学位論文要旨



No 121684
著者(漢字) 岡本,雅克
著者(英字)
著者(カナ) オカモト,マサカツ
標題(和) 近代的自我の彼方へ : クライストとカント
標題(洋)
報告番号 121684
報告番号 甲21684
学位授与日 2006.04.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第536号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平野,嘉彦
 東京大学 教授 松浦,純
 東京大学 教授 重藤,実
 東京大学 教授 田尻,三千夫
 慶應義塾大学 教授 大宮,勘一郎
内容要旨 要旨を表示する

 1801年3月、クライストは、24歳のとき、「カント危機」といわれる思想上の危機を体験する。そして、この体験は、クライストに、悟性傾倒から悟性離反への転回を誘発する。この章では、悟性から離反したクライストが、悟性に対置し、強調していく「心(Herz)」という概念を、『純粋理性批判』第1版における「産出的構想力」と比較することによって、両者のあいだの類似点および相違点を見さだめ、本論において、クライストの三つの作品とカント哲学の地平との距離を俯瞰するための布石を打つことにする。

 クライストが、手紙のなかで、「心」の働きを悟性の働きに対置し、「心」を時には感官と並べて位置づけ、感官ないし「心」において享受された対象を、一つの完璧なものとしてとらえていることを考え合わせてみるとき、第1版において、悟性が介入する以前に、感官において受容された諸印象を綜合し、直観の多様を一つの形象たらしめる能力とされた「産出的構想力」との密接な関連性が浮きぼりになる。しかし、カントが、受容性と自発性という感性と悟性の両側面をあわせもち、両者を媒介する能力としての「構想力」を提示しているのに対して、クライストは、悟性を必要としないで対象を享受しうる「心」の側を強調しており、クライストの「心」は、悟性を介することなく対象を享受しうるという点で、カントの「構想力」とは異なっているのである。

 カントは、第2版において、綜合をになう役割を、「構想力」から悟性へと書き換え、「構想力」を悟性主導のもとに置く。だがそれに対して、クライストは、悟性の対立項としての「心」の側を強調することによって、近代的・自己同一的な自我主体を確立しようとする悟性尊重からたもとをわかつことになる。そして、両者の方向性のこうした相違を裏づけるかたちで、クライストの「心」と、第1版において主観的認識原泉の一つにかぞえられている「構想力」との隔たりも明らかとなるのである。

 第1章 間主観的な場における対話

 この章では、「心性(Gemut)」という概念に着目することによって、『純粋理性批判』における「心性」が、人間の認識が成立するところの「主観的」な意識であるのに対して、『話をしながらしだいに思考をつくりあげていくことについて』における「心性」は、「間主観的」であることを明らかにする。

 『話をしながらしだいに思考をつくりあげていくことについて』における対話は、「心性」が所有冠詞をともなうことによって、自己同一的な主体としての話し手と話し相手とを前提しているかにみえる。しかし、話し手の「心性」は、話し相手の表情や動作によって、話し手自身の制御をはなれたかたちで昂揚させられるということによって特徴づけられている。このように、話し手の「心性」は、自己と他者とを明確にわかつことのできないような場、すなわち、他者の身体を介する「間主観的」な場が設定されることによって、昂揚させられるのである。

 話し手は、話し相手からの働きかけによる「心性」の昂揚のもとで、話しはじめたときには未決定であった思考を、思考と表現とが同時に進行する一回性において生みだすような偶然性にかけなければならない。こうして生みだされてくる思考は、カントの思考の産婆術におけるような、自己同一的な主体の内部においてのみ展開される思考ではなく、話し手が、その自己同一性がゆらぐような場を経由し、その自己同一性がふたたび獲得される場へと立ち戻るような、動的なプロセスをもった思考なのであり、話し手の未知なるものとの遭遇を可能ならしめるような創造的な思考なのである。

 第2章 偶然と自我

 この章では、『チリの地震』における偶然の性格を、偶然に関するカントの見解と比較することによって、両者のあいだの相違を明らかにし、また、カントの「崇高の感情」との比較をもとに、「間主観的」な性格をもった感情について考察する。

 カントは、因果関係が、人間の認識を可能にするための条件であるがゆえに、偶然の存立する余地はないと主張している。だがそれに対して、『チリの地震』では、偶然が、人間の認識との関わりにおいて、神の目的意志と結びつけて理解される一方で、こうした神学的・目的論的な解釈によって排除されることのない偶然性の本質が、人間の認識によってはとらえることのできないかたちで存立するものとして、読者に呈示されている。また、偶然は、認識する自我の自己同一性を打破するものとして明るみにだされているばかりではなく、死に対する恐怖によって、自己を意識している主体の同一性は破られ、自己同一的な主体には還元されえない偶発的な行為が現実化されており、こうした行為が、偶然という契機をはらんでいることについても論じられる。

