学位論文要旨



No 121623
著者(漢字) 逢沢,峰昭
著者(英字)
著者(カナ) アイザワ,ミネアキ
標題(和) 寒温帯性トウヒ属樹種の集団間分化と分布変遷に関する研究
標題(洋)
報告番号 121623
報告番号 甲21623
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第205号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 梶,幹男
 東京大学 教授 大森,博雄
 東京大学 教授 大澤,雅彦
 東京大学 教授 井出,雄二
 東京大学 助教授 福田,健二
内容要旨 要旨を表示する

第四紀の気候変動にともなって形成された陸橋の存在は、現在の日本列島の植物相を形成する上で、きわめて大きな影響を及ぼしたと考えられる。氷期における陸橋の形成は、アジア大陸からの種の移住を可能にし、間氷期の陸橋の閉鎖と分布域の分断化は、種分化や集団間分化をもたらしたと考えられる。また、日本列島内においても、氷期と間氷期という気候変動のなかで、分布域の南下や北上、拡大や縮小といった分布変遷や集団間分化が生じたと考えられる。このような植物地理的仮説の検証は、まずその種の地理的分布パターンを記載することから始まり、次いで化石や花粉分析といった古生物学的情報からその種の年代的変遷を推定することによってなされてきた。近年、遺伝子解析技術の発達にともなって、遺伝マーカーを用いることによって、アジア大陸から陸橋を経由して日本列島に移住したというシナリオや、日本列島内における分布変遷のシナリオについてその輪郭が徐々に浮き彫りにされつつある。

マツ科トウヒ属(Picea)は高木の針葉樹種を含む分類群であり、北半球に広がる針葉樹林の生物圏を構成する最も重要な樹種の一つであり、その森林生態系の中での役割も大きい。日本においては少なくとも6種1変種が知られており、1種を除き寒温帯に分布域の中心を持っている。これらの樹種は地理的分布パターンの差異から大きく2つに分けられる。一つは日本以外にも広域的に分布するエゾマツPicea jezoensis var.jezoensisなどの樹種、もう一つは本州の中部山岳のごく狭い範囲に分布するイラモミP.alcoquianaなどのハリモミ節樹種である。本論では、このスケールの異なる地理的分布パターンをもつ2つの分類群、すなわち、日本を含めた北東アジアに分布するエゾマツを含んだP.jezoensis変種群、および本州の中部山岳を中心に分布するイラモミに着目して、北東アジアおよび日本列島におけるその分布変遷を明らかにすることを目的とした。

Picea jezoensisは、日本を含めた北東アジアに広がる寒温帯林の主要構成樹種であり、3つの変種群を持っている。すなわち、ロシア大陸、中国東北地方、カムチャッカ、サハリン、および北海道に分布するエゾマツvar.jezoensis、本州中部と紀伊半島に分布するトウヒvar. hondoensis、および中国東北地方南部から朝鮮半島にかけて分布するチョウセントウヒvar.koreanaである。このようなP.jezoensis変種群の分化と集団間分化は、第四紀の氷期と間氷期の繰り返しにともなった、分布変遷の過程の中で生じてきたと予想される。また、P.jezoensis変種群の分布変遷は、北東アジアにおける寒温帯林の分布変遷を反映したものであると予想される。そこで本論では、第1のテーマとして、日本および北東アジアにおけるP.jezoensis変種群の分布変遷について、3つのアプローチから解明を試みた。(1)北東アジアにおけるP.jezoensis変種群の天然分布域の整理、(2)エゾマツとトウヒの球果サイズの地理的変異と化石球果サイズとの比較、すなわち日本列島において、エゾマツおよびトウヒの11集団から880個、合計1,760個の球果を採取して球果サイズの地理的変異を調べた。そして、本邦において第四紀の地層から産出したP.jezoensisの球果化石を、変種レベルで同定してその分化過程や分化年代を推定することが可能であるかを検討した。および(3)P. jezoensis変種群の分布域を広く網羅するように、エゾマツは、カムチャッカ2、大陸部(ロシア大陸・中国東北地方)2、サハリン3、北海道15の合計22集団、トウヒは本州の中部8、紀伊2の合計10集団、チョウセントウヒは韓国南部の1集団、合計33集団990個体から針葉を採取してDNAを抽出した。そして、異なる遺伝様式をもつ遺伝マーカー、すなわち、マツ科では母性遺伝して種子によって拡がるミトコンドリアDNA(mtDNA)、父性遺伝して花粉によって拡がる葉緑体DNA(cpDNA)、および両性遺伝する核DNAの3つを用いて解析を行った。その結果、P.jezoensis変種群の系統地理的関係と遺伝的多様性について、以下のことがわかった。(1)分布域の南縁部に位置する本州のトウヒや韓国のチョウセントウヒの分布域は、山岳の高標高域に断片化していることが明らかになった。(2)現生のエゾマツとトウヒの球果長は多少異なっているが、この差異は気温によって変異する可能性が示唆された。また、化石球果サイズは現生種のものより小さく、現生のエゾマツとトウヒの球果長の差異によって、球果化石を産出年代ごとに変種レベルで類別することは不可能であることが判明した。このことから、球果化石の情報だけでは、その分化過程や分化年代に関する情報を得ることは不可能であり、遺伝的解析データから得られる情報と組み合わせて考える必要があるという結論に達した。(3)カムチャッカの集団は、大陸部の集団と共通のcpDNAおよびmtDNAハプロタイプを持つことから、更新世中期の温暖な時代に、大陸部の集団からユーラシア大陸北東部を経由して分化したと推論された。次に、日本列島におけるエゾマツとトウヒの分布変遷のシナリオを、mtDNAおよびcpDNAハプロタイプの地理的分布パターンおよび化石の産出情報を基に推論した。北海道のエゾマツの祖先集団は、更新世前期に大陸部からサハリン経由で北海道に移住してきて、その後一旦サハリンの集団と分布域が不連続化し、現在北海道のエゾマツで優占的にみられるcpDNAハプロタイプが分化したと考えられた。そして、その後サハリンの集団と再び分布域が連続化して、このcpDNAハプロタイプがサハリン中部まで浸透したと考えられた。リス氷期頃には北海道から本州に南下し、朝鮮半島経由ですでに本州に移住してきていたもう一つのトウヒの祖先集団と分布域が連続化し、このcpDNAハプロタイプが本州にも浸透したと考えられた。10万年前の津軽海峡の形成によって北海道と本州が分離すると、現在北海道のエゾマツにみられる2つのmtDNAハプロタイプが北海道内で分化したものと考えられた。本州のトウヒは、鮮新世から更新世前期に大陸部から朝鮮半島経由で本州に移住してきた集団と、上述のリス氷期頃に北海道から本州に南下してきた集団の2つの祖先集団に由来するものと考えられた。10万年前に本州が津軽海峡と朝鮮海峡の形成により北海道と朝鮮半島から分離した後、現在本州のトウヒにみられるmtDNAハプロタイプが本州内で分化したものと考えられた。これらの結果のなかで、トウヒの祖先集団の一つが、大陸部から朝鮮半島経由で移住してきた集団に由来すると推論されたことは、今後日本における寒温帯樹種の植生史を考える上で示唆に富む問題を提起した。

