学位論文要旨



No 121606
著者(漢字) 堅田,明子
著者(英字)
著者(カナ) カタダ,サヤコ
標題(和) 嗅覚受容体による匂いの識別および脳での匂い情報処理に関する研究
標題(洋)
報告番号 121606
報告番号 甲21606
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第188号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 東原,和成
 東京大学 教授 片岡,宏誌
 東京大学 教授 後藤,由季子
 東京大学 助教授 河村,正二
 理化学研究所 チームリーダー 吉原,良浩
内容要旨 要旨を表示する

序論

生物にとって嗅覚は、エサとなる物質の探索や識別、親や天敵といった他個体とのコミュニケーションを行う上で重要な感覚である。我々の身の周りには、数十万種類にもおよぶ匂い物質が存在するが、それら莫大な数の匂い物質は、Gタンパク質共役型受容体(GPCR)に分類される嗅覚受容体によって認識される。ゲノム解析の結果、嗅覚受容体遺伝子はマウスで約1000種類(ヒトで約350種類)存在し、ゲノム上、最大の多重遺伝子群を形成することが明らかとなった。しかし嗅覚受容体は、培養細胞に機能発現させることが困難であり、高速大量処理のリガンドスクリーニングが行えない、リガンド候補となる化合物の種類が膨大であるという理由から、ほとんどリガンド同定されていない。このため、嗅覚受容体遺伝子群のクローニングから十数年が経過した現在においても、生物がどのようにして限られた数の嗅覚受容体で無数に存在する匂い物質を認識・識別しているのか、また末梢の嗅覚受容体で認識された匂い情報がどのように高次中枢の脳へと伝達され、処理されるのか、といった匂い認識の分子基盤は未だ不明な点が多い。当研究室では近年、クローブ様の香りを呈する匂い物質;オイゲノール(EG)を認識するマウス嗅覚受容体(mOR-EG)の単離、遺伝子のクローニングに成功した。本研究では、嗅覚受容体を培養細胞で機能的に発現させ、匂い応答を評価するアッセイ系の確立を目指して研究を始め、嗅覚受容体のリガンド認識機構を分子レベルで解析することを目的とした。また、機能解析が進んだmOR-EGを発現する嗅神経細胞を選択的に標識した遺伝子改変マウスを作製することで、マウス個体レベルで匂いの認識機構を解明することを目指す。

結果と考察

培養細胞におけるマウス嗅覚受容体mOR-EGの機能解析

嗅覚受容体の膜移行には、嗅神経特異的なシャペロン分子の関与が示唆されており、培養細胞に一過的に遺伝子導入を行っても、匂い応答を測定することは困難であった。マウス嗅覚受容体mOR-EGは、アミノ末端にロドプシン(視物質受容体)のアミノ末端20残基を挿入することで、機能的な膜移行の効率が著しく上昇し、匂い応答が感度よくモニターできた。この高感度の匂い応答評価系を用いて、mOR-EGの機能解析を行った。

mOR-EGのリガンド構造活性相関

リガンドスクリーニングの結果mOR-EGは、EGと構造的に類似する22種類の匂い物質をそれぞれ異なる親和性で認識することが見出された。mOR-EGは、異なる官能基(アリル基、アルデヒド基、エチル基)をもつ化合物でも同程度の親和性で認識する一方、二重結合の位置の異なる構造異性体を厳密に識別した(図1A)。また、側鎖の長さが約10倍の応答性の差を生じさせるなど、リガンドのわずかな大きさを識別することが明らかになった(図1B)。

mOR-EGのリガンド結合部位の決定

嗅覚受容体のリガンド結合様式を解析するため、ロドプシンのX線結晶構造を鋳型に、mOR-EGの立体構造をモデル構築し、匂いリガンドの結合をコンピューターシミュレーションした。その結果、匂い物質は受容体の膜貫通領域3、5、6番目のヘリックスで形成される空間内に結合することが予測された。次に、リガンドとの相互作用が予想された26アミノ酸全てに対して、部位特異的変異を導入し、複数のリガンドに対する構造活性相関を解析した。その結果、Ser113における単一アミノ酸の変異によって匂い応答が完全に消失することが明らかとなった(図2A左)。また、Leu259のように、疎水性アミノ酸の側鎖長がリガンド親和性に多大な影響を及ぼすことも明らかとなった(図2A右)。コンピューターによる理論計算と部位特異的変異体の親和性解析双方の結果から、匂い物質が結合している配位状態の構造を決定した(図2B)。本解析から、一般的なホルモンなどを結合するGPCRはリガンドと複数の水素結合を形成し、高親和性で化合物を認識するのに対して、嗅覚受容体は少数の水素結合と複数の疎水的相互作用によって匂いリガンド全体の構造を認識することが示された(図2C)。

