学位論文要旨



No 121672
著者(漢字) 菅,哲朗
著者(英字)
著者(カナ) カン,テツオ
標題(和) 細胞内局所イオン計測のための近接場励起光源アレイ
標題(洋)
報告番号 121672
報告番号 甲21672
学位授与日 2006.03.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(情報理工学)
学位記番号 博情第97号
研究科 情報理工学系研究科
専攻 知能機械情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下山,勲
 東京大学 教授 土肥,健純
 東京大学 教授 佐藤,知正
 東京大学 教授 藤田,博之
 東京大学 助教授 神崎,亮平
内容要旨 要旨を表示する

序論

細胞内イオンなどの動態を観察・計測する方法として,蛍光法が一般的に用いられている.特定の物質に結合して発光する蛍光色素を用いることで,目的のイオンをラベリングして蛍光像として可視化することが可能となる.一方で,神経細胞を対象にした蛍光計測において,計測領域の微細化に対する要求は高い.この点において,蛍光法で従来用いられている光学顕微鏡は回折限界による微細化上の制約を抱えていた.この問題点を解決する有望な方法として,近接場光を用いた方法があげられる.ところが,従来の近接場光を用いた手法は,スキャンを行うことによって細胞表面像を得ているため,時間変化する信号を計測できなかった.

本論文では時間変化する細胞内のイオン濃度変化を局所的に計測することを目的として,サブミクロンサイズの開口を多数備えた基板(以下,サブミクロン開口基板)を用いた方法を提案する(Fig. 1参照).各サブミクロン開口は蛍光色素の近接場励起光源として機能する.この基板上に培養などの方法を用いて細胞を直接配置することにより,スキャンなどの方法を用いることなく,神経細胞の時間変化する信号を局所的かつ多点同時に計測可能となる.

開口アレイの設計と製作

サブミクロン開口から放出される励起光の広がりに関して見積もりを行い,開口製作のための設計指針を得るためにFinite Difference Time Domain (FDTD)法を用いた光学シミュレーションを行った.シミュレーションモデルをFig. 2に示す.Fig.2 (A)はシミュレーションに用いた三次元モデルであり,Fig. 2 (B)はそれを開口においてカットしたモデルの二次元画像である.ガラス基板の表面にあるCr/Au膜の中心に開口が開いている構造である.開口は230 nm x 230 nmの矩形である.実際の細胞計測状態に合わせるために,開口面は水に面している.ガラス基板側から開口に対してx偏光平面波の励起光(λ= 488 nm)を導入した. Fig. 3にシミュレーションの結果を示す.開口近傍が赤くなっているが,これは強度が開口近傍に集中していることを示す.実際に製作する場合,どの程度の厚さの金属膜が必要かを調べるために,金属膜厚をパラメータとして光の減衰距離を調べた.光の減衰距離はFig. 3中のZ directionに沿った強度分布をプロットすることで調べた.その結果をFig. 4に示す.Auの膜厚は50 nmで固定し,Crの膜厚を変化させた.この結果,Cr膜厚が0の時には開口から遠方においても光の強度は減衰せず,Crが5 nm存在するだけで減衰性能は格段に高くなり,減衰はほぼCr膜厚50 nm程度で収束することがわかった.この結果は実際の製作において50 nm程度のCr膜が重要であることを示唆する.

次に実際の製作について述べる.サブミクロン開口の製作は,電子線直描法とリフトオフ法を用いて製作した(Fig. 5参照).基板として用いたのはカバーガラスである.カバーガラス上に塗布したレジスト膜上に電子線で直接パターンを描画することにより,ナノサイズの構造のパターニングが可能となる.そこに直接Cr/Auを蒸着し,レジスト上に成膜された金属膜をレジストごと除去することにより,レジストパターンに沿った形で金属膜のパターニングが可能となる.このようにして製作した開口の写真をFig. 6に示す.5μmピッチで開口サイズ230 nm x 230 nmの矩形開口をアレイ上に製作することができた.描画領域の総面積はおよそ2 cm角程度の領域であるが,この方法によって領域内で均一に開口を広範囲に製作することが可能である.

