学位論文要旨



No 121682
著者(漢字) 細川,武稔
著者(英字)
著者(カナ) ホソカワ,タケトシ
標題(和) 中世の寺院と室町幕府
標題(洋)
報告番号 121682
報告番号 甲21682
学位授与日 2006.04.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第534号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村井,章介
 放送大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 藤田,覚
 史料編纂所 教授 榎原,雅治
 史料編纂所 教授 山家,浩樹
内容要旨 要旨を表示する

 本書は、中世の寺院の実態を明らかにするための一つの試みである。切り口の一つが仏教・寺院と国家の関係であり、寺院と室町幕府の関係を具体的に分析する。

 第一部「室町幕府による仏教界編成」は、室町幕府の側に立ち、多くの宗派、寺院、僧侶を幕府がどのような枠組でとらえ、編成していたかを分析するものである。

 第一章「足利将軍家護持僧と祈祷」では、幕府と関わる僧侶の中で将軍に最も近い存在だと思われる護持僧について、その基本的な役割と構成を中心に分析を行った。先行研究では、初期の護持僧は五壇法勤修と不可分の関係にあるとされているが、当時の五壇法は定期的に行われていたわけではない。護持僧本来の役割は、月ごとに番を編制して将軍御所で行う祈祷であり、その内容は北斗法・百座北斗供・百座不動供・不動護摩といったものであった。また、付属的な役割として加持があり、主として正月八日の将軍御所参賀の際に行われた。護持僧の構成は、山門・寺門・東寺の三流からなるが、山門の三門跡(青蓮院・妙法院・梶井)は補任されないという点が天皇護持僧との違いである。人数は義満期から義持期までは6人、義教期には12人に増加し、その後減少しながらも幕府末期まで存続した。これらの護持僧を統括したのが「護持管領」に任じられた三宝院門跡で、祈祷の担当月を交換する際の調整にあたったりした。

 第二章「禅宗の祈祷と室町幕府−三つの祈祷システム−」では、禅宗も国家祈祷の一翼を担ったという先行研究の指摘を受け、それがどのようなシステムで行われていたのか分析した。従来幕府との結びつきが強調されてきたのは五山官寺機構だが、それによってすべての祈祷が担われていたわけではなかった。官寺機構に先行して将軍家の祈願寺が全国的に展開しており、三代将軍義満の頃、祈願寺体制を吸収する形で官寺機構による祈祷システムが構築された。官寺機構は、朝廷との関係が深い南禅寺を頂点とし、天皇のための祈祷を行うことも意識されていたため、幕府が朝廷の権力を吸収した後は公武統一政権の祈祷システムとなるべきものであった。ところが、同じ義満によって創建された相国寺を中心とする足利氏ゆかりの寺院が、祈祷システムの中心として機能するようになった。この相国寺中心の体制は、相国寺自身が五山第二位に列していたように、官寺機構を完全に逸脱していないところにその特徴がある。祈祷を統括したのは鹿苑僧録と蔭凉職で、将軍の側近ともいうべき後者が中心的役割を果たした。

 第三章「室町幕府年中行事書にみえる僧侶参賀」では、将軍御所への参賀の場に登場する寺院・僧侶について分析した。年中行事書に記されたのは義政・義尚期の様子で、顕密については、従来から武家と関係が深かった寺門派・東寺流を中心とする護持僧と、山門派の三門跡は年始の参賀の日が別々に設けられた。禅宗で参賀を行ったのは足利氏ゆかりの寺院を中心とした御相伴衆で、五山の住持ではない。その他の諸宗では律宗が比較的重視されて浄土宗もその範疇としてとらえられ、時宗の地位は低く、法華宗は排除された。将軍の代ごとに変遷をたどると、義持期に護持僧・門跡をはじめ参賀の大枠が固められ、それが義教期に継承された。義教期には年始の顕密の参賀はほぼ正月十日に集中し、禅宗では様々な寺院から参賀があった。これが義政期になると、顕密では年始の参賀の式日が細分化したのに対し、禅宗では御相伴衆が完全に参賀の中心となった。内裏への参賀と比較すると、顕密はあまり変わりがないが、禅宗では御相伴衆の内裏への参賀はなく、幕府が禅宗を独自に編成していたことがわかる。

