対し、SP600125はその濃度に依存して、顆粒放出をほぼ完全に抑制した(図2)。その効果は、抗原刺激のシグナル伝達に必須な分子である脂質キナーゼPI3Kの阻害薬LY294002と同程度であった。次に、抗原刺激によるサイトカインmRNAの発現に対するSP600125の効果をノーザン法により検討した。刺激後に発現誘導されるIL-6、TNF-α、及びIL-13は、SP600125の濃度に依存してほぼ完全に抑制された。これもLY294002と同程度の効果であった。以上より、SP600125はLY294002と同様にマスト細胞機能を効果的に抑制する阻害薬であることが示された。

SP600125の阻害効果はJNKとは異なる標的因子の阻害による

以上の結果から、SP600125の標的であるJNKシグナルがマスト細胞の機能に介在すると考えられた。そこでJNKシグナルの細胞応答への関与を検討するため、抗原刺激時の顆粒放出とJNK活性化の経時変化を比較検討した。結果、顆粒放出反応は刺激後5分以内にほぼ完了したのに対し、JNKの活性化は8分以降から観察され、両者に不一致を認めた。そこでより直接的に検討するため、JNKの活性化因子であるMKK7を欠損したマウス胎児からマスト細胞を調製し、細胞応答を検討した。MKK7欠損マスト細胞では、JNKの活性化が選択的に抑制されていたが、抗原刺激による顆粒放出とサイトカイン産生は共に観察され、野生型との顕著な差は検出されなかった。さらに、野生型と同様にMKK7欠損マスト細胞でも、SP600125により顆粒放出が低下した(図3)。以上の結果から、JNKシグナルはマスト細胞の抗原刺激による細胞応答には介在しないこと、さらにSP600125はJNKとは別の因子を標的として細胞応答を抑制していることが示された。

SP600125はPI3Kシグナル系を抑制する

以上の結果を受けて、細胞応答を抑制する際にSP600125が標的とする因子を探索した。抗原刺激時の細胞内カルシウム濃度の上昇は顆粒放出に必須であることが知られており、細胞内カルシウムの誘導試薬は、それ単独で顆粒放出を誘導できる。そこで、カルシウム誘導試薬による顆粒放出反応に対するSP600125効果を検討した結果、SP600125存在下、非存在下にかかわらずカルシウム誘導試薬により同程度の顆粒放出が検出された。このことから、SP600125はカルシウムシグナル以降ではなく、IgE受容体からカルシウムシグナルに至るまでのシグナル経路に作用することが示された。

次にカルシウムシグナルの上流にあり、抗原刺激時のシグナル分子で重要なPI3Kの活性化に与える影響について検討した。PI3Kが産生するPIP3の生成量は、細胞から抽出した脂質をTLCで展開して測定した。その結果、刺激依存的に産生されるPIP3が、PI3Kの阻害薬であるwortmanninと同様に、SP600125の前処理により完全に消失した(図4)。また、PI3Kの下流の分子でもあるAktの活性化も同様に低下した。PI3Kに対する阻害薬や遺伝子欠損マスト細胞を用いた研究から、PI3Kの活性化はマスト細胞の細胞応答に必須であることが知られている。このため、SP600125による細胞応答の抑制もPI3Kシグナル系の抑制を介していると考えられる。

次に、SP600125がPI3Kに与える効果の刺激依存性について検討した。マスト細胞を、抗原、IL-3、stemcellfactor、アデノシンでそれぞれ刺激した時のPI3Kの活性化に与えるSP600125の影響についてAktの活性を指標に検討した結果、アデノシン刺激においてのみ、SP600125による顕著な抑制効果は認められなかった(図5)。アデノシンはGPCR系のシグナル伝達経路を用いて下流にシグナルを伝えるのに対して、他の刺激はチロシンキナーゼ系のシグナル伝達経路を用いる。したがって、SP600125はチロシンキナーゼ系の経路を阻害することによりPI3Kシグナルを抑制していると考えられた。

SP600125はPI3Kδアイソフォームを特異的に抑制する

抗原刺激時に、IgE受容体直下ではたらくチロシンキナーゼとして、SykとSrc系キナーゼのFynやLynが知られている。また、マスト細胞の機能を効果的に抑制する阻害薬の多くは、これらの分子を阻害することが知られている。このため、Syk、Fyn、Lynの活性化に対するSP600125の効果を検討したが、顕著な抑制効果は見出されなかった。

次に、チロシンキナーゼ系のシグナル伝達系でPI3Kと直接結合して活性化を調節するGab2について検討した。Gab2は刺激時に、上流のチロシンキナーゼによってリン酸化されてPI3Kと結合することが知られている。そこで、PI3KとGab2の結合量で活性化状態を検討したところ、上流のSrcファミリーの阻害薬であるPP2ではGab2の活性化が完全に消失したのに対して、SP600125処理では抑制されなかった。すなわち、SP600125は受容体からGab2の活性化に至るシグナル系には作用していないことが示唆された。

