学位論文要旨



No 121683
著者(漢字) 藪内,聡子
著者(英字)
著者(カナ) ヤブウチ,サトコ
標題(和) 中世スリランカの王権と仏教
標題(洋)
報告番号 121683
報告番号 甲21683
学位授与日 2006.04.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第535号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 下田,正弘
 東京大学 教授 斎藤,明
 東京大学 教授 土田,龍太郎
 東京大学 教授 水島,司
 椙山女学園大学 教授 橘堂,正弘
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、アヌラーダプラ時代、紀元前3世紀の仏教伝来から、15世紀、コーッテ時代頃までのスリランカの仏教史を、史書、碑文資料等を使用し、王権と三宝を視座に論考したものである。スリランカの正史、MahAvaMsaとその続編であるCUlavaMsaは、仏教聖典語のパーリ語で著作されており、仏教学者による研究が必須である。MahAvaMsaはインド仏教史研究にも利用されつつ今日に至るが、殊にCUlavaMsaの及んでいる時代のスリランカ史研究は極めて遅れているのが現状である。この遅れているスリランカ史研究において、仏教史に関して以下のテーマを取り出し、時代的変遷を考察した。

 まずスリランカの王権が仏教的視点からいかに特徴付けられるかについて、第1章「スリランカの仏教王権」で概観したのち、三宝としての仏・法・僧を王権の視点から考察するために、仏として、第2章「王権と舎利」、僧として、第3章と第4章「サンガの分裂と統合」「サンガ組織の変遷」、法として、第5章「教育と著作」という構成で各章を論じた。また仏教学者の研究の焦点からははずれがちであるが、スリランカにとっては現代も重要となっている民族問題の歴史的背景について、第6章「ダミラ人の流入」も設け、ダミラ人の流入に伴いヒンドゥー教が仏教に及ぼした過程を、第7章「仏教とヒンドゥー教の融合」で検討した。

 第1章「スリランカの仏教王権」で考察したのは、仏教に権力の正統性を依拠するスリランカの王権のあり方である。アヌラーダプラ時代の紀元前3世紀、dhammaによる統治というインドの王Asokaの理想を引き継いで確立したスリランカの仏教ではあったが、この理想は、紀元前2世紀、ダミラ王ELAraと戦闘を交わしたDuTThagAmaNIにより覆される。DuTThagAmaNIは島を統合するための大殺戮をもたらした戦士であったが、この戦闘は、個人的なものではなく、sAsanaの確立のためであるとして比丘から免罪される。DuTThagAmaNIの英雄伝は、許される暴力と許されない暴力の区別を可能にする新しい原則を呈示することとなった。ポロンナルワ時代以降、諸王に対してCakkavattinの称号が付与されたが、これもパーリ経典の理想とは切り離されており、政情安定とsAsanaの繁栄を脅かす敵に対しては、武力をもって立ち向かう戦士であることが王としての大前提とされた。アヌラーダプラ時代、紀元後3世紀のVetullaの伝播後、王の聖性と菩薩の理想とが融合し、sAsanaの繁栄のために菩薩行を実践する菩薩王の概念が確立することによって、英雄たる戦士と仏教徒としての経典的王権の理想の矛盾は仲裁される。ポロンナルワ時代以降、MahAvihAra派によりサンガが統一されたのちも、王権の理想としてVetullaの教義は存続した。

 第2章「王権と舎利」では、王権と舎利の関係、そして舎利の存在意義について論じた。舎利は仏陀そのものと捉えられ、仏陀の遺身舎利、仏陀成道の菩提樹、仏陀使用の鉢などが、王室により大切に管理されてきた。それはこれらの仏陀ゆかりの聖物に仏陀降臨の奇跡が繰り返し生じてきたからである。舎利を祀る仏塔は、仏の世界と神々の世界と人間の世界の共有の場であり、舎利の保有が全スリランカ掌握という王権の象徴であった。また舎利は疫病や飢饉などの除災、雨乞いの儀礼などにおける本尊でもあった。アヌラーダプラ時代初期には舎利を安置する巨大な塔が建立され、それが王統の権威を承認させる手段でもあったが、ポロンナルワ時代以降、王権の象徴たる舎利は、アヌラーダプラ時代にはAbhayagiri派が管理していた歯舎利となる。諸王は都に歯舎利堂を建立することで集権化につとめ、遷都に伴い歯舎利堂も移動した。菩提樹が植樹され、巨大な塔が築かれた古代都市アヌラーダプラは、ダンバデニヤ時代以降、首都が南下するに伴ってシーハラの王権からは放棄されることとなる。