 第四章「足利将軍家祈願寺の諸相」では、鎌倉時代の関東祈祷寺に倣ったと考えられる足利将軍家の祈願寺について、その基本的性格、確立過程と変遷などについて分析した。祈願寺の基本的な機能は、将軍家・幕府のために長日祈祷・定例祈祷を行うことで、認定は将軍の御判御教書で行うのが原則であった。認定にともなう特権の中で寺院側に最も重視されたのが寺領安堵で、幕府に不都合な面もあったので、義持は祈願寺認定と寺領安堵を切り離そうと試みたが、うまくいかなかった。祈願寺の宗派は顕密系・臨済禅が多いが、曹洞宗・律宗・浄土宗・法華宗など多岐にわたり、全国的に広く展開する可能性を有していたが、まず鎌倉府管轄国内の寺院の認定が行われなくなり、やがて京都とその周辺に集中する傾向が見られるようになった。

 第二部「京都の寺院と室町幕府」は、特定の寺院や空間の側に立って室町幕府との関係を明らかにしようとするものである。幕府が京都に置かれたという点を重視し、寺院と幕府の関係が中世都市京都の構造に与えた影響も考える。

 第一章「足利氏の邸宅と菩提寺−等持寺・相国寺を中心に−」では、幕府と最も関係が深いと思われる将軍家の菩提寺について分析した。等持寺は、尊氏の御所でもあったという説があるが、実際には尊氏の弟直義の邸宅に付属する寺院として創建されたもので、その頃尊氏は東山の常在光院に隣接する御所に住んでいた。直義の失脚後、尊氏・義詮父子が等持寺を整備し、将軍家の菩提寺として位置付けたのである。義詮は等持寺のそばに三条坊門殿を造営して住み、直義邸跡には将軍御所の鎮守として八幡宮が創建された。義満が室町殿に移って相国寺を創建すると、従来等持寺で追善供養仏事として行われていた法華八講が相国寺に移された。相国寺は等持寺よりはるかに大きな規模を持ち、檀那塔の鹿苑院が室町殿の付属寺院ともいうべき性格を与えられた。義持が三条坊門殿に移住した後は、法華八講を行う等持寺、将軍・公方の塔所が設けられる相国寺というように、二つの菩提寺がそれぞれの役割も持って存続した。また、室町殿・相国寺の空間は、一条大路に面する門によって境界が明示されていたが、補論「中世五山禅院の外門」において、禅院の三つの門の中で最も外側に位置する外門が、この空間の構築に大きな役割を果たしたことを述べた。

 第二章「北山と北野−義満の構想−」では、義満が将軍職を子の義持に譲ってから移住した北山殿を中心とする空間について分析した。北山殿の時代は約10年間に過ぎないが、幕府の権力の絶頂期であり、寺院と幕府の関係を考えるためには避けて通ることはできない。この空間も、室町殿・相国寺の空間と同じく一条大路を境界としていたが、規模はさらに大きくなり、東には足利氏が深く信仰する北野社、西には足利氏の墓所等持院を中心とする空間を従えていた。義満は北野社参籠や北野万部経会の聴聞などを頻繁に行い、北山に住坊を構えた諸門跡もこれに随行したため、北山と北野は強く結びつけられた。義満死後、義教・義政期には北山の寺院から北野万部経会に向かうことが年中行事化され、二つの空間の関係が維持された。

 京都の中で東山は特に寺院が密集する地域であったから、ここにあった寺院と幕府の関係を考えることは重要である。まず第三章「清水寺・清水坂と室町幕府」では、京都で最も有名な寺院といえる清水寺を採り上げた。幕府は慈心院という院家を将軍の御師とし、祈祷を行わせることによって清水寺と直接結びついた。また、幕府と関係の深い禅宗と律宗が清水寺とその門前に入り込んだことが注目される。京都の五山・十刹で行われていた観音懺法のうち、五山之上南禅寺の分が清水寺で行われており、幕府が清水寺を観音霊場の最高峰と見ていたことがわかる。さらに、義詮の子千寿王丸の菩提所として宝福寺という禅宗寺院が清水寺門前に創建され、将軍の清水寺参籠の際宿所とされた。清水坂にあった清水寺領に創建された神護寺(水堂)は法勝寺系の律宗寺院で、将軍の御成を受けたり、幕府のために祈祷を行ったりした。