mOR-EGの受容体デザイン

決定したmOR-EGのリガンド配位構造を基に、受容体デザインを試みた。mOR-EGのリガンド構造活性相関により、リガンド化合物のアルデヒド基から見てメタ位の官能基の長さが受容体の親和性に非常に重要であることが明らかとなった(図1B)。そこで、この部位と相互作用が予想されるVal109を立体障害の小さいAlaおよび、大きいLeuに変換した受容体をそれぞれ作製し、匂い応答性を解析した。その結果、応答性は予測通り変化し、メタ位およびパラ位の官能基が大きいリガンドの応答性が、Ala変異体においては上昇し、Leu変異体では著しく低下した(図2D)。モデル構造を基に受容体をデザインし、リガンド親和性を操作することが可能であることが示され、本研究で提唱したリガンド配位構造の精度の高さを実証できた。

mOR-EGの遺伝子改変マウスの作製とマウス個体レベルにおける匂い応答解析

前述のように、哺乳類においてリガンドが同定されている嗅覚受容体の数はわずかであるため、これまでの嗅覚研究の多くでは、匂いの種類と嗅覚受容体を関連させた実験系を構築できていない。加えて、これまでの研究は、匂い受容を行う末梢の嗅上皮レベル、匂い情報の集約の場である一次中枢の嗅球レベル、匂いの高次情報処理を行う脳レベルと、匂い情報伝達の各段階を独立して解析しているものが主要であり、嗅覚受容体による匂い物質の受容から、脳での情報処理一連の過程を一環して解析できていない。そこで、マウス個体レベルで匂いの認識機構を解明するため、mOR-EGを発現する嗅神経細胞が選択的に標識された遺伝子改変マウスの作製を試みた。

mOR-EGを発現する嗅細胞の選択的可視化

単一の嗅覚受容体は嗅上皮に一様に分布するのではなく、四つに分けられる領域(ゾーン)のうちいずれかのみに選択的に発現する。また、一つの嗅神経細胞は、約1000種類存在する嗅覚受容体のうち一種のみを選択的に発現し、同じ嗅覚受容体を発現する神経の軸索は互いに収束し、嗅球に存在する一対の糸球体に投射する(図3A)。そこで、mOR-EGを発現する嗅神経細胞において、緑色蛍光タンパク質(EGFP)を発現するトランスジェニック(TG)マウスの作製を試みた。トランスジーンとしては、mOR-EGの転写開始点より上流3.1kbおよび、poly-Aシグナルの下流1.4kbを含む配列を用いた(図3B)。誕生したFOマウスのうち、3ラインにおいてEGFPの蛍光シグナルが認められた。mOR-EG発現嗅神経細胞は、3ラインいずれにおいても細胞接着分子OCAM陰性のゾーン1に発現が認められた。mOR-EG発現神経の軸索投射先は収束して一対の糸球体を形成するが(図3C矢印)、一部の神経は投射位置を誤り、異なる糸球体へと収束した(図3C矢頭)。そこで、mOR-EG発現神経をβガラクトシダーゼ遺伝子により標識する遺伝子ノックインマウスの作製を行った。ノックインマウスにおいては、mOR-EG発現神経の全てがゾーン1に発現し、その軸索は全て一対の糸球体に収束した(図3D)。

