学位論文要旨



No 121686
著者(漢字) 大橋,恵
著者(英字)
著者(カナ) オオハシ,メグミ
標題(和) 個人の将来予測における「ふつう」バイアス : 固有文化心理学による検討
標題(洋)
報告番号 121686
報告番号 甲21686
学位授与日 2006.04.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会心理学)
学位記番号 博人社第538号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山口,勧
 東京大学 教授 池田,謙一
 東京大学 教授 秋山,弘子
 東京大学 教授 高野,陽太郎
 日本大学 教授 岡,隆
内容要旨 要旨を表示する

 個人の将来予測に関しては、平均的な人と比べ自分が経験する可能性である相対的可能推定を用いた研究が数多くなされてきた。相対的可能推定には様々な規定因があるが、ほとんどの実証研究は出来事の幸不幸に関心が集中しており、「楽観・悲観」を議論していた。欧米においては、ほぼ普遍的に出来事の幸不幸が相対的可能性推定に正の影響を与えること、すなわち楽観的であることが示されている:幸福な出来事は平均よりも自分に特に起こりやすく、不幸な出来事は逆に平均よりも自分に特に起こりにくいと予測する。一方、日本人は、幸福な出来事に関しては悲観的であり、不幸な出来事に関しては楽観的であるという傾向が見られ、楽観・悲観(あるいは出来事の幸不幸の効果)からは解釈できない。

 しかし、日本人の心理を欧米の枠組みである「楽観・悲観」からとらえることができるのだろうか。著者は、これは日本人にとって特に重要な要因が考慮されてこなかったからではないかと考えた。具体的には、その出来事を経験することによって自分のことを「中庸である、内集団から飛び抜けていない」、すなわち、「ふつう」であると考えられるかどうかという観点から考えた。

 本論文では、「ふつう」という日本人にとって意義のある次元が、日本人の個人の将来予測に大きく影響していると予測した。すなわち、人を形容するときの「ふつう」には良い意味が付加されているため、自分を肯定的に見る動機が日本人にもあれば、自分のことを「ふつう」であるとみなしたい動機から、それが行き過ぎて、ときに自分の「ふつうさ」を過大視すると考えたのである。この「ふつう」さの過大視は、相対的可能性推定を用いた個人の将来予測に以下のように現れると考えた:日本人は、出来事の幸不幸にかかわらず、高頻度の出来事が平均的な人と比べて自分に起こる可能性を、低頻度の出来事が平均的な人と比べて自分に起こる可能性よりも、高く評価するだろう。先行研究は低頻度の出来事が主に用いられているため、この予測に当てはまると考えられる。以上のような研究目的を1章で述べた。

 次に、大前提である「ふつう」という語の意味と望ましさについて2章で検討した。それは、自己や平均的他者という人物についての認知に「ふつう」という概念がどのように作用するかを検討するためには、まず「ふつう」「ふつうの人」に日本人がどのような意味や価値を付与しているかを調べる必要があるからである。まず、辞典類に記されている「ふつう」の意味を調べた。次に、一般の現代日本人も辞典類に記された意味を共有しているかどうか確認し、「ふつう」の望ましさを検討するために、大人50名・大学生54名にアンケート調査を行った(研究1)。その結果、「ふつう」という語には、以下の3つの意味が認められた:特に優秀でも特にユニークでもない、中程度でよくある、特に劣っていなくてノーマル。また、「ふつう」は中立的に評価されていた。

 さらに、文脈により語に付加される意味づけが異なる可能性があると考え、人を形容する語としての「ふつう」の望ましさを検討した(研究2)。大学生150名及び社会人61名にある一定の条件にあった人物を想起させ、その印象を測定する方法で、人を形容する「ふつう」には良い意味が強く、「ふつうではない」には悪い(大学生)あるいは中立的な(社会人)意味が強いことを示した。