励起領域のサイズ評価

サブミクロン開口から放出される光が,開口近傍において実際にどのような広がりを持つかという点について評価を行うことは,計測領域を見積もる上で重要である.この光場分布を計測するためのプローブ要素として,蛍光ビーズを用いた.計測方法の概要をFig. 7に示す.蛍光ビーズを開口近傍において空間的にスキャンし,このときに蛍光ビーズから生じる蛍光を同時にモニタすることにより,空間の位置と蛍光強度との関係を得ることができる.スキャンを行うために,蛍光ビーズはカンチレバーに接着した.この際に,カンチレバーとしてピエゾ抵抗素子を組み込んだカンチレバーを用い,基板とビーズの接触を抵抗変化によって検出する(Fig. 7(C)).これにより,スキャン位置の開口面からの高さを精密に決定することができる.

カンチレバーは根元が二股になっており,この部分の歪を検知することにより,蛍光ビーズと基板の接触を検知する.このカンチレバーの先端に,直径6 mの蛍光ビーズを接着した.蛍光ビーズを接着したカンチレバーのSEM写真(Fig. 8)を示す.カンチレバー先端にひとつだけ蛍光ビーズが付着しているのが見て取れる.計測対象であるナノ開口は前述のプロセスで製作したものであるが,開口のサイズを300 nm x 300 nm,ピッチを15μmとした.開口間のピッチが広めなのは,ビーズで計測したときに,計測対象以外の開口からの影響をなくすためである.

計測結果をFig. 9に示す.Fig. 9 (A)はカンチレバーを基板に対して接近する方向に動かしたときのピエゾ抵抗出力値の変化である.横軸のゼロ点はカンチレバーの出力値が変化した点により決定した.ゼロ点付近において,50 nmステップでカンチレバーを動かしているので,少なくとも50 nmの精度で基板とカンチレバー間の変位を検出できることがわかった.これは,開口から放射される近接場光は開口と同程度の大きさの距離程度まで存在することを考えると,例えばこの場合は開口サイズは300 nmであるので,近接場光を計測する上で十分な位置検出性能を有しているといえる.

この条件において,Fig. 9(A)の(α),(β)そして(γ)の3つの異なる基板・カンチレバー間距離において開口上を2次元的に走査した.その結果,Fig. 9(B)に示すように,開口部分においてピークを持つ強度分布計測値が得られた.それぞれの位置に関してFWHMを比較したところ,ビーズが開口の数百nmの位置に近づいたところで,FWHMが10μm程度から5μm程度に減少していることがわかり,この結果から開口近傍に光励起領域が局在していることがわかった.

神経細胞を用いた蛍光計測

サブミクロン開口を用いて,神経細胞の応答計測を行った.これにより,デバイスの生体局所計測法としての有効性を検証した.計測対象として,カイコガの蛹から摘出した神経細胞を用いた.サブミクロン開口上で細胞を培養するために,開口基板にFig. 10に示されるシリコンゴム製のチャンバを取り付けた.これにより,培養液中での細胞培養が可能となる.

細胞の信号として,カルシウム応答を計測した.細胞に人工的な刺激を与えて細胞内へのカルシウムの流入を誘発し,そのときの細胞内カルシウム濃度の増加を蛍光強度として検出する.計測実験に先立って,カルシウム応答性のAM体の蛍光色素を細胞に導入した.このようにして準備したサンプルを,Fig. 1の左側の図に示されるように,二つの対物レンズが対になった計測光学系の中に挿入し,細胞の像を撮影した.それらをFig. 11に示す.Fig. 11 (A)は明視野における細胞像である.Fig. 11(B)にそのアウトラインの図を示す.この状態で励起光を基板下側から照射するとFig. 11(C)のようになり,蛍光フィルタを介して撮像するとFig. 11(D)のようになる.これから,開口上の部分が選択的に蛍光励起されていることがわかる.この部分の蛍光強度を時間的にモニタすることにより,カルシウムイオン濃度の時間変化が計測できる.