 第3章「サンガの分裂と統合」では、サンガ内の論争のために分裂したサンガに対する王権の行使が、不正な比丘の追放、すなわちサンガの浄化にはじまり、サンガの規律の設定、サンガ統一、さらにはサンガ組織の再構築の指揮にまで及ぶ過程を追った。王はsAsanaの最大の支援者であることを、塔や寺院の建立、祭祀、出家者に対する資具の支援といったsAsanaの持続の場を設けることによって人々に承認させていたが、次第にsAsanaの持続のための秩序を存続させるための条件を案出し、これを監視する者という認識がなされていく。アヌラーダプラ時代初期においてMahAvihAra、Abhayagiri、Jetavanaに分裂した三派は、ポロンナルワ時代、ParakkamabAhu Iのサンガ浄化と統合によりMahAvihAraの受戒のみで統一され、スリランカ仏教史上はじめてサンガ最高責任者MahAsAmiの役職が設定された。ダンバデニヤ時代以降は、さらにサンガ内にaraJJavAsinとgAmavAsinの枠組みが設定され、それぞれの長であるMahAtheraがMahAsAmiに次ぐ役職とされた。またサンガ階層性確立の過程で、王権行使の手段として王の名でKatikAvataが度々発布され、規律遵守が要請された。

 第4章「サンガ組織の再変遷」では、ダンバデニヤ時代に整備されたサンガ内の組織、1)araJJavAsinとgAmavAsin 2)Ayatana 3)pariveNa 4)gaNaのそれぞれについて、アヌラーダプラ時代に遡り、組織として成立するまでの変遷を辿り、さらにダンバデニヤ時代以降のそれらの組織の変容にもふれた。araJJavAsinとgAmavAsinの緩やかな類別の傾向は、アヌラーダプラ時代初期からすでに生じていたが、アヌラーダプラ時代中期以降、島内の王位継承抗争、インドからの侵略にともない、araJJavAsinが台頭をみせる。ポロンナルワ時代、サンガ浄化と統一の会議の首座をつとめたMahAkassapaは、DimbulAgala出身のaraJJavAsinであった。ダンバデニヤ時代以降は、araJJavAsinとgAmavAsinを区分して組織立てることでサンガの統一と和合が図られた。島内ではアヌラーダプラ時代後期からことに寺院封建制が拡大し、土地や村を所有している比丘たちの生活共同体であるAyatanaが進展し、派よりはむしろAyatanaの単位で寺院管理がなされていく。ポロンナルワ時代とダンバデニヤ時代には島内に主だった8のAyatanaが存在し、中央集権化された。pariveNaはアヌラーダプラ時代初期には比丘の住む房舎であったが、次第に教育機関に変化する。ダンバデニヤ時代以降は、AyatanaとpariveNaの組織に重なりがみられ、ともに教育の中心的場として存在した。gaNaは布薩をする集団であった。ダンバデニヤ時代以降、MahAsAmi、MahAthera、Ayatanaの長、大規模なpariveNaの長は王が任命することになり、王権のサンガ掌握の体制が整った。

 第5章「教育と著作」では、王室の支援による聖典の普及と比丘の著作活動、比丘の教育段階、王を頂点とする在家の教育内容、聖典以外の著作について整理した。寺院は出家者の住処であると同時に、教育の場であった。dhamma存続のための聖典伝承は記憶が主体であったが、諸王は書写の支援を積極的に行った。王の教育は比丘が担っていたため、アヌラーダプラ時代後期以降は、比丘のみならず、王自らが仏教関連文献の著作にもあたるようになる。パーリ経典においては世俗的な学問を比丘が追及することは禁止されていたが、時代を経て比丘はあらゆる学問をするのが常となった。王の教育も様々な分野に及び、サンガはポロンナルワ時代においてMahAvihAra派に統一されたにもかかわらず、その後もサンスクリット語文献はスリランカに移入された。そして註釈のような解釈的分析的著作だけではなく、サンスクリット語文献に関する学問も継続してなされ、パーリ語やシンハラ語文献の内容や形式にも影響を及ぼした。