 『チリの地震』では、地震に見舞われたすべての人の心のうちに、『判断力批判』における「崇高の感情」が呼びおこされるかにみえる。しかし、カントの「崇高の感情」が、実践的に展開されているわけではない。また、作品の結末において、苦痛と喜びという相反する要素をともなった感情について語られている。こうした感情は、不快な感情であると同時に快の感情でもあるような「崇高の感情」に対応しているかにみえる。しかし、カントの「崇高の感情」は、「構想力」と「理性」という主観的な心のあり方によって基礎づけられており、主観と客観との取り違えによって客観に対して示される。また、「崇高なもの」についての判断は、反省判断を前提することによって、あらゆる主観に関して普遍妥当性を獲得する。このように、「崇高の感情」の場合、自己と対象、および、自己と他者との明確な区別が前提されている。だがそれに対して、作品の結末で語られている感情は、謎めいた神との関係のもとで呼びおこされ、自己と対象、および、自己と他者との区別が明確には見わけがたいような場において発動している無媒介的な感情にほかならず、こうした直接的な感情の発動によって、二人の登場人物のあいだには、「間主観的」な一致が成立しているのである。

 第3章 近代の主観主義的な美学を越えて

 この章では、カント美学、および、シラーの優美論との比較をもとに、『マリオネット芝居について』において、近代の主観主義的な美学の枠を越えていく視点が呈示されていることを明らかにする。

 カントは、美の成立のために、「構想力と悟性との自由な戯れ」といった主観的な心のあり方にもとづく「趣味」と「天才」を前提としている。だがそれに対して、『マリオネット芝居について』では、操り手と人形との関係における享受および産出の問題をめぐって、カントの趣味論および天才論を念頭に置いて論じられているにもかかわらず、『判断力批判』との相違のほうに重点が置かれており、こうした相違は、操り手と人形との関係において、「趣味」と「天才」が基礎づけられている主観的な心のあり方が前提されてはいないという事情に由来している。人形の優美な舞踏は、操り手の主観からすれば、人形が思いもしないかたちで動くことによって生みだされるのであり、操り手は、人形の身体を介して設定される「間身体的」な場において、その自己同一的な主体には還元されえない人形の優美な舞踏を現実化するような偶然性にかけなければならない。また、シラーは、優美を主体によって生みだされる人格美としてとらえている。だがそれに対して、『マリオネット芝居について』では、優美とそれを所有する主体との内的な関係は破棄されているのである。

 カント美学、および、シラーの優美論とのこうした隔たりは、カントの歴史哲学との隔たりとも相まって、ふたたび際立たせられる。カントは、自然と道徳との対立が解消する段階を、「世界の終わり」と位置づけ、また、自然と道徳との対立の解消には、「趣味判断」が前提されるとしている。だがそれに対して、『マリオネット芝居について』では、優美が、享受する側や、産出する側や、所有する側の主観性に依存することなく、全く意識をもたない模型人形か、無限の意識をもつ神に出現するとされており、優美が出現するところの模型人形と神という「円環世界の両端が繋がる点」としての「世界の歴史の最終章」が、「趣味判断」と「道徳的判断」との類比によって美と道徳とが結びつくような段階に対置されているのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、ドイツ文学史上に独自の位置を占めているハインリヒ・フォン・クライスト (Heinrich von Kleist, 1777-1811) の作品から、いずれもカント哲学との関連がうかがえる2編の小論と1編の短編小説をとりあげて、そこに典型的にあらわれているこの作家の基本的な志向性を明らかにしようとするものである。

 クライストは、二十四歳のときに、「カント危機」と称される、ひとつの認識論的な葛藤に陥ったことが、その書簡から推測されている。その原因となったと思われるカントの著作について、これまでさまざまに解釈されてきたが、筆者は、この論文の序章において、『純粋理性批判』の第一版から第二版にかけて「構想力」と「悟性」の関係が変化していることに、クライストが蒙った影響の一端を看取する。「悟性」偏重の啓蒙主義的な自己同一性にたいする批判に、クライストの根本姿勢を認めようとするのである。それに相応して、筆者は、三つの作品において、クライストがカントの用語を引きながらも、しかし、それらをあえて異なる語義においてもちいていることを明らかにする。第一章でとりあげられた小論『話をしながらしだいに思考をつくりあげていくことについて』では、たとえばカントにおいては主観を意味しているはずの「心性 (Gemut)」が、他者と語りあうことによってひらけてくる「間主観性」の意に変化しているという。また第二章で論じられる小説『チリの地震』では、従前の研究においてすでに確認されていた『判断力批判』との関連において、自己同一的な主観を前提とするカントの「崇高の美学」にたいして、筆者は、地震において露呈される偶然性が、認識する主体の自己同一性を破壊する契機になることを指摘している。小論『マリオネット芝居について』を扱った第三章では、たとえばカントとクライストに共通している「身をおく (sich versetzen)」という動詞をてがかりに、『判断力批判』やシラーの優美論が語るように、主観にもとづく「趣味判断」が通常の意味における「間主観性」を形づくっていくのではなくて、マリオネットの優美さが、もはや「享受」する側の主観に依存しない地点に想定されていることを主張している。

 カントにたいするクライストの関係を論じた研究は、筆者も注記しているように、個々の作品に関しては、カッシーラー、コッホ、ハーマッハーをはじめとして、従来からも存在しなかったわけではないが、しかし、これほど総合的かつ徹底的に分析した論文は、ドイツ語圏においても例をみない。

 本論文は、細部において、ややもすると強引な論述がみられはするものの、参考文献を博捜しつつ、他方で首尾一貫した論理を構成しえた力量は、十分に評価されるべきものである。以上に鑑みて、本審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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