学位論文要旨



No 121681
著者(漢字) 伊川,健二
著者(英字)
著者(カナ) イガワ,ケンジ
標題(和) 大航海時代の「三国」世界
標題(洋)
報告番号 121681
報告番号 甲21681
学位授与日 2006.04.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第533号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 藤田,覚
 東京大学 助教授 六反田,豊
 慶應義塾大学 助教授 浅見,雅一
内容要旨 要旨を表示する

 本稿が主として考察の対象にする時期は15〜16世紀であり、地域は北東アジアから東南アジア、南アジアである。「大航海時代」、「三国世界」は、それぞれ上記の時期、地域を表現する言葉として用いている。従来ヨーロッパの東漸を示する用語であった「大航海時代」を、それ以前から当該領域に存在した多国間通交の実態を表わす言葉として使用した。また、「三国」は、いわゆる本朝・震旦・天竺で、本稿においてはインド以東のアジアを指す概念とする。

 15〜16世紀のうち、15世紀は海禁秩序が比較的保たれていた時期ということができる。その意味で夷船通交は、海禁秩序と同義であった。本稿の前半部を使船の考察にあてているのは、この事情による。そのなかにも、夷船通交が海禁秩序の枠外に拡大していく条件が萌芽している。後半では拡大後の夷船通交の実態について考察する。

 第1部 室町幕府と遣外使節では、朝鮮半島におけるいわゆる前期倭寇が終息した15世紀を中心に、適宜前後の時期を見通しながら、使船の往来をめぐる制度に重点を置いた考察をしている。第3章冒頭で述べているように、当該期における夷船は、ほぼ使船に限定されるためである。明の海禁秩序下における公式外交ルートである使船往来のなかに、第2部での展開を予感させる諸要素の萌芽をみることができる。

 第1部第1章 室町幕府の外交奉行では、室町時代の対外関係史を説き起こすにあたり、未解明な部分の多い、政所執事伊勢氏を含めた幕府奉行人層の外交関与について、必要に応じて幕府論に踏み込みながら具体的に考察した。第2章 諸国王使をめぐる通交制限では、第1章が幕府内部を考察したものであるのに対し、大内氏、九州探題など、外国使節の来日時に応対をする諸勢力について整理した。明・朝鮮における使節受入態勢も合わせて整理をし、その比較のなかで、正式の外国使節をも時として拒絶、もしくは拒絶しようとする日本の特異性を明らかにした。第3章 中世後期における外国使節と遣外国使節では、15世紀後半以降、外国使節の来日は途絶する前後の事情を考察する。来日途絶の原因を幕府財政の窮乏に求め、またその結果、日本情報の海外流出の機会が減少したことが、日本の遣外使節派遣に与えた影響について考察した。それまで畿内を中心としていた遣使準備の拠点が、九州に移され、細川氏もその動きに積極的に関与していたことを明らかにした。あわせて、一五世紀前半にパレンバンから来日した南蛮船は、琉球を経由し、その対東南アジア通交開始の契機となった可能性を指摘している。