 第3章では、本論文の基本命題である、日本における「ふつう」バイアスの存在を検討した。具体的には、生起頻度の高い出来事(例:幸せな結婚をする、インフルエンザにかかる)は平均よりも自分に特に起こりやすく、生起頻度の低い出来事(例:宝くじで大金を当てる、殺される)は平均よりも自分に特に起こりにくいと考えると予測した。さらに、さらに、自分を「ふつう」だとみなす人ほど「ふつう」バイアスが強いという個人差を予測した。まず質問紙研究を行い、次に、因果関係を明確に吟味するために実験室実験を行い、さらに、一般化可能性を検討するために無作為抽出された大人を対象に郵送調査を行った。その結果、出来事の生起頻度の影響は出来事の幸不幸と関係なく見られた。平均と比べた可能性である相対的可能性推定を指標としたため、その平均が「平均と同じ」よりもずれる論理的な根拠はない。そのため、これはバイアスであると言える。質問紙研究・実験室実験・郵送調査という三つの異なる手法、女子短大生・国立大学の大学生・一般の大人という三つの異なる対象を用いて同じパターンが得られたので、頑健な結果と言えよう。

 このようなバイアスが生起する理由はいくつか考えられるが、著者は、以下の点から、自分の「ふつうさ」を過大視している現象であると考えた。(1)個人の将来予測における「ふつうバイアス」の大きさは、自分を「ふつう」だとみなしている程度(研究3,4,5、6)と正の相関があった。(2)日本において、人を形容するときの「ふつう」には望ましい意味が付加されている(研究2)。したがって、自分を良い存在だとみなしたいがために、自分の「ふつうさ」を過大視するというメカニズムが考えられる。(3)実際に、「ふつう」バイアスの大きさと「ふつう」を望ましく評価する程度には正の相関が見られた(研究6)。

 続く第4章では、では、日本人のみを対象にして得られた上の知見が、他の文化においても見られるのか検討するために、アメリカとの比較研究を行った(研究6)。その結果、アメリカでも出来事の生起頻度が高く知覚されているほど相対的可能性は高く見積もられていた(「ふつう」バイアスを示す)が、日本人よりのほうがそのサイズは大きいという結果が得られた。また、「ふつうさ」を望ましく評価する人ほどこのバイアスのサイズが大きいという相関関係もやはり日米で見られた。ただし、自分を「ふつう」だとみなす人ほどバイアスが大きいという関係は、日本データでのみ有意だった。

 日本での価値観についての考察から導き出された「ふつうさ」の過大視という現象・解釈だったが、アメリカデータから、日本固有のものではないことが示された。ただし、「ふつうさ」を望ましく評価する程度には日米差がなかった。そのため、本論文で仮定している「ふつう」が望ましいから得ようとするという心理プロセスではなく、文化にかかわらず、人間には自分の「ふつうさ」を過大視する認知的なバイアスがある可能性が示された。

 最後に、第5章にて、研究全体をまとめた上で、本論文の意義や今後の課題について述べた。個人の将来予測における「ふつう」バイアスという新たな現象を見いだしたことが、本論文の貢献であろう。「ふつう」バイアスは、個人の将来予測に関する従来の枠組みである楽観・悲観からは説明できない現象である。本論文の意義は、日本人の相対的可能性推定を西洋モデルで判断することの限界を指摘し、日本人の個人の将来予測は欧米人とは違う意味で非現実的であること、つまり、「ふつう」の方向に歪む傾向があることを示した点にある。さらに、今回行われた4つの研究で一貫していないものの、出来事の幸不幸が相対的可能性に与える影響は少なくとも負ではないことが示された。つまり、出来事の生起頻度知覚も考慮した場合、日本人は日本人は少なくとも悲観的ではないことがわかった。これに加えて、出来事の幸不幸が相対的可能性に与える影響の大きさには、出来事の生起頻度知覚も考慮した場合は、日米で差が見られなかった。研究6は相関研究である上に、幸福な出来事と不幸な出来事を別々に分析しているという制限があるため、この結果のみをもってこの点を決めることはできない。しかしながら、非現実的な楽観性が北アメリカ人よりも日本人で低いという知見があるが、それは出来事の生起頻度という重要な要因が考慮されていなかったためかもしれないと、本研究から指摘できる。