嗅覚一次中枢における匂い応答解析

神経活性化の初期段階で発現誘導が認められる初期応答遺伝子c-Fosのタンパク質発現誘導を匂い応答の指標とし、自由行動下のマウスに匂い刺激を行い、嗅覚一次中枢の嗅球で応答解析を行った。その結果、オイゲノール刺激特異的にmOR-EGの糸球体周辺の傍糸球体細胞や顆粒細胞、また、嗅覚の二次神経細胞である僧帽細胞においてc-Fosの発現誘導が認められた。この結果は、自由行動下のマウスにおいても匂い物質オイゲノールがmOR-EGにより受容され、その情報が二次神経へと伝達されることを示している。非麻酔下のマウスにおいて匂い刺激を行い、リガンドが詳細に解析された受容体の発現神経および、その二次神経で匂い応答を検出した初めての例である。

脳における匂い応答性解析とmOR-EGの高次神経回路網可視化マウスの作製

嗅覚の高次中枢領域における匂い応答の解析

自由行動下のマウスにオイゲノール刺激を行い、c-Fosの発現誘導を指標に脳領域の匂い応答部位を解析した。その結果、匂い刺激を行ったマウスにおいて前嗅核、嗅結節、梨状皮質で有意にc-Fosの発現誘導が認められた(図4)。この結果は、これまで解剖学的、電気生理学的知見によって明らかとなっている脳の嗅覚野と一致する。

匂いの高次情報処理領域の解明

ある単一の嗅覚受容体によって認識された匂い情報が嗅覚野のどの領域で情報処理されるか、単一嗅覚受容体発現神経の高次神経回路網がどのように形成されるかは不明である。加えて、同種の匂い物質を認識する嗅覚受容体郡が高次脳においてどのように相互作用するかも明らかとなっていない。WGA(wheat germ agglutinin)は小麦胚芽に含まれるレクチンで、シナプスを介して二次・三次ニューロンへと受け渡されるため、神経回路を可視化する際のトレーサーとして用いられる。そこで、mOR-EGの遺伝子座にIRES-WGAを組み込んだノックインマウスを作製し、mOR-EG発現神経の高次神経回路の可視化を試みる。現在、相同組み換えを起こしたES細胞をインジェクションし、キメラマウスを得た。今後、このマウスを解析することで、オイゲノール刺激によって誘導される脳嗅覚野のc-FosシグナルがmOR-EG発現嗅神経の二次、三次神経と一致するかどうか検証する予定である。

結論

本研究では、培養細胞での嗅覚受容体の機能的発現系を確立し、世界に先駆けて、マウス嗅覚受容体のリガンド構造活性相関、結合部位の決定に成功した。その結果、嗅覚受容体はホルモン受容体など一般的なGタンパク質共役型受容体と異なり、ごく少数の水素結合でリガンドの官能基の一部を認識し、主に疎水結合によって、リガンド全体の構造を認識することが明らかとなった。これは、限られた数の嗅覚受容体で無数に存在する匂い物質を、それぞれ固有の親和性で認識する、嗅覚受容体の匂い結合の分子基盤である。

また、培養細胞レベルで機能解析が進んだ嗅覚受容体mOR-EGを発現する嗅神経細胞を選択的に標識するトランスジェニックマウス、ノックインマウスの作製に成功した。このマウスを用いることで、自由行動下のマウスに匂い刺激を行い、嗅覚の一次中枢である嗅球、二次神経、三次神経および高次中枢の脳嗅覚野において匂い応答を検出することに成功した。匂い認識の第一ステップである嗅覚受容体による匂いの結合から始まり、その匂い情報が一次中枢を経て、どのように高次脳へと伝達されるかを解明する手掛かりが得られたと考える。

図1 培養細胞における嗅覚受容体R-EGのリガンド構造活性相関

図2 嗅覚受容体のリガンド結合様式A.mOR-EG部位特異的変異体におけるオイゲノール応答性の変化、B.mOR-EGの第3,5,6膜貫通領域で形成されるリガンド結合空間へのオイゲノール結合様式、C.GPCRのリガンド結合様式の違い。β2-アドレナリン受容体は、4ケ所でリガンドと水素結合を形成するのに対して、mOR-EGは主に複数の疎水的な相互作用によってリガンドを結合させる(黒色矢印:水素結合、灰色矢印:疎水結合)、D.mOR-EGのVal109変位体のリガンド応答性

図3 嗅覚受容体発現神経の軸索投射A.嘆神経細胞の軸索投射の模式図、B.トランスジェニックマウスの作製に用いたターゲティングベクター、C.トランスジェニックマウスにおけるmOR-EG発現神経の軸索投射、D.mOR-EGノックインマウスにおける神経軸索の投射。

