学位論文要旨



No 121680
著者(漢字) 長谷川,淳
著者(英字)
著者(カナ) ハセガワ,ジュン
標題(和) 網膜外網状層における伝達物質拡散のダイナミクス
標題(洋)
報告番号 121680
報告番号 甲21680
学位授与日 2006.04.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(心理学)
学位記番号 博人社第532号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 立花,政夫
 東京大学 教授 佐藤,隆夫
 東京大学 教授 高野,陽太郎
 東京大学 助教授 横澤,一彦
 東京医科歯科大学 教授 田中,光一
内容要旨 要旨を表示する

 人間の精神活動を支える神経系の働きを生理学的に解明するアプローチは、精神活動を機能的に分割して心理学的に測定するアプローチと古くから共存してきた。神経系は無数の組織的な単位に分かれた複雑な神経回路網を構成している。この複雑な回路網が刺激から反応までの間にある情報処理を速やかに行うために、神経系の中で働く神経細胞同士の信号伝達は、それぞれに遅滞なく効率的に行われていると考えられる。

 本論文では、視覚系の最初の神経連絡部位における情報伝達に関して、生理学的実験と数理学的シミュレーションを行い、視覚情報の時間的解像度を上げる仕組みについて研究した。本論文は4章から構成され、第1章では神経間の情報伝達、とりわけ伝達物質の拡散と回収について概観した。第2章では本論文で用いた具体的手法とその特徴を述べた。第3章では一連の生理学的実験によって得られた結果とそれに基づく数理学的シミュレーション結果を記述した。第4章ではこれらの実験から得られた新知見について総合考察を行った。

 第1章では、シナプス伝達に関する基本的知見を概観し、これまであまり顧みられてこなかった伝達物質の拡散と回収について、その重要性を指摘した。シナプスとは、ある神経細胞(シナプス前細胞)から次の神経細胞(シナプス後細胞)に信号を伝達するための構造である。この部位の細胞間のすき間をシナプス間隙と呼ぶ。シナプス前細胞は興奮すると、軸索終末部の放出部位からこのシナプス間隙に伝達物質を放出する。伝達物質はシナプス間隙の液中を拡散して、シナプス後細胞の樹状突起に発現している受容体に到達する。この受容体が伝達物質に対して反応することで、信号伝達が行われる。中枢神経系における多くの興奮性シナプスはグルタミン酸が伝達物質であるため、グルタミン酸作動性シナプスに関して多くの研究がこれまでになされてきた。特にシナプス伝達の性質を決定する要因の中でも、シナプス前細胞がグルタミン酸を放出するための機構や、シナプス後細胞のグルタミン酸受容体の種類や性質については、非常によく研究されてきた。しかしながら、その間の過程、すなわち放出されたグルタミン酸がシナプス間隙を拡散する過程は極めて重要であるにも拘らず、未知の部分が多く残されている。

 グルタミン酸トランスポーターと呼ばれるタンパク質分子は、グルタミン酸を細胞内に取り込む働きを持つため、シナプス間隙におけるグルタミン酸の拡散に影響し得る存在として近年注目を集めている。グルタミン酸トランスポーターがシナプス間隙からグルタミン酸を速やかに除去すれば、シナプスにおける信号伝達の遅延を防ぐことが出来るため、結果的に神経系による情報処理の時間性能を改善すると期待される。

 そこで、本研究では特に、グルタミン酸の放出量が多いとされる網膜視細胞の桿体と、そのシナプス後細胞である桿体入力型双極細胞との間のシナプスに着目した。グルタミン酸の放出量が多いということはすなわち、シナプス間隙にグルタミン酸が残留し、シナプス伝達の遅延が起こりやすいことを示唆するからである。さらに、桿体入力型双極細胞の樹状突起にあるmGluR6というグルタミン酸受容体は、グルタミン酸と反応すると桿体入力型双極細胞を抑制し、逆にグルタミン酸が無くなると興奮させる。つまり、桿体―桿体入力型双極細胞間のシナプスでは、シナプス間隙におけるグルタミン酸が除去されなければ信号が伝達されない。本研究では、このシナプスにおける信号伝達の時間特性に対するグルタミン酸トランスポーターがどの程度、またどのように貢献するのかを調べた。グルタミン酸トランスポーターはグルタミン酸との結合速度は速いものの、その後グルタミン酸を細胞内に回収する速度が遅い。このため、大量のグルタミン酸をシナプス間隙から除去するためには、大量のグルタミン酸トランスポーターが放出部位の近くに発現しているのではないかと予想された。

