学位論文要旨



No 121612
著者(漢字) 平林,祐介
著者(英字)
著者(カナ) ヒラバヤシ,ユウスケ
標題(和) 神経系前駆細胞におけるWntシグナルの機能の解析
標題(洋)
報告番号 121612
報告番号 甲21612
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第194号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,由季子
 東京大学 教授 大矢,禎一
 東京大学 助教授 青木,不学
 東京大学 助教授 久恒,辰博
 東京大学 助教授 東原,和成
内容要旨 要旨を表示する

序論

大脳は高次機能を担う複雑な組織であり、その形成過程は非常に興味深い。大脳は主にニューロンとそれを支持するグリア細胞から構成される。ニューロンとグリアは共に神経系前駆細胞(NPC)と呼ばれる細胞集団に由来しており、このNPCが時間的空間的に厳密に制御を受け増殖、分化することが大脳の正常な発生に重要である。NPCの運命は細胞外からのシグナルと、そのシグナルを受け取るNPC内の状態とによって制御されると考えられている。しかしながらこれまでにどのような外部からのシグナルがNPCのニューロン分化を誘導するのかは知られていなかった。本研究ではまず前半に、NPCのニューロン分化を積極的に誘導する因子の同定を試み、分泌因子Wntにそのような活性があることを示した。さらにWntシグナルは、ニューロン運命決定に重要な転写因子Neurogenin1(Ngn1)を制御することを明らかにした。

NPCは発生時期に依存して増殖→ニューロン分化→グリア分化とその運命を変えるがそのメカニズムについては未解明の部分が多い。後半では、Wntシグナルによるニューロン分化とこの時期依存的な運命変化との関わりについて検討した。その結果、WntシグナルのNPCに対する効果は増殖促進→ニューロン分化誘導(増殖抑制)→効果なし、というように時期依存的に変化することが分かった。

結果

WntシグナルはNPCのニューロン分化を誘導する

NPCのニューロン分化に関わる分泌因子としていくつかの候補について検討し、その中でもNPCがニューロン分化する場所と時期に発現しているWnt7aに注目した。まずWntシグナルがNPCの分化に及ぼす影響について、マウス胎児終脳より採取したNPCを用いin vitro culture系で検討した。その結果、レトロウイルスを用いてWnt7a遺伝子を導入し発現させたサンプルではニューロンマーカーTuJ1陽性細胞の割合が増加していた(Fig.1)。また、Wntシグナルcanonical経路を活性化させる活性型β-cateninを発現させた場合も同様にTuJ1陽性細胞の割合が増加した。これらの結果は、Wntシグナルcanonical経路がNPCのニューロン分化を促進することを示唆している。このニューロン分化促進のメカニズムとして少なくとも二つ、(1)Wntシグナルがニューロンにコミットしたニューロン前駆細胞の増殖を選択的に促進した可能性、と(2)WntシグナルがNPCの運命をニューロンへと誘導した可能性、が考えられる(Fig.2)。そこで次に一つ一つの細胞の運命を追跡し、NPCからニューロンへの分化誘導による運命転換が起こっているかを調べた。その結果、活性型β-cateninを導入した場合controlと比べより多くの細胞のクローンがニューロンマーカー陽性に運命転換していた(Fig.3)。一方、クローンあたりの細胞数は活性型β-cateninの発現によって増加しなかった。従って(1)ではなく(2)の可能性が正しいことが示唆された。

ニューロン分化に伴ってNPCが減少したかを検討するため、neurosphereの形成効率を測った。神経系の細胞をFGF2存在下に浮遊培養すると、未分化なNPCが細胞塊neurosphereを形成し、この時のneurosphere形成効率はもとの細胞集団中の未分化細胞の割合を反映すると考えられている。NPCに、Wnt7aあるいは活性型β-cateninを発現したところ、neurosphereの形成効率が低下した。従ってWntシグナルはNPCの数を減少させ、ニューロンへと運命転換を誘導していることがさらに支持された。

また、in vivoにおいてもWntシグナルによりニューロン分化が促進されるかを子宮内エレクトロポレーションを用い検討した。胎生13.5日目マウス終脳に遺伝子を導入し、2日後に、遺伝子導入された細胞の状態を検討した。その結果活性型β-catenin遺伝子を導入した場合にはcontrolと比べより多くの細胞がニューロンマーカーHu陽性であった。また、NPCは脳室帯と呼ばれる領域に、分化したニューロンはより外側に局在することから細胞の位置はニューロン分化の指標となる。活性型β-cateninを導入したサンプルではcontrolと比べ多くの細胞が脳室帯から外側の領域に移動していた。さらにWntシグナルcanonical経路を阻害するAxin遺伝子を導入したところニューロン分化が抑制された。以上の結果から、in vivoにおいてもWntシグナルはニューロンへの分化を誘導し、通常の発生においてWntシグナルがニューロン分化に必要であることが示された。

