学位論文要旨



No 121630
著者(漢字) 井上,諭
著者(英字)
著者(カナ) イノウエ,サトル
標題(和) 航空路管制業務における管制官のヒューマンモデルに関する研究
標題(洋)
報告番号 121630
報告番号 甲21630
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第212号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,一雄
 東京大学 教授 大和,裕幸
 東京大学 教授 河内,啓二
 東京大学 助教授 染矢,聡
 東京大学 助教授 大澤,幸生
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

近年の航空需要の高まりから航空管制システムの果たす役割は大きくなっている.一方で管制官のヒューマンファクターの問題,特にヒューマンエラーの発生はシステムの運用において重大なインシデントにつながる危険性がある.

航空管制システムにおけるヒューマンファクターの問題の本質はどこにあるのかを一般論で見極めることは難しい.航空管制分野の業務は管制業務特有のスキルを必要とするため,有効な対策を実施するためには,現場の航空管制官の行う業務を理解した上での対策が必要となる.

本研究では,日本の航空路管制システムを対象として,エスノメソドロジーに基づき実験的に航空管制官のタスク分析を行い,航空管制業務における管制官のヒューマンモデルを構築することを目的とする.特に本研究では,レーダ管制官の業務に着目しモデル化を行う.

航空路管制業務の特徴

航空路は分割された各セクターで構成される.それぞれのセクターの管制席には2名(図1)以上の航空管制官が配置され業務が行われる.本研究では2人体制(レーダ対空席,調整席)で行われている航空路管制業務を対象とした.航空路管制業務を担当するレーダ対空席と調整席の管制官は,逐次更新されるレーダ管制卓の表示画面とフライトデータストリップのデータに基づいて戦略的に業務を行う.

航空管制の作業にはいくつか特徴がある.その中でも管制作業の基本は,将来を通して安全な状況を維持,確保するための予測をして指示を出すことである.そのためエンルートではレーダ対空席なら10〜15分後,調整席ならさらにその先の状態を予測して,安全間隔が保たれるように現在の状況・情報を基に状況判断し,指示を出す作業を行う.

また,管制では割り込み作業が多い.管制官は担当空域内にいる複数の航空機を同時に扱いながら作業をしているため,航空機からの呼び込みや,他セクターからの航空機の移管がある.調整席の業務も隣接しているセクターからの調整作業では同様の割り込みが生ずる.

さらに,エンルートの管制業務はアプローチなどとは異なり,航空機の目標状態が離陸して上昇,降下して着陸,オーバーフライトなど様々な状態であるので,処理する条件や内容が多くなり,ライン作業のような流れ作業とは異なる思考が必要とされる.

シミュレーション実験

実験概要

本研究ではシミュレータによる認知実験を行なった.シミュレータは電子航法研究所のエンルートシミュレータを利用した.実験では,ケーススタディとして東京航空交通管制部の関東北セクター (図2)を対象とし,実験の被験者は全員,関東北セクターのレーティング(資格)を持っている管制官とした.また,実験では実際の管制業務がどのように行なわれているかを詳細に調べるために,レーダ対空席と調整席の全ての業務を作業記録の対象とした.

実験時間は1時間とし,被験者はレーダ対空席および調整席の2人で1チームとして実施した.シナリオの特徴として東京国際空港や成田国際空港,横田基地など多くの空港からの北方面への離発着に関係する航空機が多い地域特性のため,管制処理要領等の規程を満たすための作業として,上昇や降下の指示を多くの航空機に出す必要がある交通流となっている.

実験結果

実験では1時間分の対空通信記録,調整内容の記録などのプロトコルデータ,そしてシミュレータログ等のデータを取得し,実験時間内の各状況について分析を行った.ここではそれらの結果のうち,対象セクターでの主要なトラフィックとされる一例をケーススタディとして示す.

実験では取り上げたケースの状況には対象となっている機以外にも航空機は複数飛行しており,実際にはそれらも含めて同時に管制を行っているが,ここでは分析対象とした状況に関連していない航空機は図中に表示しないこととした.図3に被験者1のケースを例として示す.図3のケースでは,関連する航空機それぞれの初期位置関係をデータブロックから引かれた線で示し,色矢印の線は各機それぞれのルートを示している.また,各航空機を示すデータブロックは上から順にその時点のコールサイン,高度,対地速度を表している.図3中の色丸は時間経過との位置関係を示したものである.また図中の番号は表1の通信ログの整理番号と対応したもので,指示を出したタイミングを示している.

