学位論文要旨



No 121627
著者(漢字) 荒川,千夏子
著者(英字)
著者(カナ) アラカワ,チカコ
標題(和) 魚食を介した環境化学物質曝露による妊孕力への影響 : 受胎待ち時間調査法を用いた検討
標題(洋)
報告番号 121627
報告番号 甲21627
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第209号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 吉永,淳
 東京大学 教授 影本,浩
 東京大学 教授 堤,治
 東京大学 教授 柳沢,幸雄
 東京大学 教授 渡辺,知保
内容要旨 要旨を表示する

第1章 緒言

魚は脂肪分が高く、化学物質を蓄積しやすいことから、環境化学物質の主要な曝露媒体となっている。現に、日本人の場合、ダイオキシン類、DDTなどの有機塩素系化合物や水銀は主に魚を介して体内に取り込まれる(Table 1)。加えて、それら有機塩素系化合物は、1998年に環境庁が発表した「環境ホルモン戦略計画SPEED'98」の中で「内分泌攪乱作用を有すると疑われる化学物質のリスト」に登録されており、生殖能力への影響が懸念されている。

一方で、魚は栄養特性が高いことなどから、日本では魚食文化が発展している。欧米の食文化が入り込むなど、食生活が多様化している現代においても、日本人は動物性たんぱく質の約40%を魚から摂取している。

以上のことから、日本人にとって、魚食による健康リスク、特に生殖能力へのリスクを評価することは非常に重要である。

本研究では、子供を産むことのできる生物学的な能力である妊孕力に着目し、その定量的な疫学的指標である受胎待ち時間(カップルが避妊を止めてから妊娠するまでの期間)を用いることとした1)。受胎待ち時間の延長は生殖過程のどこかが傷害されている可能性を意味している。

そこで、受胎待ち時間調査法による妊孕力の測定および魚摂取に関わる指標の測定を行うことで、魚食を介した環境化学物質曝露が妊孕力に与える影響を評価することを目的とする。

第2章 受胎待ち時間調査法の検討

2-1 適用可能性の評価

2-1-1 目的

これまで受胎待ち時間の研究は、主に欧米人を対象として行われている。日本人を対象とした研究は、鈴木らが行った「飲酒、喫煙その他の嗜好品が妊娠や胎児におよぼす影響の調査」2)の中で用いられているのみであるが、その中には、受胎待ち時間の回答率や分布などといった基本的な情報が示されておらず、日本人を対象とした受胎待ち時間調査の十分な評価は行われていない。そこで本章では、日本人に対する受胎待ち時間調査の適用可能性について評価する。

2-1-2方法

年齢や体重、受胎待ち時間、妊娠出産歴、性習慣、対象者およびそのパートナーの嗜好や食生活などに関する質問票を作成し、都内産婦人科を受診し、臨床的に妊娠が認められた初診時の妊婦に配布した。

加えて、回答の再現性を調査するために、妊娠初期の妊婦に質問票を配布し、同時に出産後の調査の依頼をした。出産後の調査の同意が得られた場合には、出産から約1年が経過した後に、同様の質問票を配布した。

2-1-3 結果および考察

質問票は92人に配布し、受胎待ち時間の回答が得られたのはそのうちの69人(75%)だった。回答率は既往の研究と同程度だった。

受胎待ち時間は0-54ヶ月(最頻値1ヶ月)に分布し、既往の研究で報告されている様な受胎待ち時間の長い側にすそを引く分布が得られた(Fig.1)。

再現性の調査では、質問票は132人に配布し、65人から出産後の調査の同意が得られ、うち33人から出産後の質問票が返送されてきた。2回の調査で得られた受胎待ち時間の差は-1から3ヶ月だった。2つの回答は大きく異ならないことから、受胎待ち時間から約2年が経過しても受胎待ち時間の記憶を保持していることが確認された。

以上の結果から、受胎待ち時間調査が日本人を対象とした妊孕力の評価方法として適用可能であると考えた。

2-2 受胎待ち時間影響因子の検討

2-2-1 目的

質問票の結果を解析し、受胎待ち時間の影響因子を検討する。

2-2-2 方法

受胎待ち時間を連続変数として取り扱う他に、受胎待ち時間を2群(I群:0-6ヶ月、II群:>6ヶ月)に分類し、カイ二乗検定およびMann-WhitneyのU検定、二項ロジスティック解析を行った。二項ロジスティック解析は2群の分類を従属変数とし、BMI、妊娠回数、対象者およびパートナーの年齢、牛乳、カフェイン摂取量、アルコール摂取量、喫煙、魚および肉の摂取頻度を共変量として解析を行った

2-2-3 結果および考察

二項ロジスティック解析の結果、妊娠回数、対象者の喫煙、対象者とパートナーの魚摂取頻度、パートナーの牛乳摂取量が有意な変数として選択された。この中で、魚摂取頻度が高い対象者ほど妊孕力が低いことが示された。魚は環境化学物質の主な曝露媒体であることから、魚食を介した有機塩素系化合物の曝露によって妊孕力が低下した可能性が考えられた。