Wntシグナルによるニューロン分化の誘導はNgn1の発現を介する

次に、β-cateninと転写因子TCF/Lef1の複合体がどのような遺伝子の発現誘導を介し、ニューロン分化を誘導するのか検討した。大脳皮質におけるニューロン分化の誘導に重要なbHLH型転写因子であるNgn1の転写制御領域についてDNA配列を調べたところ、TCF結合コンセンサス配列が存在した(Fig.4A)。このコンセンサス配列についてレポーターアッセイにより検討したところ、TCF結合コンセンサス配列に変異を導入することでNgn1転写制御領域の活性の減少が見られた(Fig.4A)。また細胞内でこの配列にβ-catenin複合体が結合していることがクロマチン免疫沈降法により示され、活性型β-cateninの導入によるNgn1 mRNAの発現上昇も見られた(Fig.4B)。これらの結果から、WntシグナルはNgn1の発現を介してニューロン分化を誘導していることが示唆された。

Wntシグナルに対するNPCの応答は発生上の時期に依存し変化する

以上のように我々はWntシグナルによって、NPCのニューロン分化が促進され増殖が停止することを見出した。しかし近年、発生のより早期のNPCを用いた実験では、WntシグナルがNPCの増殖を促進することが報告された。そこでNPCが発生におけるステージにより、Wntシグナルに対する応答を変化させる可能性を考え、胎生10.5日目由来と胎生13.5日目由来のNPCそれぞれのWntシグナルに対する応答性を比較した。その結果Wntシグナルは胎生10.5日目由来の細胞において増殖を促進し、分化を抑制したのに対し、胎生13.5日目由来の細胞においては増殖を抑制し分化を促進した。このことはNPCのWntシグナルに対する応答性に時期依存性があることを示している。

次にWntシグナルに対する応答性のニューロン分化期とグリア分化期間の変化について検討した。NPCの時期依存的な運命変化はin vitro培養系でも再現され、胎生11.5日目胚より採取しin vitroで3日間培養したNPCはニューロン分化期に、9日間培養した場合にはグリア分化期に対応することが知られている。そこでグリア分化期に対応する細胞においてWntシグナルを活性化させたところ増殖も分化も促進しなかった(Fig.5)。。

グリア分化期にWntシグナルによるニューロン分化誘導が見られない理由の一つとして、グリア分化期では活性型β-cateninがNgn1を誘導しても、Ngn1がニューロン分化を誘導しない可能性が考えられる。しかし、グリア分化期でもNgn1の発現によりニューロン分化が促進された(Fig.5)。また活性型β-cateninを導入してもグリア分化期においてはNgn1の発現が誘導されなかったことから、グリア分化期においては活性型β-cateninによるNgn1の発現誘導が起こらずニューロン分化も誘導されなかったと考えられる。この原因として、グリア分化期においては活性のあるβ-catenin/TCF複合体が形成されない可能性が考えられが、グリア分化期の細胞を用いたレポーターアッセイの結果より、この可能性も否定された。そこで次に、Ngn1プロモーター領域のクロマチンの状態を検討した。ヒストンの修飾はクロマチンの状態を規定する上で重要な要素であり、HistoneH3K9及びK14のアセチル化は転写の活性化と正に相関する。それぞれの時期のNPCにおいてNgn1プロモーター領域のHistoneH3K9及びK14のアセチル化を検討したところ、アセチル化の程度は後期のNPC程低かった。このことは後期のNPCではNgn1プロモーターが転写されにくい状態になっている可能性を示唆している。

結論

大脳発生において適切な数のニューロンが適切な時期に産生されることは非常に重要である。しかしながらこれまで、通常の発生においてNPCのニューロン分化を誘導する分泌因子は報告されていなかった。本研究ではWntシグナルがNgn1の発現を直接制御することでニューロン分化を促進することを初めて示し、さらにNPCからニューロンへの「誘導的な」分化様式が存在することを示した。これはWntシグナルがNPCの増殖から分化への運命転換を誘導することでニューロンの数のコントロールに重要な役割を担うことを示唆している。

これまで、NPCの時期依存的な運命変化は、外因性のシグナルが変化することによるものが大きいと考えられていた。しかしながら、本研究は同じWntシグナルに対してもNPCの応答は時期によって変化すること示した(Fig.6)。このことはNPCの運命制御に外因性のシグナルに対する細胞内因性の応答変化が重要な役割を果たすことを示唆している。