 第四章「東岩蔵寺と室町幕府−東山の廃寺考−」では、南禅寺東の山中にあった東岩蔵寺について分析した。観勝寺と同一の寺院とする説があるが、鎌倉後期に東岩蔵寺を中興した大円上人が同寺に移る前に住したのが観勝寺で、清水寺の北側にあった。大円は醍醐寺金剛王院実賢から金剛王院流と三宝院流を受法し、岩蔵流を創始した。東岩蔵寺は岩蔵流の本寺で、観勝寺のほか崇徳院の霊地光明院を末寺とした。幕府開創期に将軍家祈願寺とされた東岩蔵寺には、尊氏の像と遺骨が納められ、菩提寺に準じる扱いを受けた。さらに義満とその側室西御所の帰依を受けた良日上人が寺内に真性院を創建したことにより大きく発展し、将軍の加持を行ったり将軍御所へ参賀を行うなど幕府との結びつきを強めた。

 本書において検討した幕府による仏教界編成は、将軍家護持僧の構成や相国寺中心の体制などに見られるように、限定的なものであった。これは、公武統一政権としての幅広い編成に対して、武家の独自性が現れたものと考えられる。地域的にも京都中心という限定が見られ、結果として京都の寺院の重要性が高まった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、中世の寺院のあり方を室町幕府との関係から考察したものである。中世の権力と仏教との関係については、黒田俊雄氏による顕密体制という学説があって大きな位置を占めてきたが、それが最も弱点を有する中世後期のあり方を検討し、説得的な宗教体制論を築こうと試みている。

 第一部では、「室町幕府による仏教界編成」と題して、将軍家の祈祷を担った護持僧の存在を浮かび上がらせ、禅宗による幕府の祈祷について三つのシステムを明らかにし、幕府儀礼における諸宗派寺院の僧侶の役割を示し、さらに将軍家の祈願寺の性格とその特質を摘出するなど、多方面から室町幕府の仏教政策を明らかにしている。

 第二部では、「京都の寺院と室町幕府」と題して、寺院の空間的配置の意味づけという観点から、寺院と室町幕府との関係を捉えようと試みる。まず将軍家の邸宅と深い関わりのある等持寺・相国寺に注目して、幕府御所と将軍家菩提寺との位置関係のもつ政治的意義を考察し、続いて足利義満によって開かれた京都の新都心ともいうべき北山の空間構成を解明し、さらに東山に建てられた清水寺周辺の禅律院や東岩蔵寺というほとんど知られていなかった寺院を新たな史料の発掘によって浮かび上がらせる、などの作業によって、幕府と寺院の関係に新たな視点から鋭いメスを入れた。

 このように本論文は、権力側からだけでなく寺院側からの視点も取り入れて、室町幕府と寺院との関係やその変遷について基本的な事実を明らかにした点において、また建築史と仏教史の成果を巧みに採り入れながら、文献史料の着実な読み込みによって幕府と宗教との関わりについて総合的な理解を提示した点において、さらにまた埋もれていた史料を丹念に発掘して京都の寺院の様相を明らかにし新たな研究の方向性を示した点において、大きな成果をあげている。

 ただ室町幕府の仏教界編成の全体像という点になると、やや漠然としていて具体性に欠けるが、室町幕府という曖昧な権力のあり方からするとやむをえない面もあり、また史料の読みの疑問点についても、論旨を左右するものではない。

 そこで委員会は、室町幕府と京都の寺院との関わりを解明した本論文の達成が今後の研究に大きな基礎を築いた点を高く評価し、博士(文学)にふさわしい業績と認めることで一致をみた。

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