トウヒ属ハリモミ節樹種は、現在は主として本州中部山岳の狭い範囲にのみに分布するばかりである。しかし、豊富な化石の産出例から、氷期においてはカラマツLarix kaempferiやチョウセンゴヨウといった寒温帯性針葉樹種とともに現在より広い分布域もち、寒温帯林を形成していたと考えられている。このような古生物学的情報に遺伝的解析から得られる情報を加えることにより、ハリモミ節樹種の分布変遷を解明することができると考えられる。それとともに、日本列島内における寒温帯林の分布変遷の一端を再現することができると予想される。そこで本論では、2つ目のテーマとして、本州中部におけるイラモミの集団間分化と分布変遷について、(1)生育地の踏査確認と全国に所蔵されている標本調査から現在の分布域を精査した、(2)球果形態の地理的変異の解析、すなわちイラモミ分布域を広く網羅するように、8つの集団から合計831個の球果を採取して、現生のイラモミの球果形態変異を明らかにした、および(3)地理的遺伝構造を明らかにすることを目的として、分布域を広く網羅するように9つの天然分布集団の合計284個体から針葉を採取してDNAを抽出し、cpDNAのPCR-RFLPマーカーおよび核DNAのSSRマーカーを用いて遺伝子解析を行った。その結果、以下のことがわかった。(1)イラモミの分布域は、その分布の中心である本州中部山岳地域と、栃木県北部地域の2つ地域集団に分けられた。(2)これまで種鱗の反り返った球果をもつことでイラモミの変種とされてきたシラネマツハダP.alcoquiana var.reflexaは、イラモミの個体内変異であると考えられ、分類群taxonとして認められないことが判明した。それとともに、イラモミの球果の中には反り返った種鱗をもつものが含まれる点に着目することによって、ハリモミ節樹種の球果化石からイラモミの球果化石を確実に同定できること明らかにした。そして、反り返った種鱗をもつ球果化石の産地を調べたところ、福島県新地町の標高12m、約28,050年前の地層からカラマツやチョウセンゴヨウとともに産出した球果化石はイラモミと同定された。このことから最終氷期において、イラモミは少なくとも現在より北方の低標高域に分布していたことが明らかになった。(3)栃木県北部地域と中部山岳地域の両地域集団間で、cpDNAの分化はみられず、この両地域集団はかつて連続な分布域を持っていたと考えられた。また、栃木県北部地域集団の遺伝的多様性には低下がみられた。これらのことから、イラモミは最終氷期には現在より北方の低標高域にカラマツやチョウセンゴヨウとともに分布しており、晩氷期から後氷期初頭の温暖化にともなって、北方集団が消滅し、分布域は各山岳の上部に移動するとともに、徐々に中部山岳地域に向かって縮退したと考えられた。これによって分布域の不連続化と集団間分化が生じ、分布の中心から離れた栃木県北部地域の2集団や、山梨県清里のような低標高域に隔離された集団では、個体群規模の縮小と遺伝的浮動により遺伝的多様性が低下したと考えられた。また、イラモミにおいてみられた遺伝的多様性の地理的傾向は、カラマツと共通しており、本州の寒温帯性針葉樹種は同様の分布変遷を辿って今日の分布域をもつに至ったと推察された。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、北東アジアに広く分布するエゾマツ3変種群と日本固有のイラモミを対象に、それぞれの集団間の遺伝的関係をDNAレベレで解析し、系統地理学的な関係を明らかにすることを目的として行われた研究である。