Figure 1マウス胎児由来神経系前駆細胞初代培養系におけるWntシグナルの効果。Wnt7a発現ウイルスの導入によってニューロン分化した細胞の割合が増加した。

Figure 2Wntシグナルによる神経系前駆細胞の運命制御モデル。Wntシグナルによるニューロン分化促進のメカニズムとして(1)ニューロン前駆細胞(NP)の選択的増殖と(2)神経系前駆細胞からニューロンへの運命転換の促進の二つが少なくとも考えられる。N:ニューロン、G:グリア、NPC:神経系前駆細胞

Figure 3Wntシグナルによる神経系前駆細胞の運命転換。一つ一つの細胞由来のクローンについてその運命を調べた。活性型β-cateninを導入したところ、controlと比べより多くのクローンにおいてニューロンへの運命転換が起こっていた。

Figure 4WntシグナルによるNgn1プロモーターの制御。A)Ngn1プロモーターを用いたレポーターアッセイ。Ngn1プロモーターに存在するTCFコンセンサス配列に2塩基の変異を導入し(Mut)、野生型(WT)と比較した。Mutではプロモーター活性(Luciferase activity)の減少が見られた。B)活性型β-cateninの導入によりNgn1 mRNAの発現が誘導された。

Figure 5Wntシグナルに対する神経系前駆細胞の応答の時期依存的な変化。In vitroで9日間培養した神経系前駆細胞において,Neurogeninlの発現によるニューロン分化誘導は観察されたが、活性型β-cateninの発現による分化誘導は観察されなかった

Figure 6Wntシグナルの神経系前駆細胞に対する効果は発生の時期依存的に変化する。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は2章からなり、第一章においてはWntシグナルのニューロン分化に対する役割とこの役割のメカニズムについて、第二章においてはWntシグナルが神経系前駆細胞に及ぼす効果の時期依存的な変化について述べられている。これまでにどのような外部からのシグナルが大脳皮質由来神経系前駆細胞のニューロン分化を誘導するのかは知られていなかった。第一章においては、神経系前駆細胞のニューロン分化を積極的に誘導する因子の同定を試み、分泌因子Wntにそのような活性があることを示した。Wntが神経系前駆細胞のニューロン分化誘導因子であること、及び神経系前駆細胞からニューロンへの分化様式に誘導的な分化促進という機構が存在することを神経系前駆細胞の初代培養系、in uteroエレクトロボレーション法などを用いて示した。Wntは細胞内でJNKを介する経路やβ-cateninを介する経路に分かれる。本論文では、活性型のβ-cateninがWntを作用させた時と同様に神経系前駆細胞のニューロン分化を誘導することを示し、Wntシグナルは下流でβ-cateninを介してニューロン分化を誘導していることを明らかにした。さらにWntによるニューロン分化誘導メカニズムを検討した。その結果、β-catenin/TCF複合体がニューロン運命決定に重要な転写因子Neurogeninl(Ngnl)の発現を直接誘導することによってWntシグナルはニューロン分化を誘導していることを明らかにした。第二章においては大脳発生の時期依存的に神経系前駆細胞に対するWntシグナルの効果が変化していくことを示した。大脳皮質神経系前駆細胞は発生時期に依存して増殖→ニューロン分化→グリア分化とその運命を変えるがそのメカニズムについては未解明の部分が多い。本論文は、Wntシグナルの神経系前駆細胞に対する効果は増殖促進→ニューロン分化誘導(増殖抑制)→効果なし、というように時期依存的に変化することを示した。これは、外部のシグナルに対する細胞の応答の変化が大脳発生における神経系前駆細胞の運命変化に大きく寄与していることを示している。これまで、神経系前駆細胞の時期依存的な運命変化は、それぞれの運命を誘導する外因性のシグナルの時期依存的な増減によるものが大きいと考えられていた。しかしながら、本論文は同じWntシグナルに対しても神経系前駆細胞の応答は時期によって変化すること示した。第一章で示したように、発生中期においてはWntが神経系前駆細胞のニューロン分化を誘導し、増殖を停止させた一方で、発生後期においてはWntにより神経系前駆細胞の増殖が促進されニューロンの割合は減少した。また、発生後期においてはWntシグナルを活性化させてもニューロン分化は起こらなかった。またこの時のメカニズムとしてNgnlプロモーター領域のHistoneに対する修飾が関わっていることを示唆するデータを示している。これらの結果は神経系前駆細胞の運命制御に外因性のシグナルに対する細胞内因性の応答変化が重要な役割を果たすことを示唆している。本論文に得られた知見は、大脳形成において非常に重要なステップであるニューロンの数、ニューロン産生のタイミングの制御の理解に大きく貢献すると考えられる。

なお本論文は伊藤靖浩、田畑秀典、仲嶋一範、秋山徹、増山典久、後藤由季子との共著であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

従って、博士(生命科学)の学位を授与出来ると認める。

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