第3章 受胎待ち時間の地域間比較

3-1 目的

前章の結果の再現性を確認するために、魚摂取量の高いと考えられる地域と一般的な地域で生活しているヒトの受胎待ち時間を比較することにより、環境の違い、特に魚摂取頻度の違いが妊孕力へ与える影響について調査する。

3-2 方法

調査方法

東北地方の海岸部と都市部の産婦人科で出産した産婦を対象として受胎待ち時間調査を行った。産後3日目に質問票を配布し、翌日回収した。

解析方法

2-2-2の解析に加えて、Cox回帰を行った。対象者とパートナーの変数には高い相関を持つ変数があることから、多変量解析は、対象者のみの変数と、対象者とパートナーの変数を足し合わせた変数(例 対象者の年齢+パートナーの年齢)を共変量とした場合の2つパターンで解析を行った。

3-3 結果および考察

質問票は海岸部156人、都市部298人、計454人に配布し、受胎待ち時間の回答が得られたのは海岸部93人(60%)、都市部194人(65%)だった。受胎待ち時間は0-80ヶ月(最頻値 1ヶ月)に分布した。

両地域の受胎待ち時間分布を比較した結果、統計的に有意ではないものの、海岸部の方が都市部に比べて妊娠までにかかる時間が長かった(Fig. 2)。

前章とは異なり、受胎待ち時間と魚摂取頻度との関連を見出されなかった。加えて、海岸部と都市部では摂取頻度に差があることを予測していたが、両地域で摂取頻度に差がなかった。

第4章 魚食による妊孕力への影響

4-1 目的

前章までは、魚摂取に関して、魚摂取頻度という半定量的な指標を用いていたが、本章では、より定量的な指標を用いて評価していくこととする。

2章の結果は、魚食を介した環境化学物質の曝露、特に生殖毒性を持つダイオキシン類曝露によって妊孕力が低下したと考えていることから、本来ならばダイオキシン類を測定し、評価したいところである。しかしながら、大人数を対象とする疫学調査においては、コストや技術的な面から適さないと判断し、本章では魚摂取量の定量的指標として知られる頭髪中総水銀濃度を用いて、魚食と妊孕力の関係を評価する。

4-2 方法

調査方法

3-2の都市部の産婦のみを対象とした。出産後2日目に頭髪を採取した。

分析方法

頭髪試料は、原子吸光光度法を用いて、総水銀濃度を測定した。

解析方法

3-2と同様の方法を用いた。

4-3 結果および考察

受胎待ち時間を6ヶ月で分類し、属性などを比較した結果、頭髪中総水銀濃度を含め、両群に有意な変数はなかった(Fig.3)。

二項ロジスティック解析の結果、対象者とパートナーの変数を足し合わせた変数を用いた場合に、出産回数と年齢の和が有意な変数として選択された。

日本人において、水銀、ダイオキシン類共に魚が主要な摂取源であることから、頭髪中総水銀濃度とダイオキシン類曝露レベルは相関するというのが本章における仮説だったが、頭髪中総水銀濃度がダイオキシン類の曝露を反映していない可能性も考えられる。

第5章 ダイオキシン類曝露による妊孕力への影響

5-1 目的

対象者から、母体のダイオキシン類体負荷量を表す母乳試料の提供を受け、母乳中ダイオキシン類濃度を測定し、ダイオキシン類曝露と妊孕力の関係を評価する。

5-2 方法

調査方法

宮崎県内の産婦人科を受診した妊娠20週以降の妊婦を対象として受胎待ち時間調査を行った。

採乳は、産後30日ごろに対象者自身に行ってもらった。

分析方法

高分解能GC/MSを用いてダイオキシン類濃度の測定を行った(Fig. 4)。毒性等価係数は、WHO-TEF(1997)を使用し、脂肪当たりの濃度(pg TEQ/g fat)に換算した。測定は、2000年に厚生労働省が発表した母乳中のダイオキシン類測定暫定マニュアルに従い、行っている。

解析方法

3-2と同様の方法を用いた。

5-2 結果および考察

質問票は153人に配布し、受胎待ち時間の回答が得られたのは99人(65%)だった。受胎待ち時間は0-53ヶ月(最頻値 1ヶ月)に分布した。

受胎待ち時間を6ヶ月で分類し、属性などを比較した結果、母乳中ダイオキシン類濃度を含めて両群に有意な変数はなかった(Fig. 5)。

二項ロジスティック解析の結果、対象者の変数のみを用いた場合に、出産回数が有意な変数として選択された。

いずれの解析においても受胎待ち時間と母乳中ダイオキシン類濃度に関連が見出されないことから、今回の曝露レベルは妊孕力に影響を与えない可能性が考えられた。

第6章 結言

本研究は一般環境からの化学物質曝露のヒトへの影響を評価した数少ない研究の一つである。

全章を通して、受胎待ち時間の安定した回答率や受胎待ち時間に特異的な分布が得られたこと、既往の文献で見出されている影響因子が見出されたことから、受胎待ち時間調査が日本人の生殖能力を評価する指標として妥当であることが示された。