さらに、SP600125が直接PI3Kのキナーゼ活性に対して与える影響について検討した。PI3Kは制御サブユニットと触媒サブユニットのヘテロダイマー構造をとることが知られている。キナーゼ活性を担う触媒サブユニットp110の中で、チロシンキナーゼ系のシグナルを伝えるアイソフォームとしてα、β、δの3種類が知られている。p110α、βは多くの組織に共通して存在するが、p110δの発現は血球系細胞に特異的で、マスト細胞の細胞応答に重要な働きをすることが最近報告されている。そこで、SP600125がp110αとp110δの脂質キナーゼ活性に直接与える影響をinvitroで検討した結果、p110αを阻害することなく、p110δのキナーゼ活性を顕著に阻害した(図6)。この結果から、SP600125はp110δをアイソフォーム特異的に阻害することにより、抗原刺激時のマスト細胞の機能を抑制していると考えられる。

〔まとめ〕

本研究から、1)SP600125がマスト細胞での抗原刺激時の細胞応答を顕著に抑制し、2)SP600125の効果が従来考えられたJNK経路の抑制とは独立した効果であることが見出された。さらに、3)SP600125の抑制効果はLY294002と同様にPI3K経路の抑制にあり、4)その効果はPI3Kのδアイソフォームを特異的に阻害した結果であることが示された(図7)。

SP600125はJNKの阻害剤として幅広く用いられており、現在までに500報以上の論文で使用されている。しかしながら、今回の結果からJNKの阻害を目的としてSP600125を用いる際には、過剰発現やノックダウンなどの実験系も併せてJNKの関与を判断すべきであると考えられる。特にPI3Kδアイソフォームを特異的に発現している血球系細胞においてはJNKの阻害薬としてのSP600125の使用は慎重に判断すべきである。また、PI3Kの各種アイソフォーム間における使い分けに関しては不明な点が多いのが現状である。最近の報告でp110δの遺伝子に変異を入れたマウスでは、マスト細胞においてPI3Kシグナルと細胞機能が顕著に低下することが示されており、今回の結果はこれを支持するものである。また、SP600125を改変することによりPI3Kδアイソフォームのみに働く阻害薬が得られ、アイソフォーム間の使い分けに関して新たな知見が得られる可能性がある。

図1 抗原刺激によるマスト細胞の細胞応答

図2 顆粒放出反応に対する各種キナーゼ阻害薬の効果

図3 MKK7欠損細胞における顆粒放出反応

図4 PI3Kシグナルに対するSP600125の効果

図5 抗原刺激時とアデノシン刺激時のPI3Kシグナルに対するSP600125の効果

図6 PI3Kの各アイソフォームの脂質キナーゼ活性に直接与えるSP600125の効果

図7 SP600125の作用機序

審査要旨 要旨を表示する

マスト細胞は、アレルギーや炎症反応において主要な働きをする細胞として知られている。抗原が細胞表面上のIgE受容体に結合すると(抗原刺激)、細胞内にシグナルが伝わりマスト細胞は活性化される。活性化されたマスト細胞は、サイトカイン遺伝子の発現とヒスタミン等を含んだ細胞内顆粒の放出という、主に2種の応答により炎症反応を誘導する。最近、プロテインキナーゼの阻害薬であるSP600125は、気管支喘息のモデルラットにおいて抗原刺激による気管支への好酸球やリンパ球の浸潤を抑制することが報告された。マスト細胞はアレルギーや炎症時に血球細胞を組織へ誘導する作用をもつことから、SP600125が抗原刺激時のマスト細胞機能を抑制する可能性が考えられた。「マスト細胞からの顆粒放出に対する“プロテインキナーゼ阻害薬”SP600125の抑制作用とその分子機構の解析」と題する本論文において、SP600125はマスト細胞の細胞応答を効果的に抑制すること、さらにその抑制作用は従来考えられていたプロテインキナーゼの阻害ではなく、脂質キナーゼPI3Kのδアイソフォームを特異的に阻害した結果であるという知見を得ている。

プロテインキナーゼ阻害薬SP600125はマスト細胞の機能を抑制する

マスト細胞からの抗原刺激による顆粒放出に対する諸種のMAPキナーゼ阻害薬の効果を検討した。ERK阻害薬PD98059、p38阻害薬SB203580は顕著な抑制作用を示さなかったのに対し、SP600125はその濃度に依存して、顆粒放出をほぼ完全に抑制した。この抑制効果は、抗原刺激のシグナル伝達に必須な分子である脂質キナーゼPI3Kの阻害薬LY294002と同程度であった。次に、抗原刺激によるサイトカインmRNAの発現に対するSP600125の効果をノーザン法により検討した。刺激後に発現誘導されるIL-6、TNF-α 、及びIL-13は、SP600125の濃度に依存してほぼ完全に抑制された。この抑制効果もLY294002と同程度であった。以上より、SP600125はLY294002と同様にマスト細胞の機能を効果的に抑制する阻害薬であることが示された。

