No | 121601 | |
著者(漢字) | 豊泉,太郎 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | トヨイズミ,タロウ | |
標題(和) | 神経情報の符号化およびシナプス可塑性に関する情報理論的研究 | |
標題(洋) | Information Theoretical Study on Neural Coding and Synaptic Plasticity | |
報告番号 | 121601 | |
報告番号 | 甲21601 | |
学位授与日 | 2006.03.23 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(科学) | |
学位記番号 | 博創域第183号 | |
研究科 | 新領域創成科学研究科 | |
専攻 | 複雑理工学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | 背景 脳神経回路において神経細胞はお互いに神経パルス(スパイク)を伝え合うことによって情報処理を行なっている。つまり、感覚系からの刺激、運動系に対する信号や、より高次の情報処理の大部分がスパイク配列によって符号化され、処理されていると考えられている[1,2]。従って神経細胞同士をつなぎ、スパイクを伝達する役割を担うシナプスは脳が情報処理を行なう上で重要な役割を担っていると考えられる。シナプスは上流の神経細胞(前細胞)からのスパイク信号を下流の神経細胞(後細胞)に伝えるが、その伝達効率(シナプス強度)は前後の神経細胞の活動に応じて長期的に変化することが知られている[3]。こうした長期的なシナプス可塑性は学習・記憶のメカニズムの有力な候補として生理実験、理論研究の双方の視点から盛んに研究されている[4-6]。 情報理論的最適化に基づくシナプス学習則 シナプス可塑性に対する理論研究の歴史は長いが。代表的なアプローチとして、生理実験による知見を採り入れて活動依存性のシナプス可塑性をモデル化(シナプス学習則の定式化)し、その結果として連想記憶・選択的神経細胞応答などの機能的役割を考察する研究がある[4,5,7,8]。しかし、近年の急速な実験技術の進歩にともなって、シナプス可塑性に関する知見は分子レベル[9-11]から電気生理レベル[12,13]に至るまでの広がりを見せ、これに伴ってモデルによる理論的研究も多様化している[14-17]。上記のアプローチに対して、脳の情報処理に関する原理的基準を定め、その基準の最適化の観点からどのようなシナプス学習則が導かれるかを研究する流れがあるが[18,19]、近年では上記の多様な生理学的知見を少数の原理から演繹的に説明するという点でも注目を集めている[20,21]。 本論文では、次にあげる三つの基準をもとに目的関数を最適化するシナプス学習則を定式化する。 (i)脳の情報処理に関して情報伝達効率は重要な基準の一つであると考えられている。特に視覚を中心とする感覚系においては感覚器から低次視覚野に至るまでの情報伝達効率によって心理学的な認知課題および運動課題の成果が規定されることが知られている[22-24]。ここでは、神経細胞が受ける入力スパイク列Xと出力スパイク列Yとの間の相互情報量[25]I(X;Y)の最大化を考える。 (ii)神経細胞の発火率には生物学的に適当な値が存在し恒常的にその値を保つよう変化することが知られている[26]。ここでは、現在の発火率ρと目標発火率〓との離れ具合を表すD[P(Y)||〓(Y)](情報理論的には現在の出力の確率分布と目的とする出力の確率分布の相対エントロピーに対応)を最小化する。 (iii)興奮性シナプス強度は負の値をとらないことが知られている。また、生理学的に不自然な大きな値もとらないとする。このような境界条件を達成するために、具体的には、シナプス強度をwj、入力周波数をνj(j=l,...,N)として、大きなシナプスに対するコスト〓を導入する。また、小さなシナプスに対しては強度の変化速度α(wj)が減少するとする。 即ち、今回の学習則は目的関数C=I-γD-λΨに関する勾配法の形で定式化され、シナプスの更新則はΔwj=α(wj)・〓によって与えられる。ここでγ,λは各項の重みづけパラメーターである。本論文では、(ii)の恒常性の観点からの発火率ρを目標発火率〓近くに可能な限り保ちながら、(i)前細胞からの信号Xをより正確に出力Yとして伝えるように、シナプス強度wjを(iii)の境界条件のもとで変化させた場合の学習則を議論する。 発火率依存性 神経活動依存のシナプス強度の変化は、前細胞の発火率に関して次の二つの性質をもつことが知られている。