ケーススタディ(3機のRJTTインバウンド)

このケーススタディは,関東北(T03)セクターで特徴的な北方面からのいずれもRJTTへ向う連続した到着機で,JAL542,ANA896,ANA744の3機が来ている状況である(図3).管制官は管制要領に従い,これら3機を安全間隔を保ちつつ降下させてTLEのポイントを高度13,000ftで通過させ,それに加えて水平間隔を10nm間隔毎に並べて東京アプローチへ移管する処理を行う.

この状況においてはいずれの結果からも全ての管制官がレーダベクター処理(レーダに基づいて航空機の針路を誘導する方法)をルートの東側で行いながらスペーシングを行って, TLEのポイントまでに13,000 ftに降下させていた.また航空機を並べた順番は3チームを比較した結果いずれの管制官も同じでJAL542,ANA896,ANA744の順だった.

タスク分析

ケーススタディのように実験中のその他の各ケースについても,細かく分析すると,指示の回数やレーダベクター,高度指示などの指示内容とそのタイミングなど手段の適用方法は管制官毎に異なるケースも存在するという結果であった.これは管制官の個人差によるところでもあるし,最初に出した指示内容によってその後状況が変化することにおける対応の違いによるものであると考えられる.しかしながら,状況に対する戦略は管轄するセクターの地域特性や管制要領など取決め事項によって制限があるため,結果からある程度の共通性を見ることもできた.

ケーススタディでは東京国際空港行きの到着機を扱うケースであったが,この場合,管制機関の取決事項として,阿見(TLE)のポイントで13,000 ftを通過する条件がある.これは東京国際空港への到着機の出口が1つということを意味する.さらにルートの西側は東京国際空港を離陸して上昇しながら北側に出て行く航空機が通るルートがあるため,予定ルートの西側への進路変更はしにくい状況がある.このようないくつかの条件に対し,訓練された管制官は全員がほぼ同様の戦略をもって,ルートの東側のスペースを使いながら,10nmのセパレーションを確保して業務を移管するという共通の戦略をとっていることが理解できた.このようなことから,管制官の戦略には,地域特性や管制要領など取決め事項による条件などから,ある程度共通なものが存在することも分かった.また,すでに行った予備実験の結果と今回の実験の観察も総合して考えると,管制官の状況判断は,いくつかの戦略に基づいた業務プロセスの動的なルーティンがメンタルモデル内に存在し,それらをマッチングしながら指示を決定するというモデルが妥当であると考えられる. ただ,このルーティンの細かい種類や量は管制官によって個人差があるもので,今回の分析ではおおよそこのセクターでレーティングを持つ管制官が一般的にモデルとして理解できる基本的なものだけを確認した.

レーダ管制官の認知モデル

分析結果と考察を総合して,通常のタスク状態におけるルーティンを適用するときのレーダ管制官の認知プロセスのモデルをFig.3のように考えた.このモデルは管制官が任意の状況に対して管制指示を決定するまでの認知の過程を示したものである.

モデル内におけるルーティンのマッチングは2種類のプロセスでマッチング処理が行われる.管制官はターゲットとなる航空機を探索すると,まず自分のルーティンのテンプレートにその航空機のトラフィックのルーティンとしてあてはまるものがあるかどうかのマッチングを行う.ルーティンがモデルとして存在すれば,さらに戦略や指示内容を決定するためのルーティンマッチングのプロセスに行く.このプロセスは航空機の状況を知るためのパラメータの取得(知覚)を行い,対象とする状況の理解,将来予測のプロセスを経て指示内容の決定に至る.パラメータの取得はターゲットとなる航空機の高度,針路,対地速度や目的地などのデータの取得をする.対象とする状況の理解はターゲットとなる航空機自体の状況を理解した上でそのターゲットを取り巻く状況を理解をする.さらに将来の予測はここまでのプロセスで得た情報,状況理解と管制官自身の持つ経験を基に考えられる将来の状況の予測を行う.

6.まとめ

本研究は航空路管制システムにおいてエスノメソドロジーに基づき,実験的な手法で航空管制業務のタスク分析を行った.また,その分析に基づきヒューマンファクターの視点から,通常のタスク状態におけるレーダ対空席の管制官の認知プロセスのモデルを提案した.