 第2部 使船から夷船へでは、15世紀後半から16世紀前半の日本を中心に、海禁秩序の枠組みがいわば換骨奪胎されていく事情を考察した。外国使節の来日が途絶えたことで、明の監視から自由となり、海禁秩序のグレーゾーンとなった日本において、さまざまな仕組みに変化が起こる。渡航証明書である勘合の管理が弛緩・流通し、船団の運航と切り離され利権化する。時として盗難にあう事件すら起こる。そして使節が仕立てられる。その使節に対抗する使節も仕立てられる。その中には倭寇に近い性質をもつ使船すら登場する。海禁秩序から事実上離脱したとすら位置づけられるこうした情勢にあって、はじめてポルトガル船との持続的交易も可能となる。夷船通交と呼ぶにふさわしい多様な通交形態が、なぜ日本においてのみ可能であったのか。その条件を考察する。第1章 『戊子入明記』に描かれた遣明船では、従来史料論的考察が十分にされてこなかった『戊子入明記』が、天与清啓らの使節に先立つ3件の使節の先例を記した史料群と、清啓らの使節の関係史料群からなることを明らかにし、その前後で遣明使節派遣態勢が大きく変革したことを指摘した。商人の役割が拡大するにつれ、彼らの要求に従い、勘合の発給時期が早められ、管理の弛緩につながった。第2章 倭寇的遣明使節では、鉄砲伝来をめぐる研究のなかで疑問視されることが多い「鉄炮記」を再評価した上で、そのなかに現われる三艘の遣明船団の具体像を確定する。その上で同時期の史料を精査した結果、当該遣明船団は、勘合盗難により組織された「堺唐船」の動きを牽制する目的で、派遣が急がれたと位置づける。この船団はまた、倭寇の出身地として指摘されている地域を背景に成立しているのみならず、研究史が明らかにしているように、倭寇の頭目たる王直を同行した。倭寇的遣明使節である。第3章 日欧通交の成立事情では、第2章において「鉄炮記」について詳細に検討したが、ここでは従来の研究史が問題としなかった角度から、ポルトガル人の日本初来について考察する。明を中心とした放射線状の使節往来のみを正規の外交関係とする海禁秩序のなか、なぜポルトガル人は日本を訪れたのみならず、継続的な貿易・布教活動を確立できたのか。本章では、第1部・第2部の議論を前提に、また16世紀前半の国際事情を考察することで、日本が事実上海禁秩序から離脱していたと位置づけ、そのことが日葡関係成立の条件であったと結論づける。

 第3部 夷船通交の成立では、第1部、第2部の事情により、日本は三国世界へ夷船通交を拡大する条件を整えた。第3部ではその具体的展開について考察する。当該地域には、ポルトガル及び、ポルトガルの支援を受けたイエズス会が積極的な進出を図っていた。ところが、16世紀半ば以降、スペインの影響が散見し、やがてルソン攻略に至る。また東南アジア=日本航路における倭寇の存在も看過できない。これらの要因が、三国世界の通交ルートにどのように作用したかについて考察する。第1章 フィレンツェ国立文書館所蔵史料にみえる大航海時代点描では、同文書館が所蔵する1558年2月13日付フランシスコ・ヴィエイラ書簡の背景を考察することで、三国世界規模で推移する航路開拓の動きを探る。第2部第3章において検討したとおり、東南アジアから日本への航路は、中国島嶼部経由を基本としていた。ヴィエイラが書き記した新航路は、香料諸島テルナテ島から日本へのルートである。第2章 スペインのアジア戦略と三国世界。スペインがマニラを占領し、アジア進出の拠点を確立した1560〜70年代の三国世界を、フロイス『日本史』、フィリピン関係文書、倭寇史料をもとに考察する。当初スペインは日本・琉球攻略計画を、日本はフィリピンで倭寇活動をするものの、80年代には終息する。また、フィリピンとマルク諸島との間に航路が確立されていたことから、前章で紹介したヴィエイラ書簡における、マルク・日本間の航路がフィリピンを経由したものである可能性が高いことが確認された。当該期の船には、イスラム教徒が同乗することも多く、マルクを含めたイスラム商人による交易圏の一端が表われている。第3章 天正遣欧使節とアレッサンドロ・ヴァリニャーノでは、豊富な研究の蓄積にもかかわらず、分析的に論じられる機会の少なかった天正遣欧使節を、行程、往復書簡、派遣計画の推移の3点に沿って整理、考察をした。往復書簡の一例として、未紹介と思われるトスカーナ大公宛伊東マンショ書簡の翻刻、翻訳を試みた。一行の行程をあわせて考えると、将来的にはミラノ、ジェノヴァでも類例が確認される可能性を示唆する一例といえる。遣使計画は、事実上インドを起点としており、ヨーロッパ諸侯から一行への贈物もインド副王宛と認識されている。したがって遣使計画は、日本・インド間の往復とインド・ヨーロッパ間のそれとをわけて考える必要があると指摘した。