一つにシナプス強度は前細胞の発火率(刺激強度)に応じて変化し、高発火率側では長期増強、低発火率側では長期減衰が起こることが知られている[27]。もう一つにこれらの長期増強と長期減衰とを分ける境界発火率は、神経細胞の活動履歴に応じて、発火率を恒常的に保つ方向に変化する[28]。これらの二つの性質は、生理実験により確認される以前に、視覚野の方位選択性および眼優位性[29]を再現するための学習則としてBienenstock等によって提案されたものである[7]。 本論文では情報理論的最適化という別の視点から同様のシナプス学習則が導かれることを示すことにより[30]、現象論的なシナプス学習則と情報伝達効率との間の関係を明らかにした。 スパイク時刻依存性 Hebb[4]以来、活動依存性のシナプス可塑性に関する理論的研究は多いが、古典的研究においては、その発火率依存性に着目してモデル化を行なった研究がほとんどであり、スパイクの時間的配列と可塑性の効果は近年まで注目されてこなかった[17]。近年の実験技術の発展によりスパイク時刻に依存した可塑性の研究が進んでいる。即ち前細胞と後細胞のスパイク時刻のミリ秒差での順序によって、シナプス増強と減衰が切り替わることが実験的に報告され[13,31,32]、これに伴って理論研究においても発火率依存的な効果とスパイク時刻依存的な効果とをつなぐ研究が求められている。 生体外の実験で用いられる典型的な刺激を与えたもとで、本論文の学習則は実験的に報告されているスパイク時刻依存性とシナプス強度依存性[31]を再現することが確認できた[33]。本研究による理論からは、長期増強窓の時間スケールがシナプス後電位の時間スケールと関係していること、長期減衰窓の時間スケールが後細胞発火後のシナプス後電位の減衰に影響されることが予測される。 受容野の選択性形成 神経活動が外界からの刺激を符号化している例として有名なのが一次視覚野の方位選択性である。これらの視覚野の神経細胞はスクリーン上に映し出された線分の方向と各々の細胞のもつ固有の方向が一致した場合に選択的にスパイク活動を示すことが報告されている[29]。この選択性の形成は生後の環境要因によって大きく左右されることが報告されている[34]一般に、神経細胞の発達段階における選択性の形成には、臨界期を始めとする先天的要素と、外部刺激といった後天的要素とが複雑に作用することが報告され[35]、現象論的学習則に基づく選択性の形成は、理論研究においても重要な研究分野となっている[7,36,37]。 本論文においては情報論的な最適化の観点から、前細胞からの入力の相関が、後細胞の選択性に及ぼす影響を調べた。本論文の学習則は入力信号の発火率相関のみならず、即時スパイク相関に応じても選択性を形成することがわかった[30,33]。また従来の相関型の学習則には入力相関強度によらずに常に選択性が生じるもの[7,14,37]や入力相関によらず有意な選択性が生じない[38]ものが多いが、本学習則は入力相関の強度に応じて、有意な選択性を示す細胞と示さない細胞との共存割合が変化することがわかった[33]。本学習則から予測されるシナプス強度分布は、実験的に観測されているシナプス強度分布[39]とも共通の性質を示している[33]。 まとめ 本論文では情報理論的な最適基準に基づくシナプス学習則を定式化した。本学習則は、入出力スパイク列・膜電位・局所的シナプス強度・平均発火率に依存するが、これらの要素がシナプス可塑性に影響を与えることは生理実験による結果とも一致する。情報理論的観点から発火率依存の学習則を導出した研究は多いが、スパイク列の間の情報量を評価し、学習則を導くというのは比較的新しい試みである。特に、情報理論的観点から導かれるスパイク時刻依存性のシナプス学習則をもちいて、生体外でのスパイク時刻依存性と生体内での選択性の形成を再現したのは、本研究が初めてである。本学習則は、発火率依存性に関しては先行研究の結果[7]と一致することから、情報理論的観点からの先行研究のスパイク時刻依存学習則への一般化と捉えることもできる。電気生理学的なモデルを用いて導かれた本学習則は、可塑性の分子機構に関しての知見は与えないが、シナプス後電位減衰時間を薬理学的に調節して可塑性の長期減衰窓との関係を調べた研究結果[40]は本研究の結果と定性的に一致する。本研究で用いた最適化基準と生理実験結果との対応をとることは今後の重要な課題である。また、情報伝達の際に用いられる符号と入力信号との関係により、シナプスの発達にどのような違いが生じるかを理論的に考察することは、脳の部位による符号化方式の違いおよび神経ネットワークの結合方式の違いを考える上で興味深い。 | |