 今後の課題は二つ挙げられる。ひとつは、前述した心理プロセスの解明である。日本人は自分が「ふつう」であると過度に認知する傾向があるという前提を置いたが、この前提については検討されていない。このバイアスが実在するかどうかについて確認を重ね、その心理的プロセスについてさらに検討する必要がある。二つ目の課題は、日本での「ふつう」の望ましさに関する問題である。世間の人は「ふつう」を望ましくとらえていると認識しているものの、自分自身はあまり「ふつうさ」に価値を置いておらず(研究6)、しかしながら他の人を評価する際に「ふつう」はどちらかといえばよい意味を持つという(研究2)、「ふつう」の望ましさに関しては矛盾した日本人のデータが得られた。「ふつうさ」は、日本において、個人的に価値を置いているかどうかはともかく、個人が認識している社会全体の価値として機能している可能性がある。今後は、日本人にとって「ふつうさ」がどのような意味を持っているのかを探っていきたい。(3681字)

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、個人の将来予測において、自分の「ふつうさ」を過大視するという新たなバイアスを報告し、その原因について考察するものである。従来の欧米での研究では、個人の将来予測が楽観的なものか、あるいは、悲観的なものか、という視点から研究が行われていた。そうした研究では、日本人は欧米人に比べて悲観的である、という結果が得られているのであるが、著者はこのような単純な図式だけでは日本人の将来予測のバイアスを説明できないと考え、日本人にとって重要な意味を持っていると思われる「ふつうさ」の概念を中心として、将来予測の問題を再構成している。まず、研究1では日本語における「ふつう」の意味を調べ、大学生には中立的な意味をもつものと理解されていることを確認した。しかしながら、この中立的な形容語であるはずの「ふつう」という言葉が、人を形容するときには、良い意味を強くもつこと、そして「ふつうでない」には悪い意味があることを見出した(研究2)。研究3では、実験的な手法を用いて、将来予測をする際に、出来事の幸不幸にかかわらず、高頻度の出来事が平均的な人と比べて自分に起こる可能性を、低頻度の出来事が平均的な人と比べて自分に起こる可能性よりも、高く評価することを示した。さらに、個人の将来予測におけるこのバイアスのサイズは、自分を「ふつう」だとみなしている程度及び「ふつう」を望ましく評価する程度と正の相関があることを示した。この新たなバイアスを郵送による社会調査を含む追試(研究4,5)でも確認している。さらに、研究6では、アメリカでの追試も試みている。

 こうした研究結果に基づき、本論文では、自分を「ふつう」であるとみなしたいという動機があるために、自分の将来について、「ふつう」であると過度に認知したと解釈できると考え、この現象を「ふつう」バイアスと名づけている。このバイアスは、自分を「ふつう」と見なしたいがゆえに「ふつう」から逸脱してしまうという意味で非常に興味深い現象である。

 本論文では、日本文化を独自に分析するという固有文化心理学的なアプローチを採用したことにより、米国での研究に依存したこれまで手法では取り上げられることのなかった新たな現象を明らかにすることが可能になったものであり、その新奇性は高く評価できるし、理論的にも大きな意味がある。

 ただし、いつくかの点が今後の課題として残されている。まず、本論文では日本人が自分の「ふつうさ」を一般的に過大視しているとみなしており、また、「ふつうさ」の過大視は、それが望ましいからだと想定しているが、これらの点についてはさらに吟味を行う必要がある。さらに、アメリカでの追試の結果も明確なものとは言いがたい。しかしながら、全体として新たな認知的バイアスの存在を確認した意義は大きいと判断した。

 以上より、本委員会は、本論文を博士(社会心理学)の学位を授与するにふさわしい業績と認定するものである。

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