人工的な刺激として,グルタミン酸とアセチルコリンの混合液を細胞に加えた.これらの薬剤は神経の発火を誘発し,結果的にカルシウムイオンの細胞内への流入をもたらす.実験対象の細胞の像と計測結果をFig. 12に示す.Fig 12 (A)はサブミクロン開口上に培養した細胞の明視野像である.サブミクロン開口と細胞体の位置関係はFig 12 (B)のようになる.この状態で励起光を導入し,蛍光観察を行うと,Fig 12(C)に示されるように,開口部分においてのみ蛍光が計測される.6番と7番の開口に関して刺激の付与に伴う蛍光強度変化の時間変化をプロットしたものをFig. 12 (D)(E)に示す.グラフ中の黒いバーは刺激のタイミングを示す.刺激薬剤がチューブを通るのに60 sec程度要したため,刺激の開始から薬剤反応の開始までタイムラグがある.刺激の到達後,細胞が反応して蛍光強度が増大していることがわかる.これから,神経細胞の刺激応答信号を複数点で計測することが可能であることがわかった.信号変化は最大で30 %程度であり,計測する上で十分なS/Nを持つ.

結論

FDTD法を用いて光学シミュレーションを行い,金属膜を成膜する際の膜厚パラメータに関する指針を得た.電子線直描法とリフトオフ法を用いて,230 nm x 230 nmの矩形のサブミクロン開口を製作した.ピエゾ抵抗型カンチレバー上に接着した蛍光ビーズを用いて開口をスキャンしたところ,開口近傍において励起光が局在していることがわかった.これにより,製作した開口による励起光場が局所化していることが示唆された.製作したサブミクロン開口基板に細胞培養のための溶液チャンバを組み付け,カイコガ由来の神経細胞を基板上で培養した.培養細胞に興奮性の薬剤刺激を投与した時のカルシウム濃度変化を計測することができることがわかった.これにより,局所領域の神経細胞内イオン濃度変化を複数点で同時に計測可能であることがわかり,本計測方法の有効性が示された.

Fig.1 計測方法の概要.基板下側から励起光を反射し、開口近傍に形成される近接場光により局所励起を行う.

Fig.2 FDTDシュミレーションモデル.モデルの領域は1μm x 1μm x 1μm.セルサイズは5nm x 5nm x 5nm.

Fig.3 FDTDシュミレーションの結果.開口近傍において光強度が集中している.Fig.4では図中のz directionに沿った強度分布をプロットしている.

Fig.4 金属膜厚と光の存在領域の関係.Crを厚くすることにより、励起領域が局所化されている.

Fig.5 サブミクロン開口の製作プロセス.ガラス基板は絶縁体なので、チャージを防ぐために(A)のステップにおいて、レジスト上に導電成膜を成膜する.

Fig.6 製作したサブミクロン開口の写真.230nm x 230n の開口が製作されている.

Fig.7 励起領域評価法の概要.(B)スキャン時の蛍光ビーズ出力をモニタリングする.(C)開口位置の検出はピエゾ抵抗変化を検出することで行う.

Fig.8 励起領域評価に用いたプローブのSEM画像.

Fig.9 励起領域評価実験の結果.(A)カンチレバーを基板に対して近づけたときの出力値変化.(B)(α)における開口上二次元スキャンデータ.(C)(α)、(β)、(γ)におけるスキャンデータのFWHM比較.

Fig.10 細胞計測用サンプル.

Fig.11 サブミクロン開口上の細胞像

Fig.12 複数点における刺激応答計測

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「細胞内局所イオン計測のための近接場励起光源アレイ」と題し,5章からなっている.本論文では細胞内のイオン濃度変化を局所的に計測することを目的として,サブミクロンサイズの開口を多数備えた基板(以下,サブミクロン開口基板)を用いた方法を提案している.各サブミクロン開口は蛍光色素の近接場励起光源として機能する.この基板上に培養などの方法を用いて細胞を直接配置することにより,神経細胞内におけるイオン濃度変化の多点同時計測を行っている.

第1章は「序論」であり,研究の背景と目的,論文の構成について述べている.