審査要旨 | 脳による情報表現の解明は今世紀の科学の主要課題となり得る大きな問題である。神経細胞の活動にどれほどの情報が含まれるか、どのように読み取るか、また解剖学的・分子生物学的知見と機能の関係がどのように結びつくかを明らかにすることは重要である。本論文では活動電位を生成する神経細胞モデルを用い、その情報伝達に関する解析を行うことで、解剖学的・分子生物学的性質が、脳の情報表現に与える影響を理論的に解析した。更に、情報伝達の観点から最適なシナプスの学習則を導き、実験的に観測されている可塑性および大脳の発達に関する数理的な解釈を与えた。本論文は多様性を極める実験事実を少数の数理的原理をもとに記述する枠組みを与えることで、今後の生理実験の計画および計算神経科学理論の発展に対して大きな影響を与えることが期待されるものである。 本論文は、"Information Theoretical Study on Neural Coding and SynapticPlasticity" (和文題目 神経情報の符号化およびシナプス可塑性に関する情報理論的研究)と題し、全7章より成る。 第1章では、脳の情報表現とシナプス可塑性の背景として、先行研究を紹介し、本研究の位置付けを明確にしている。 第2章では、神経細胞集団からスパイク列を観測した場合にどの程度の精度で刺激のパラメーターを推定できるかを、フィッシャー情報量を用いて定量的に評価している。 先行研究の多くが発火率からのパラメーター推定を問題にしているのに対し、本章では発火率から得られる情報と発火時刻から得られる情報を個別に評価し、それらがシナプス結合や神経細胞の不応期といった特徴に応じてどのように変化するかを導いた。また、定常な刺激に対してフィッシャー情報量を見積もった先行研究は多いが、本章では時空間構造をもつ刺激の推定に関してフィッシャー情報量を見積もり、さらに最適なシナプスの結合を導いた。 第3章では、出力スパイク列がポアソン点過程で近似できるような弱い入力シグナルの場合に、入出力スパイク列間の相互情報量最大化原理から得られるシナプス学習則を導いている。得られた学習則は入出力スパイク列に依存するが、あるスパイク対を観測したもとで、他のスパイクについて条件付平均を行うことにより、生理学的に観測されているスパイク時刻依存性と共通の性質が得られることを示した。入出力発火率間の相互情報量を最大化する学習則は先行研究として発表されているが、今回これをスパイク列間の相互情報量に拡張したことは新しい成果である。 第4章では、発火率に対する制約の項を前章の学習則に付加することにより、情報量最大化原理で問題となる発火率の発散を回避し、学習の収束状態を議論できることを示した。発火率に関する制約条件によりシナプス間の競合が引き起こされ、これによって大脳で見られるような神経細胞の選択的応答が、入力情報によって自己組織化的に形成されることを明らかにした。 第5章では、前章までの弱シグナル仮定を緩和することで、発火率に制約条件のある情報量最大化シナプス学習則を一般化した。得られた学習則は、実験的に確かめられている、発火時刻・膜電位・平均発火率依存性をもち、生理学的に実現可能な形で記述される。特に出力発火率が過去の出力スパイク時刻に依存しない場合において、本学習則が生理学的に得られている発火率依存性の可塑性(Bienenstock-Cooper-Munro則)と一致することが示された。この発火率依存性は多くの神経システムで普遍的に観測されているもので、本章でこのシナプス可塑性と情報量最大化の関係を、初めて明示的に示したことは極めて重要である。 第6章では、前章までに適用していた上下限によるシナプス加重の制約を、代謝コストの形で置き換えることによりシナプス加重の分布を評価している。これにより、生理学的に観測されているスパイク時刻依存性の可塑性が再現できることが示された。また、このシナプス加重に対する境界条件の違いは、学習の終状態の安定性に関しても影響を与えることが示されている。また、シナプス結合に対する一様結合状態と選択的結合状態の間の双安定性は、選択性の形成時期及び記憶の保持に関して重要な役割を果たすことを明らかにした。 第7章では、前章までの結論をまとめるとともに、今後の発展の可能性について議論している。 以上のように、本論文は神経細胞による情報表現とシナプス可塑性の理論及び応用に関して大きな成果を上げ、複雑理工学上貢献するところが大きい。なお、本論文の第2章は合原一幸および甘利俊一、第3章から第6章はJean-Pascal Pfister、合原一幸、Wulfram Gerstnerとの共同研究であるが論文提出者が主体となって問題を提起しその導出を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(科学)の学位を授与できると認める。 | |
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