図1航空路管制業務の様子

図2実験対象セクター(T03)

図3実験の飛行経路結果例

表1実験の対空通信内容の結果

図4ケーススタディでのルーティンの概念

図5管制官の認知プロセスモデル

審査要旨 要旨を表示する

本論文は,エスノメソドロジーの考え方に基づき,航空管制業務の実験的な分析手法を提案し,また,その分析に基づいてヒューマンファクタの視点から,レーダ対空席管制官のヒューマンモデルの構築し提案したものである.管制官の認知プロセスは,Recognition-Primed Decision(RPD)Modelのような,状況と知識とのマッチングで行われており,これに用いる知識がルーティンとして抽出できることを示している.

本論文は8章から構成される.

第1章は序論であり,航空交通の分野でもヒューマンファクタに関連する問題が重要であり,航空機の操縦,航空管制のそれぞれの分野について,現状の取組みについて説明している.

第2章では研究の背景と目的が述べられている.航空管制におけるヒューマンファクタの問題について説明し,さらにこの問題をエスノグラフィカルな実験的アプローチによって理解し,分析する手法を提案するとともに,それらを用いた管制官のヒューマンモデルの構築が目的であるとしている.

第3章では,本研究の基礎となる考え方として,ヒューマンファクタに関係する理論を紹介している.まず,研究の基本的な視点となるヒューマンファクタの具体的モデルを示した後,本論文の研究アプローチとして用いるエスノメソドロジーに基づいて,現場を対象として行われた研究事例を説明し,エスノメソドロジーのアプローチが専門性の高い分野についてヒューマンファクタの分析を行うのに有効な手法であると主張している.また,認知プロセスをモデル化する際の考え方として,Naturalistic Decision Making(NDM)の考え方が有効であることを状況認識理論とともに説明している.さらに航空管制を対象とした欧米でのヒューマンモデリングに関する研究事例を紹介している.

第4章では本論文が対象とする航空管制システム,航空管制業務の概要とともに管制官のタスクの特徴について述べている.航空法規と航空方式について説明し,航空管制の運用方式や業務処理の方法を説明している.また,管制官の業務がレーダ席と調整席に分けられ,業務の特徴と,それらにおける管制業務の認知的特徴を述べている.

第5章では航空路管制業務を分析するためのシミュレータ実験の手法と,分析手法について提案を行っている.シミュレータは電子航法研究所のエンルートシミュレータを利用し,ケーススタディとして東京航空交通管制部の関東北セクターを対象として,管制官を被験者とした実験を実施した.また,実験では実際の管制業務がどのように行なわれているかを詳細に調べるために,レーダ対空席と調整席の全ての業務を作業記録の対象とした.実験はシナリオにつき1時間実施し,記録された映像やプロトコルデータを抽出し,タスク分析を実施する手法が述べられている.

第6章では,基本的な管制官の業務フローを示し,対象セクターでの主要なトラフィックとされる3つの事例をケーススタディとして示し,各ケースにおける管制官毎の業務内容と,状況を比較して,それらに関する知見を述べている.管制官の業務戦略には共通性がみられ,それらの共通となる戦略を構成する知識がルーティンとして抽出できることを考察として述べている.ルーティンは管制官が意思決定を行うために必要な知識のパッケージであり,状況予測のマッチングのモデルとして用いられ,出発機,到着機,通過機としての特徴を識別するのに用いられる.さらに,用いられている全てのルーティンの種類を抽出し,その妥当性を確認している.

第7章では以上の分析結果と考察を総合して,ルーティン適用により管制処理を行うような,通常のタスク状態におけるレーダ席管制官の認知プロセスモデルを提案している.このモデルは,管制官が任意の状況に対して管制指示を決定するまでの認知プロセスを示しており,管制官の認知プロセスがRPDやNDMのようなプロセスで行われており,そのプロセスを構成する要素に知覚,理解,予測という3つ要素から構成される知識としてのルーティンが用いられるようなモデルを提案している.

第8章は結論で,航空路管制業務を対象に実験的な手法を用いてタスク分析を行い,その分析に基づいてヒューマンファクタの視点からレーダ席管制官の認知プロセスのモデルを提案したとしている.また,モデル構成要素の要となる知識をルーティンとして抽出可能で,実験結果よりその妥当性を確認したとしている.

以上のように,本研究の成果は航空路管制業務において管制官の認知プロセスをモデル化したことであり,このモデルは今後のインタフェース設計開発の指針や管制官の訓練プログラムの指標などに活用されることが期待され,航空管制システムの安全性、信頼性に寄与することが少なくない.よって,本論文は博士(環境学)の学位請求論文として合格と認められる.

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