第2章「開口の設計と製作」では,サブミクロン開口から放出される励起光の広がりに関して,計算による見積もりを行い,開口製作のための設計指針を得ている.その結果を参考にして,実際に開口の製作を行っている.具体的にはフーリエ光学の手法を用いて,開口のサイズと近接場光発生の関係について計算を行い,開口サイズの必要寸法を求めている.さらに,開口近傍における光強度分布を見積もるためにFinite Difference Time Domain法を用いた光学シミュレーションを行っている.これらの結果,開口のサイズは励起光に使用する波長( = 488 nm)よりも微細にする必要があること,また開口近傍に光強度を局在化するためには,金属膜厚を十分に厚くすることが必要であることが判明している.具体的な数値として,金属膜としてAuとCrの金属膜を用いた場合,それぞれ50 nm程度の膜厚が必要であるという設計指針を得ている.実際のサブミクロン開口の製作には,電子線直描法とリフトオフ法を用いている.直径100 nmの開口アレイを,膜厚がそれぞれ100 nm,60 nmであるCr/Au金属膜上に製作しており,サイズと遮光性の両面において,近接場光源として機能することが可能な開口を製作している.

第3章「励起領域サイズの評価」では,サブミクロン開口から放出される光の開口近傍における光強度分布を実験的に評価している.プローブ要素としてピエゾ抵抗カンチレバー先端に蛍光ビーズを接着したものを利用し,このプローブで開口表面を走査して光強度分布を計測する方法を提案している.評価に使用した開口のサイズは300 nm x 300 nmであり,蛍光ビーズの直径は500 nmのものを使用している.プローブ・基板間の距離検出のために,カンチレバーの歪を検知することによる蛍光ビーズと基板の接触検知方法を用いている.表面検出精度の評価を行うために,プローブをサブミクロン開口基板に対して垂直方向に降下させ,そのときのカンチレバー出力値変化を検出している.その結果から,開口表面の検出を5 nm程度の精度で行えることが判明している.これは,近接場光検出において十分な表面検出精度を持つといえる.このプローブを用いて,プローブ・基板間距離を変えた複数の平面で開口基板表面の走査を行ったところ,距離が1 m程度の領域では励起光の検出強度が極めて小さく,距離が230 nm程度の近接領域に至って検出強度が明確なピークを持つことが確認されている.最も開口表面に近接した距離として,34 nmの位置での走査を行っており,近接場光の存在する領域範囲における走査を実現できているといえる.これらの計測結果を用いて開口表面から垂直方向の光強度分布の局所性を評価したところ,光強度が開口からの距離に対して指数関数的に減衰する傾向が得られている.さらに,そのときの減衰距離は500 nm程度であることが判明している.この結果は,開口から垂直方向に関して,蛍光励起領域がサブミクロン領域に局所化可能であることを示している.また,プローブ・基板間距離が34 nmの位置における走査平面データの光強度プロファイルの半値幅を評価し,光強度場が開口を中心とした直径700 nm程度の領域に局所化されていることが判明している.これらの結果は,製作したサブミクロン開口によって,サブミクロン領域に蛍光励起領域を局所化可能であることを示している.

第4章「神経細胞蛍光計測実験」では,第2章で製作したサブミクロン開口を用いて神経細胞の応答計測を行い,サブミクロン開口基板の神経細胞蛍光計測への適用可能性を評価している.実験には開口のサイズが200 nm x 200 nm,開口の間隔が2 mのサブミクロン開口基板を使用している.計測対象の神経細胞として,カイコガサナギの脳細胞を使用している.基板上に配置した細胞とオーバーラップした開口から発生した蛍光の計測を行ったところ,高濃度カリウムイオン刺激に同期した蛍光応答を計測することに成功している.この結果から,サブミクロン開口基板による,多点同時計測が実現可能であるということができる.

第5章「結論」では,本研究で得られた成果とその結論を述べ,考察を加えている.

以上のように,サブミクロン開口近傍の光強度分布を計測することにより,開口近傍における光強度場の局所性についての評価をおこなっている.これにより,蛍光励起領域をサブミクロンサイズに局所化可能であることが示唆されている.さらにデバイスの神経細胞計測への適用可能性を評価するために,実際に神経細胞の蛍光計測を行うことで,多点同時神経応答計測の実現可能性を示したといえる.本論文では工学的な手法を用いて実現したデバイスを用いて,生物学的な神経計測の有効な手法を提案できたといえ,知能機械情報学の発展に貢献したものである.

よって本論文は博士(情報理工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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