SP600125はJNKとは異なる標的に作用してマスト細胞の機能を抑制する

SP600125の標的として知られているJNKシグナルの細胞応答への関与を検討するため、抗原刺激時の顆粒放出とJNK活性化の経時変化を比較検討した。その結果、顆粒放出反応は刺激後5分以内にほぼ完了したのに対し、JNKの活性化は8分以降から観察され、両者に不一致を認めた。さらに、JNKの活性化因子であるMKK7を欠損したマウス胎児からマスト細胞を調製し、細胞応答を検討した。MKK7欠損マスト細胞では、JNKの活性化が選択的に抑制されていたが、抗原刺激による顆粒放出とサイトカイン産生は共に観察され、野生型との顕著な差は見出されなかった。以上の結果から、JNKシグナルはマスト細胞の抗原刺激による細胞応答には介在しないこと、さらにSP600125はJNKとは別の因子を標的として細胞応答を抑制していることが示された。

SP600125はPI3Kシグナル系を抑制する

以上の結果を受けて、細胞応答を抑制するSP600125の新しい標的因子を探索した。抗原刺激による顆粒放出に細胞内カルシウム濃度の上昇は必須であり、細胞内カルシウムの誘導試薬は、それ単独で顆粒放出を誘導できる。そこで、カルシウム誘導試薬による顆粒放出反応に対するSP600125効果を検討した。その結果、SP600125存在下、非存在下にかかわらず、カルシウム誘導試薬により同程度の顆粒放出が認められた。このことから、SP600125はカルシウムシグナル以降ではなく、IgE受容体からカルシウムシグナルに至るまでのシグナル経路に作用することが示唆された。次にカルシウムシグナルの上流にあり、抗原刺激時のシグナル分子で重要なPI3Kの活性化に与える影響について検討した。その結果、刺激に依存してPI3Kにより産生されるPIP3が、PI3Kの阻害剤であるwortmanninと同様に、SP600125の前処理により完全に消失した。また、PI3Kの下流の分子であるAktの活性化も同様に低下した。PI3Kに対する阻害剤や遺伝子欠損マスト細胞を用いた研究から、PI3Kの活性化はマスト細胞の細胞応答に必須であることが知られている。このため、SP600125による細胞応答の抑制もPI3Kシグナル系の抑制を介すると考えられた。

SP600125はPI3Kδアイソフォームを特異的に抑制する

抗原刺激時に、IgE受容体の直下ではたらくチロシンキナーゼとして、SykとSrc系キナーゼのFynやLynが知られている。また、マスト細胞の機能を効果的に抑制する阻害剤の多くは、これらの分子を阻害することが知られている。このため、Syk、Fyn、Lynの活性化に対するSP600125の効果を検討したが、顕著な抑制効果は見出されなかった。次に、チロシンキナーゼ系のシグナル伝達系でPI3Kと直接結合して活性化を調節するGab2について検討した。上流のSrcファミリーの阻害剤であるPP2ではGab2の活性化が完全に消失したのに対して、SP600125処理では抑制されなかった。すなわち、SP600125はIgE受容体からGab2の活性化に至るシグナル系には作用していないことが示された。

さらに、SP600125が直接PI3Kのキナーゼ活性に対して与える影響について検討した。キナーゼ活性を担う触媒サブユニットp110の中で、チロシンキナーゼ系のシグナルを伝えるアイソフォームとしてα、β、δの3種が知られている。p110α、βは多くの組織に共通して存在するが、p110δの発現は血球系細胞に特異的で、マスト細胞の細胞応答に重要な働きをすることが指摘されている。そこで、SP600125がp110αとp110δの脂質キナーゼ活性に直接与える影響をin vitroで検討した結果、p110αを阻害することなく、p110δのキナーゼ活性を顕著に阻害した。以上の結果から、SP600125はp110δのアイソフォームを特異的に阻害することにより、抗原刺激によるマスト細胞の活性化を抑制することが示された。

本研究から、マスト細胞におけるSP600125の作用機序について、次のような結果が得られた。1)SP600125はマスト細胞での抗原刺激による細胞応答を顕著に抑制する。2)この抑制効果は従来考えられたプロテインキナーゼJNK経路の抑制とは独立した機序による。3)SP600125の抑制効果はLY294002と同様にPI3K経路の抑制にある。4)SP600125はPI3Kのδアイソフォームを特異的に阻害する。本論文の結果は、JNK阻害薬として汎用されているSP600125の抑制作用の解釈には注意が必要であること、さらにSP600125及びその改変体がPI3Kの各種アイソフォームに対して特異的な阻害薬となり得る可能性を提示している。以上を要するに、本論文はマスト細胞における抗原刺激後のシグナル伝達機構について有用な情報を提供しており、博士(薬学)の学位として十分な価値があるものと認められる。

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