学位論文要旨



No 121685
著者(漢字) 常松,淳
著者(英字)
著者(カナ) ツネマツ,ジュン
標題(和) 法的責任の社会学 : 日本における不法行為責任論の構造
標題(洋)
報告番号 121685
報告番号 甲21685
学位授与日 2006.04.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 博人社第537号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 盛山,和夫
 東京大学 教授 似田貝,香門
 東京大学 教授 松本,三和夫
 東京大学 教授 太田,勝造
 上智大学 教授 吉野,耕作
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は,日本における不法行為責任論がいかなる構造を持ち,とりわけ道徳的な要素をどのように扱ってきたかを明らかにし,併せて,法的責任を(再度)道徳化しようとする試みの限界を探ることで,社会における法的責任の意味を探求するものである。

 ひとが社会生活において不利益を被ったと感じた時に何が出来るか――その不利益を引き起こした誰かに対して金銭による損害賠償を求めることが出来るというのが,日本の法制度が用意している選択肢であり,最も一般的なのが民法709 条による不法行為責任(民事責任)である。法的責任は,法システムの中で法的言説によって独自の意味と論理を与えられつつ実践されているが,同時に,社会からの非-法的な意味付けにも常に晒されている。法的言説には首尾一貫しきれない綻びが含まれていると同時に,背後では,法的な解釈と社会的な意味付けや期待との間で相克が生じてもいる。

 本稿が特に今この問題に焦点を当てる理由の一つは以下である。損害に因る責任の法的な規定と日常的・社会的な意味付けとが接する際に争点化するのは,当事者(とりわけ,損害を被った者)の道徳的感情や「心」の問題であり,そこに根差した責任観である。この点は,実は古くから法的言説の内外で議論の的にはなっていた。しかし日本では特に90年代以降,災害や犯罪の被害者,とりわけその感情や「心」に対する社会的関心が高まってきている。これは同時に,社会――最終的には法システム――の側がその問題に対処しなければならないという意識をも表していると見ることができ,法的責任のあり方もまたこれに直面せざるを得ない。例えば近年提起された「定期金賠償」請求は,法的な賠償責任を特異な仕方で道徳的に用いた事例である。そこで本稿は,これらの事例を素材としながら,日本の不法行為責任論が,これまで感情や道徳の問題にどのように対処してきたかを検証し,逆に,法的責任はどこまで"道徳化"することができるかを再考した。

 日本の法的言説において不法行為制度は,被告からの金銭支払いによる「損害填補」,それによる「被害者の救済」を第一の目的とする制度として理解されている。過失責任主義である以上,全ての被害者がこの制度で救済されるわけではないが,このギャップは「公平な負担」という理念によって埋められている。総体的に見ると,日本の法的言説では,制度の目的論という次元で明示的に道徳的要素が排除されるものの,帰責根拠論や慰謝料算定といった場面では道徳的な考慮が実際には顔を出している。逆に言うと制度の目的論は,そのような考慮を理論的(形式的)に法的な前提の中に押さえ込むという役割を果たしている。

 このような規範的枠組みを巡って問題化されてきた論点には大きく分けて三つあった。一つは損害填補主義に対する不満,もう一つは,逆に,設定された制度目的を徹底する視点から生じる批判,即ち,損害填補の非効率や機能不全という問題である。これら二つの批判は従来から提起されてきたものだが,近年とみに強く提起されつつある三つ目の批判は,前二者と本質的に異なっている。それは損害に因る責任を「損害の公平な負担」へと還元する法的前提そのものへの不満であり,それはむしろ,これまで法的言説の中から汲み出されてきた道徳的意味付けを再び法的責任の中に注入しようとするものである。法的責任を道徳化しようとする主張は,法的言説において争点となってきた帰責原理や,責任を課すことの効果・機能に関してだけではなく,むしろ責任の果たし方や果たすことの意味付けについて行われている。