今回、頭髪中総水銀濃度を指標とした魚食およびダイオキシン体負荷量と妊孕力の関連は見出されなかったが2章の結果から魚摂取頻度が高いほど妊孕力の低いことが示されていることから、今後の調査によって、魚食と妊孕力の因果関係が明らかにされることが望まれる。

Table 1 魚から摂取される化学物質

Fig.1 受胎待ち時間の分布

Fig.2 2つの地域の受胎待ち時間の分布

Fig.3 頭髪中総水銀濃度と受胎待ち時間

Fig.4 母乳中ダイオキシン類濃度の分析フロー

Fig.5 母乳中ダイオキシン類濃度と受胎待ち時間の関係

Baird et al., Am J Epidemiol 1986; 124: 470-80 鈴木ら、母性衛生 1992; 33: 17-21
審査要旨 要旨を表示する

魚は生殖毒性を持つ環境化学物質の主要な曝露媒体でありながら、日本人にとって、欠くことのできない動物性たんぱく質の摂取源である。このことから、日本人の魚食による健康リスク、特に生殖能力へのリスクを評価することは非常に重要であると考えられる。

こうした背景から、本研究では、受胎待ち時間(カップルが避妊を止めてから妊娠するまでの期間)調査法による妊孕力の測定および魚摂取に関わる指標の測定を行うことで、魚食を介した環境化学物質曝露が妊孕力に与える影響を調査することを目的としている。

本論文は、6章で構成され、第1章は、生殖毒性を持つ化学物質や受胎待ち時間調査法などの研究の背景となる事柄についてレビューした後、本研究の目的について述べられている。

第2章は、日本人を対象とした受胎待ち時間調査法の適用可能性を評価することを目的として、受胎待ち時間の質問票の作成や再現性の調査、受胎待ち時間の影響因子の検討を行い、その結果の考察を行っている。調査の結果、受胎待ち時間調査法の適用可能性が確認された。加えて、受胎待ち時間の影響因子として喫煙や魚の摂取頻度、牛乳の摂取量などの因子が得られたことを述べている。

第3章は、第2章の調査結果で得られた、魚摂取頻度が高い対象者の妊孕力が低いという結果は、魚を介した有機塩素系化合物の曝露による妊孕力の低下を仮説として挙げ、この結果の再現性を確かめるために、魚摂取量の異なる2つの地域で受胎待ち時間調査を行い、その結果の考察を行っている。調査の結果、第2章の再現性は得られなかったものの、本章で用いていた魚摂取頻度という指標の問題点を挙げ、次の調査から、魚摂取のより定量的な指標を用いていくことを述べている。

第4章は、第3章の結果を受けて、頭髪中総水銀濃度を魚摂取量の指標として用いて、受胎待ち時間との関連を調査し、その結果の考察を行っている。調査の結果、頭髪中総水銀濃度を指標とした魚摂取と受胎待ち時間に関連が見出されなかったことから、本章対象者の頭髪中水銀濃度のレベルつまり魚摂取量のレベルは、妊孕力に影響をおよぼさないことを示唆している。加えて、頭髪中総水銀濃度は、魚を介した有機塩素系化合物の曝露レベルを反映していない可能性を指摘し、有機塩素系化合物を直接測定することの必要性を述べている。

第5章では、第4章の結果を受けて、母体の体負荷量を表す母乳中のダイオキシン類を測定し、妊孕力との関係を調査している。調査の結果、母乳中ダイオキシン類濃度と受胎待ち時間に関連は見出されなかったことから、本章対象者の母乳中ダイオキシン類のレベルは、妊孕力に影響をおよぼさないことを示唆している。さらに得られた結果から、先行研究との比較を行い、考察を行っている。

第6章では、これまでの調査の概要をまとめた上で、今後の展望について述べられている。

以上要するに、本論文では、受胎待ち時間調査法の適用可能性および妥当性を検討した上で、魚食と妊孕力の関係について調査を行い、魚摂取頻度と妊孕力に関連があること、頭髪中総水銀濃度で示される魚食あるいはダイオキシン類の体負荷量と妊孕力に関連がないことを見出している。

なお、本論文第2章は、吉永淳、水本賀文、安部正雄、第3章及び第4章は、吉永淳、岡村州博、仲井邦彦、佐藤洋、第5章は、吉永淳、今井秀樹、加藤貴彦、池ノ上克、橋本俊次、北村公義との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

したがって、博士(環境学)の学位を授与できると認める。

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