 研究分野の細分化が進んだ従来の研究のなかで、同一の地平で論じられることのなかった海禁秩序とヨーロッパの東漸の、包括的な理解を試みた。日本は形式的には、明を中心とする海禁秩序の一員であり続けながら、徐々に換骨奪胎し、16世紀に至って事実上離脱する。本来は通交が許されるはうはなく、琉球、朝鮮とは実現しなかった対欧関係が、日本において持続的に成立した原因を、ここに求めることができる。一方、スペインによるマニラ攻略以前に、現地において交易をしていたことに顕著であるように、琉球とならんで日本は東南アジアへの交易ルートを拡大していた。そのなかでムスリム商人とも交易していた事実は、イスラム圏における関係史料の存在の可能性を示唆するもので、研究の深化が期待される。多様な史料による多様な現象の理解を課題のひとつとした本稿においても充分に検討が至った点とはいえず、内陸アジア地域との交渉の可能性とともに、今後の課題としたい。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文のタイトルにある「大航海時代」とは、ヨーロッパ史の文脈における15世紀末以降の新大陸・アジア進出のみを指すのではなく、それ以前よりアジア内部で機能していた海上交通ネットワークをも含めて再定義されたものであり、「「三国」世界」とは天竺・震旦・本朝からなるが、天竺にシャムと仮名を振る用法の存在が示すように、東南アジアをも含めた空間を指している。こうして設定された時間・空間のなかで、本論文は、明中心の海禁秩序のもとで、諸国国王と明皇帝、あるいは諸国国王間での通交が唯一合法的とされていた16世紀前半までの段階から、海禁秩序の外側にヨーロッパ勢力をも含めた新たな通交者があいついであらわれ、海上交通ネットワークを著しく変貌させるに至った16世紀なかば以降の段階への移行を、日本・中国・朝鮮・ヨーロッパ諸国に残された多様な史料を駆使して、再構成しようと試みる。

 従来の研究では、遣明使や後期倭寇をキーワードとして、海禁秩序の成立と崩壊を、漢文史料を中心に扱う流れと、ヨーロッパの登場によるアジアへのキリスト教伝播や「世界史」への組み入れを、欧文史料を中心に扱う流れとが併存し、両者を統一した歴史像が編み上げきれていなかった。著者は、日本史学専門分野に身を置いて遣明使節や遣明船貿易の研究から出発しつつ、独力で海外調査をくりかえして欧文史料の探索を行い、二つの流れを合わせたアジア史像の構築に果敢に挑戦した。まだ欧文・漢文史料の読解力は十全とはいえないが、その激動と混沌ゆえに研究が遅れがちであった16世紀アジア史に、「夷船通交」(海禁秩序に沿った船もそこから外れた船も包含する対中国通交)という観点を導入して、一つの筋を通した点は、大きな成果といえる。

 具体的な成果として評価すべき点をいくつか挙げよう。まず、遣明船貿易の基本史料でありながら充分な史料学的検討が行われていなかった「戊子入明記」をとりあげ、その内部構造や現状に至るまでの来歴に説得的な説明を付与し、同記冒頭の二つの文書を遣明船の予算案として位置づけたことである。つぎに、ポルトガル人の日本初来と微妙にからむ1540年代のいくつかの遣明船を、一船団に属する三艘の船が別の史料上にばらばらに捉えられたものとして関連づけ、前述の第一段階から第二段階への移行の核心部に位置づけたことである。さらに、明の沿岸島嶼群と日本列島とが、海禁秩序から外れた空間として共通性をもつという示唆に富む指摘を行っているが、この点については、欧文史料を本格的に用いた東南アジア−日本・琉球間交通の再構成とあわせて、今後の研鑽に期待すべき部分が多い。

 以上のように、本論文は、多言語史料を駆使しなければ描ききることのできない時代と地域の歴史像を提出することに果敢に挑み、その扉を推し開いた業績である。問題の大きさと困難さから、本格的な成果を出すまでには、なお弛みない研鑽と多大な時間を要するであろうが、著者のこれまでの歩みと本論文の達成は、それを期して待つのに充分なものがある。

 以上より、本委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授与するにふさわしい優れた業績として認めるものである。

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