 しかし法的責任に与えられている強制性を,道徳化に対する一つの限界として,また社会における法的責任の機能を特徴づけるものとして再確認しておく必要がある。日常的な意味での(道徳的)責任と,法的な(不法行為=損害賠償)責任とは同じような構造を持ちながら,根本的には全く異なる力学の下に置かれている。被害者の感情や「心」に生じたダメージを社会的な問題として取り扱おうとする動きの中で,法システムは法的責任の決定と強制を行わなくてはならない。道徳的・感情的な要素を払拭し,そこから自律しようとしてきた法システムは,そのことによって独自の機能を果たしてきた。例えば帰責要件から「非難可能性としての過失」のような道徳的基準を取り除くことによって,賠償範囲が広がり,より多くの被害者を(金銭的に)救済することが可能になったわけである。逆に,法的責任をあらためて道徳化しようとする諸議論――共同体的正義論,応答責任論,修復的司法論――は,まさに法的責任を法的たらしめる強制性という問題によって限界づけられざるを得ない。責任の道徳的意味を真剣に捉えようとすればするほど,それを法的責任として追及することが困難になるからである。

 第一章ではまず,法的前提と道徳的な意味付けが特異な形で交錯した事例として,近年の「定期金賠償請求」を取り上げ,法的責任に期待された意味付けと法的な捉え方との関係を明らかにする。それは,法的な賠償責任に金銭による"被害者救済"を超えた道徳的な意味と機能をどこまで・如何にして与えることが出来るのかという問題である。

 第二章は,自律していると言われる「法的思考」の特性を言わば内的視点から,かつ規範的に規定しようとする議論を手掛かりに,法的言説において何がまさに「法的思考」である(べき)と見なされているか明らかにし,併せて,社会学的な視点から法システムの自律を描き出す議論を,道徳の位置づけという観点から再検討した。

 第三章から第八章で,日本の法的な不法行為責任論の構造を分析した。第三章は,責任に対する問いの枠組みを明らかにする。続いて,日本の不法行為責任論の特徴を取り出し,特に責任要件としての「権利侵害」と「過失」がどのような解釈によって捉えられてきたかを整理した。法的言説において責任の中身は自明であり――即ち賠償金の支払い――,むしろ,どのような場合,誰にどれだけの責任を負わせるかという帰責原理・範囲・算定の問題が焦点となってきた。そこで続く二つの章では,基本的な帰責原理である過失責任主義がどのように解釈され拡大されてきたかを,原理に与えられる正当化という面から明らかにし(第四章),続いて,法的言説の内部で,責任を課すことの根拠――規範的な正当化――がどのように与えられ,機能してきたかを解明した(第五章)。

 不法行為責任をめぐる法的言説(とりわけ解釈学説)においては,制度自体の〈目的〉という観念が至る所で重要な役割を果たしている。第六章では,日本の法的言説が不法行為制度そのものをどのように理解しているかを分析した。制度の目的と機能に関わる規範的設定は,現実の制度とのギャップを含んでいるのみならず,そもそも損害に因る責任に対する社会的な期待との軋轢を産むことにもなっている。そこで以下の二つの章では,制度の〈目的〉論が,責任の法的意味付けにどのような役割を果たしているかを論じた。

 第七章では,日本の法的言説において「罰としての損害賠償責任」という見方がどのように受け取られ,主流においては否定されてきたかを跡づけ,第八章では,逆に,日本の法的実践で確固とした地位を占める「慰謝料」の持つヌエ的な役割に焦点を当てる。慰謝料はまさに「精神的損害」の名の下に被害者の感情や「心」が法的言説の中に現れる局面である。この三章によって示されるのは,制度の〈目的〉論が法的責任の(異質な)意味付けをどのように汲み出してきたかである。

 続く二つの章では,不法行為制度(責任)のあり方自体に向けられた近年の改革提案・議論を再検討し,損害に因る法的責任に何が期待されており,実際には何が可能なのかという問題を考察する。