 第2章では、本研究で適用した手法について解説した。生理学的実験を行う標本として、マウス網膜のスライス標本を用いた。この動物種では遺伝子操作動物を利用できるという利点があるためである。グルタミン酸トランスポーターのサブタイプは網膜では4種類知られており、これらはそれぞれ細胞特異的に発現している。サブタイプを特異的に阻害することによって、グルタミン酸の放出部位の周辺にあるどの細胞に発現しているサブタイプがシナプス伝達に関与しているかを検討することが出来る。しかし、現在のところ4種類のサブタイプのうち1種類しか特異的に阻害する薬剤は開発されていない。そこで本研究では、特定のサブタイプの遺伝子を欠損させた遺伝子操作マウスを用いて野生型と比較した。また、生理学的実験ではどの神経細胞のグルタミン酸トランスポーターがシナプス伝達に関与しているかを明らかにすることが出来るが、放出部位からの具体的な距離などの詳細な分布までを明らかにすることは出来ない。この解決策として数理学的シミュレーションを行うことの利点と、その具体的方法について解説した。

 第3章1節では、生理学的実験について記述した。強い光刺激によって桿体からの自発的なグルタミン酸の放出を抑制した状態で、桿体をごく短い時間電気刺激し、グルタミン酸を一瞬だけ放出させた。このときの桿体入力型双極細胞の応答を電気生理学的手法によって記録し、桿体―桿体入力型双極細胞間のシナプスにおける信号の伝達特性を定量化した。

 まず、薬理学的にグルタミン酸トランスポーターを阻害したところ、桿体入力型双極細胞の応答は顕著に長引くようになった。これは、グルタミン酸トランスポーターがグルタミン酸を速やかに除去することで、桿体入力型双極細胞の応答を素早く終了させることを示している。このことから、グルタミン酸トランスポーターが確かにこのシナプスにおける時間解像度を上げることが明らかになった。

 次に、グルタミン酸トランスポーターの働きをサブタイプ特異的に阻害したときの効果を調べた。桿体のもう一つのシナプス後細胞である水平細胞にあるサブタイプ、あるいは、神経細胞の周囲を取り巻くグリア細胞であるミューラー細胞にあるサブタイプを遺伝子操作によって欠損させても、桿体−桿体入力型双極細胞間のシナプス伝達特性は野生型マウスと変わらなかった。また、もう一つの視細胞である錐体に発現しているグルタミン酸トランスポーターのサブタイプを特異的に阻害する薬物を投与しても、このシナプスの伝達特性は変化しなかった。これらの結果から、水平細胞、ミューラー細胞、錐体にあるグルタミン酸トランスポーターのサブタイプは、いずれも桿体―桿体入力型双極細胞間のシナプス伝達に重要ではないことが明らかになった。

 グルタミン酸トランスポーターがグルタミン酸を取り込むとき、共役した陰イオンチャネルを介して陰イオン電流が流れる。そこで、シナプス前細胞である桿体とシナプス後細胞である桿体入力型双極細胞にそれぞれグルタミン酸を投与し、陰イオン電流が流れるか否かを調べた。この結果、桿体入力型双極細胞の樹状突起ではなく、桿体の軸索終末部にグルタミン酸トランスポーターが存在することが明らかになった。ここまでの生理学的実験の結果により、桿体―桿体入力型双極細胞間にあるシナプスの時間解像度を上げているのは、主に桿体の軸索終末部に発現しているグルタミン酸トランスポーターであることが明らかになった。

 第3章2節では、三次元的に桿体―桿体入力型双極細胞間のシナプスのモデルを構築し、数理学的シミュレーションによってグルタミン酸の拡散を計算した。このとき、第3章1節における生理学的実験から得られた結果を再現するようパラメータを調整することで、グルタミン酸トランスポーターの空間配置を詳細に定量化した。この結果、グルタミン酸トランスポーターはグルタミン酸の放出部位周辺に物理的な上限に近い程の高密度で発現していることが示唆された。さらに、このようにグルタミン酸トランスポーターが発現している場合、桿体は放出したグルタミン酸を殆ど全て自らの細胞内に回収出来ることが示された。