図4 嗅覚野における匂い応答A.成体マウスの脳前冠状断面(上)、および矢状断面(下)、灰色で示した領域において匂い刺激特異的にc-Fosの発現誘導が認められた(A;anterior,D;dorsal)、B,C.マウス脳切片の抗c-Fos抗体による免疫染色像。オイゲノール刺激を行った個体において、Aの四角で示す梨状皮質でc-Fosの発現誘導が認められた。B.コントロール、C.オイゲノール刺激個体。

審査要旨 要旨を表示する

生物にとって嗅覚は、エサとなる物質の探索や識別、親や天敵といった他個体とのコミュニケーションを行う上で重要な感覚である。我々の周りには、数十万種類にもおよぶ匂い物質が存在するが、それら莫大な数の匂い物質は、Gタンパク質共役型受容体(GPCR)に分類される嗅覚受容体によって認識される。ゲノム解析の結果、嗅覚受容体遺伝子はマウスで約1000種類(ヒトで約350種類)存在し、ゲノム上、最大の多重遺伝子群を形成することが明らかとなった。しかし、未だに生物がどのようにして限られた数の嗅覚受容体で無数に存在する匂い物質を認識・識別しているのか、また末梢の嗅覚受容体で認識された匂い情報がどのように高次中枢の脳へと伝達され、処理されるのか、といった匂い認識の分子基盤は未だ不明な点が多い。

本論文は、クローブ様の香りを呈する匂い物質;オイゲノール(EG)を認識するマウス嗅覚受容体(mOR-EG)を培養細胞で機能的に発現させ、匂い応答を評価するアッセイ系の確立し、リガンド認識機構を分子レベルで解析することに成功したものである。また、機能解析が進んだmOR-EGを発現する嗅神経細胞を選択的に標識した遺伝子改変マウスを作製することで、マウス個体レベルで匂いの認識機構を解明することを目指した斬新な研究である。

論文は4つの章からなる。第一章では、嗅覚受容体を発現させた培養細胞における匂い応答評価系の確立について記述している。現在のところ、もっとも効率が良く成功率が高い嗅覚受容体の機能アッセイ系である。第二章では、プロトタイプとして選択したmOR-EG受容体のリガンド構造活性相関および結合部位の同定について記述している。今まで長いこと議論されてきた匂いの認識メカニズムに決着を付けたものである。第三章は、嗅覚受容体の下流のシグナル伝達に関わる領域の同定について記述している。嗅覚受容体がどの領域でGタンパク質と相互作用を持つかについて新知見を与えている。第四章は、mOR-EG受容体を発現する嗅神経をGFPで蛍光可視化したマウス、LacZを発現させて青染色できるようにしたマウスの作製について記述している。両マウスとも作製および匂い応答解析に成功しており、さらに、WGA発現マウスを作製することによって、高次脳神経回路の解析にまで着手している。

審査会においては、論文提出者から論文の章立てに沿って成果の概説があり、その後、各審査員から内容に関する質疑があったが、論文提出者は概ね適切な回答をした。また、実験量の豊富さは評価に値するというコメントもあり、成果発表および質疑応答については、全審査委員から合格の評価をうけた。

なお、本論文の第二章のコンピュータシミュレーションは、産総研の広川貴次博士と諏訪牧子博士との共同研究であるが、指導のもとにすべて論文提出者が解析を行った。第四章のマウスの作製は、理研吉原良浩博士との共同研究であるが、卵へのDNAインジェクション以外は、論文提出者が全て実験をおこなったものである。以上、全体を通して、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

総括すると、本論文は嗅覚受容体の匂い結合部位を分子レベルで明らかにした初めての仕事である。分子細胞生物学的手法を用いて、ある特定の嗅覚受容体を発現する嗅神経を可視化し、その投射先への匂い信号の情報伝達メカニズムを明らかにした。我々がどのようにして香りを知覚して快・不快を感じたり、連携した記憶や学習ができあがるのか、高次脳レベルでの嗅覚感覚の解明のために新たな方向性を与える成果である。

以上の結果より、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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