本論文は4章からなり、第1章はトウヒ属樹種の分類学的な研究動向、第2章は日本および北東アジアにおけるPicea jezoensis 3変種群(エゾマツvar.jezoensis.、トウヒvar. hondoensisとチョウセントウvar.koreana)の系統地理学的な解析、第3章はイラモミを対象に、その系統地理学的解析、第4章は、日本におけるトウヒ属樹種の分布変遷について考察した。

第2章では、3変種群について(1)天然分布域の整理、(2)エゾマツとトウヒの球果サイズの地理的変異と化石球果サイズとの比較、(3)エゾマツは、カムチャッカ2、ロシア大陸1、中国東北地方1、サハリン3、北海道16の計22集団、トウヒは本州の中部8、紀伊2の計10集団、チョウセントウは韓国の1集団、計33集団990個体から針葉を採取してDNAを抽出し、ミトコンドリアDNA (mtDNA)、葉緑体DNA(cpDNA)、および核DNAの3つを用いて解析を行った。

その結果、エゾマツの大陸の集団とカムチャッカの集団は共通のcpDNAおよびのハプロタイプをもつことから、中期更新世の温暖な時代に、大陸の集団からユーラシア大陸北西部を経由して分化したと考えられた。本州のトウヒはチョウセントウヒとともに大陸の集団から分化したと考えられた。北海道のエゾマツのmtDNAハプロタイプには2つの系統があり、前期更新世以降にロシアからサハリンを経由して少なくとも2回にわたって移住してきたか、北海道内に移住してきた祖先種からもう1つの系統が分化したと考えられた。北海道におけるPicea jezoensis化石の産出例から、その分布は北海道南部あるいは東北地方中部付近まで南下した可能性が考えられた。しかし、mtDNAハプロタイプの地理的分布パターンから、北海道のエゾマツと本州のトウヒは分布域が大きく重なることはなかったと考えられた。

第3章では、本州中部におけるイラモミについて、(1)現在の分布域を精査、(2)球果形態変異の解析、(3)地理的遺伝構造の解明を目的として、9つの天然分布集団の合計284個体から針葉を採取してDNAを抽出し、cpDNAのPCR-RFLPマーカーおよび核DNAのSSRマーカーを用いての遺伝子解析を行った。

その結果、イラモミの分布域は、分布の中心である本州中部山岳地域と、栃木県北部地域の2つ地域集団に分けられた。これまでイラモミの変種とされてきたシラネマツハダP.alcoquiana var.reflexaの種鱗が反り返る特徴は、イラモミの集団に広くみられることから、シラネマツハダは独立した分類群ではなく、球果化石で種鱗の反り返る特徴をもつものはイラモミと同定できることを明らかにした。そして、福島県新地町の標高12m、約28,050年前の地層から産出した球果化石はイラモミと同定された。このことから最終氷期において、イラモミは少なくとも現在より北方に分布していたことが明らかになった。栃木県北部地域と中部山岳地域の集団間でcpDNAの分化がみられないことから、両地域集団はかつて連続的な分布域をもっていたと考えられた。また、栃木県北部の集団に遺伝的多様性の低下がみられたことから、イラモミは最終氷期には現在より北方の低標高域にカラマツやチョウセンゴヨウとともに分布しており、晩氷期から後氷期初頭の温暖化にともなって、北方集団が消滅し、分布域は各山岳の上部に移動するとともに、徐々に中部山岳地域に向かって縮退したと考えられた。

本研究は、北東アジアに広く分布し、形態的に類似するエゾマツ3変種群の分布域を網羅するかたちで試料を採取し、変種群相互の系統地理学的な関係を遺伝子レベルで解析した先駆的かつ斬新な研究である。とくに、日本に分布するエゾマツとトウヒについて、前者は北方経由、後者は南方経由で大陸から日本に移住したことを強く示唆し、過去に両者の分布域が大きく重ならなかったことを示した点は注目に価する。また、日本の固有種であり、現在中部山岳と栃木県北部に分布が限られるイラモミの解析から、最終氷期以降の気候変動のなかで分布域の縮退が認められることを明らかにしたことは、日本に固有の他のイラモミ節樹種についても同様のことが示唆され、その分布動向を探る上で新しい知見を提示した。本研究によって得られた知見は、日本のフロラや植生帯の成立過程を考える上で注目すべきものとして評価され、環境学の上から意義のある研究と認める。

したがって、博士(環境学)の学位を授与できると認める。

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