 第4章では、総合考察を行った。本研究では遺伝子操作マウスを利用することによって、従来の薬理学的手法のみでは実現し得なかったグルタミン酸トランスポーターの空間配置の絞り込みに成功した。この結果、シナプス後細胞やグリア細胞ではなく、主にシナプス前細胞にあるグルタミン酸トランスポーターがシナプス間隙のグルタミン酸を除去していることが明らかになった。ごく最近までシナプス前細胞に存在するグルタミン酸トランスポーターが同定されていなかったこともあって、シナプス前細胞のグルタミン酸トランスポーターがシナプス伝達に影響するか否か不明であった。本研究はシナプス前細胞のグルタミン酸トランスポーターの機能的重要性を示した数少ない実例であり、非常に重要である。

 また、本研究では数理学的シミュレーションを併用することにより、シナプス前細胞のグルタミン酸トランスポーターがグルタミン酸の放出部位の近傍に、大量に発現していることを明らかにした。免疫組織化学的手法を用いても、グルタミン酸トランスポーターの発現位置を細胞レベル以下の解像度で定量化するのは難しい。シミュレーションによるアプローチは、直接観察不可能な伝達物質拡散のダイナミクスを定量化する有力な手法として、今後も重要になると考えられる。

 最後に、桿体のグルタミン酸トランスポーターが放出されたグルタミン酸を殆ど全て自らの細胞内に取り込むことが示唆された。光強度の変化に対してアナログ的な応答をする桿体は、常にグルタミン酸を放出し続けなければならない。軸索終末部に発現しているグルタミン酸トランスポーターは、持続的に放出されるグルタミン酸を再利用するための効率的なシステムを構築しているという新知見が得られた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、視覚情報が高い時空間解像度で処理される神経機構の基本となる仕組みについて実験的に研究したものであり、全4章から構成されている。

第1章では神経細胞間の情報伝達について概観している。情報の伝達部位であるシナプスに関して、シナプス前細胞での伝達物質放出機構や、シナプス後細胞での応答発生機構については知見が集積されているが、シナプス間隙における伝達物質の拡散と回収については十分に解析されていないという現状を明らかにする。視細胞は光強度に応じて伝達物質であるグルタミン酸を大量に持続的に放出する性質があり、また、シナプス後細胞であるオン型双極細胞はグルタミン酸の減少によって興奮する性質があるため、シナプス間隙にグルタミン酸が貯留しないような機構、すなわち、グルタミン酸トランスポーターによる回収が重要であろうと予測される。そこで、網膜の桿体視細胞と桿体型(オン型)双極細胞間のシナプスにおけるグルタミン酸トランスポーターの機能と空間配置の解明に研究の焦点を絞っている。

第2章では実験の具体的な手法とその特徴を述べている。実験にマウスを用いたのは、グルタミン酸トランスポーターのサブタイプを遺伝子操作技術によって欠失させたマウスが利用できるからである。また、生理実験のみでは細胞におけるグルタミン酸トランスポーターの配置を特定することができないので、シナプスの三次元モデルを構築してグルタミン酸の拡散をシミュレートし、生理実験の結果と対応させることによってこの問題の解決を図ることが述べられている。

第3章では一連の生理実験によって得られた結果とそれに基づく数理学的シミュレーション結果を記述している。精緻で巧妙な生理実験によって、桿体視細胞から放出されたグルタミン酸は、桿体視細胞自身に存在するグルタミン酸トランスポーターで回収され、シナプス後細胞や周囲にあるグリア細胞のグルタミン酸トランスポーターは関与していないことを証明した。モデルシミュレーションから、桿体視細胞におけるグルタミン酸放出部位の近傍にグルタミン酸トランスポーターが極めて高密度で発現していることが強く示唆された。

第4章では生理実験やシミュレーションから得られた新知見について総合考察を行っている。時空間解像度を低下させずに視覚情報を伝達する一つの要因として、視覚系の最初のシナプスを構成している桿体視細胞自体に高密度にグルタミン酸トランスポーターが発現していることが必要不可欠であることを明らかにしている。

本論文は、視覚情報処理の基本となるシナプス伝達にシナプス前細胞に発現する伝達物質回収機構が極めて重要であることを見事に証明しており、神経系における情報伝達一般に関しても多大な貢献をしている。本審査委員会は、本論文が博士(心理学)の学位を授与するのにふさわしいものであるとの結論に達した。

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