 第6章「ダミラ人の流入」では、島内にダミラ人が往来し、次第に定住していく過程、ダミラ人をめぐる史書の記述の真偽、そしてダンバデニヤ時代のシーハラ政権の南下について検討した。アヌラーダプラ時代中期頃からダミラ人の定住がみとめられ、その代表的な存在は傭兵のVelakkAraであった。南インドの兵士で捕虜として連行された寺院奴隷、石工などの職人も存在した。史書の記述に反して、事実は、ダミラ人が仏教に常に敵対的態度をとったのではなく、またシーハラ人とダミラ人という完全なる民族的対決があったわけではない。多数のバラモンも来島し、バラモンはシーハラの宮廷にも雇用され、王室の通過儀礼も行っていた。さらにダミラ人の影響は、ポロンナルワ時代以降ManusmRtiが王事の模範的著作となったことにもあらわれる。しかしポロンナルワ時代におけるMAghaの侵略以降、シーハラ王による全島統一は永久に不可能となり、ダミラ人の自治領が成立した。

 第7章「仏教とヒンドゥー教の融合」では、シーハラの諸王のヒンドゥー教の保護、神々の崇拝のシーハラ人への浸透、そして王が神になぞらえられる過程を描いた。インドからの侵略とその支配のもとにダミラ人が流入し、それと相俟ってヒンドゥー教の信仰や儀礼が島内に普及した。ダンバデニヤ時代になると、仏陀が天神中の天神と喩えられ、舎利と神を同時に供養するようになり、さらに菩薩への崇拝が神への崇拝へと変容する。そしてVetullaの普及に伴って王が菩薩に喩えられたように、王室の資質が神の資質と対照されて語られるようになった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、スリランカの歴史叙述において空白であったアヌラーダプラ時代中期(5‐6世紀)からダンバデニア時代後期(13世紀)にわたる時期を主要な考察対象とし、パーリ語によって記述されたMahavamsa, Culavamsaをはじめとする史書と関連註釈書の綿密な解読をなし、加えて対応する時代の碑文の詳細な調査をとおして、その前後の時代とも関連づけながら、体系的な歴史叙述を試みた意欲的労作である。

 客観的叙述にたいする関心が乏しく、仏教的世界観をつねに意識したテクストとしての史料のみが利用可能な古代、中世のスリランカを考察対象とするとき、そこから復元される叙述は、仏教の有する出世間的価値とその象徴を色濃く反映したものとならざるをえないが、この規範的色合いを帯びたテクストが、碑文という異なる次元のテクストに対照され重ね合わせられるとき、そこには歴史とよぶに価する一定の叙述が可能となる。

 著者はこうした自覚に立ち、現存する利用可能な文献資料、文献外資料を分析考察し、そこには、王権を中心とする世俗的歴史展開が、仏教の出世間的世界観を構成する中心的な諸要素と密接な関連をもってなされていることを明らかにした。この歴史展開を叙述するに当っては、王と仏、あるいはその異なった位相としての菩薩、転輪王の象徴的関係とその変容(第1章)、物象化された仏としての仏舎利の所有による王権の恒常的正当性の確保(第2章)、サンガの分裂と統合の要としての王の位置(第3章)、サンガの中央集権化と地方分権化、および仏教内部の異なる修行法や救済手段の緊張関係(第4章)、聖典の普及と教育による世俗性と聖性の統一と再編の推進(第5章)、こうした要素を抽出して構造化する必要があることを全篇に亙って論じた。加えてタミル、シンハラの民族対立という今日の問題にいたる歴史の検討(第6章)、仏教以外の出世間的宗教であるヒンドゥー教が王権にたいして有した意味の考察(第7章)を補足した。

 細部の議論についてはさらに考察を要する課題を抱えてはいるものの、空白の時代であったスリランカ中世の歴史の体系的叙述を試み、王権のもつ正当性が仏教によっていかに保証されてきたかを複数の視点から立体的に描き出し、さらに中世における寺院の地方分化の実態をはじめて明らかにした、その成果が現在の学界にたいしてなす貢献は、まことに大きい。

 以上の根拠をもって本審査委員会は、本論文を博士(文学)の学位を授けるに値する論文であると判断する。

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