 第九章は,不法行為制度に対してなされた対極的な二つの改革提案――法的言説において設定された目的に沿って徹底化する方向での制度構想と,むしろ逆に不法行為責任をより道徳化しようとする議論を検討した。後者のような方向性は,不法行為責任に対するある種の社会的な期待(ニーズ)に沿うものであり,また法的言説の内部においてこれまで焦点とされてきたものとは別種の道徳性を持ち込んでいる。しかし,法的責任をとりわけその果たし方という側面において道徳化しようとするこの試みは,法の強制性という問題にぶつからざるを得ない。第十章はこの点を,刑事司法の領域で近年提唱されている修復的司法論において検討した。これらの議論が提起する方向で法的責任を貫徹するには限界がある。それは,法の強制性によるものである。自発性を旨とする道徳的責任(の果たし方)と法的責任とは原理的に相容れないからである。

 最終章は,これまでの議論を振り返り,社会における法的責任の意味を再考した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、不法行為に基づく損害賠償責任をめぐる法的言説の構造を社会学的に解明したものである.

 近年、法的責任の中に被害者の感情や道徳的意味をどう位置づけるかをめぐって激しい対立が見られ、法の世界をその外部たる社会に対して閉じたものと措定する「法の自律性」という理念と,「損害填補」による「被害者救済」という社会に対して開かれた目的理念との間に,緊張と葛藤が内在している。従来この問題は法社会学において,法過程とその社会的帰結を問う研究領域として扱われてきたが、本論文は、判決や法解釈学そのものにおける論理構成の矛盾や対立の分析を通じて、法的論理の構造的特性と社会的機能を探求している。

 本文は全11章からなり、まず序章と1章で、被害者の心や感情など、従来、法的世界から排除されてきた問題に法システムが対応を迫られている現状を予備的に考察し、2章では、日本における法的思考の論理が、「要件=効果」モデルを中核としながらも「目的=手段」的思考を補助的に組み込んでいること、さらに法哲学者ドゥオーキンの「原理/政策」区分および社会学者ルーマンの「条件プログラム」概念もまた、法的論理が社会的帰結や目的から完全に自律的であることを根拠づけてはいないことを指摘する。3章以降は、具体的に、過失責任主義からの離脱、帰責根拠論、目的と機能、損害填補・被害者救済、抑止と制裁、および慰謝料の意味など、日本の不法行為責任論の論理構造を分析し、法的言説が自律性に固執しつつも,社会的影響を視野に入れた法政策論を密かに導入していることを明らかにしている。第9章では、被害者救済に志向した脱道徳化の議論と、共同体的正義論、応答責任論、修復的司法論などの責任の道徳化論を対照させ、著者独自の強制不可能性の観点から、法システムの中に道徳的要素を組み入れることの限界を指摘するとともに、定期金賠償のように法的論理の枠内で非−法的な要素を取り込む論理構成のしかたを解明し、終章で全体の骨子と結論をまとめている。

 このように本論文は、法システムが内的な論理としては自律性を標榜しつつも、被害者の心や道徳的責任などの社会的ニーズに一定の応答をしようとしているという法的論理の特殊な構造を明確にしたものである。著者は、対象としての法的言説の文献資料と、不法行為責任論についての法社会学および法哲学の諸理論とを詳細に分析・考察し、後者の理論上の不備を鋭く剔出して、法的論理と法の社会的機能との複雑な関係構造を鮮やかに描き出している。対象としての法学説と競合する研究としての法理論との識別がやや曖昧で、見かけ上既存研究との対比が分かりにくくなっている部分もあるが、法の社会学的研究に新しい分析視点を提示して独自の成果をあげた画期的な論考として高く評価できる。

 以上により、審査委員会は、本論文が博士(社会学)を授与するに値するものとの結論をえた。

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