学位論文要旨



No 121709
著者(漢字) 田辺,伸聡
著者(英字)
著者(カナ) タナベ,ノブアキ
標題(和) 海馬神経細胞に及ぼす環境ホルモンの影響
標題(洋) The effect of endocrine disrupters on the hippocampal neurons.
報告番号 121709
報告番号 甲21709
学位授与日 2006.05.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第674号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 友田,修司
 東京大学 教授 里見,大作
 東京大学 助教授 安田,賢二
 東京大学 助教授 栗栖,源嗣
内容要旨 要旨を表示する

 「環境ホルモン、内分泌かく乱物質」と呼ばれるものは、人工の擬似女性ホルモンであろうと思われている。近年の研究の成果により、魚介類においては、環境ホルモンは生殖器官に明確な影響を及ぼすことが分かってきたが、しかし哺乳類においては、肝臓で解毒代謝されるために、卵巣・子宮・精巣などの末梢の内分泌器官における環境ホルモンの作用は弱いという結果が得られている。一方、脳神経系に環境ホルモンが進入した際に、神経活動に及ぼす影響に関しては、きわめて重要なテーマであるにも関わらず、まだ信頼に足る研究発表が少なく、記憶学習への影響は不明である。脳においては薬物代謝酵素が末梢神経系に比べて少なく、解毒代謝作用が弱いので、影響は大きいと推測される。本研究では、ビスフェノールA(BPA)とジエチルスチルベストロール(DES)という、代表的な2種類の環境ホルモンが、ナノモルという低濃度で記憶中枢である脳海馬における神経活動に及ぼす影響を解明することを目的として研究を行った。ちなみに、ラットの体にBPAを皮下注入した場合、1時間程度で脳内に到達するということがわかっている。その結果、BPAおよびDESは、記憶を蓄える素子である神経シナプスのスパイン(シナプス後部)の密度と形態に2時間という短時間で大きな影響を及ぼすことを発見した。この効果は、川戸研究室で確認されている女性ホルモンがスパインの形態に及ぼす効果と非常によく似ていた。また、BPA刺激によって海馬神経細胞にカルシウム応答を引き起こすことも発見した。

 まずBPAが海馬組織における神経スパインに及ぼす急性的な影響を調べた。12週齢オス成獣ウィスターラットから摘出した海馬組織から急性スライスを作成し、このスライスをナノモル濃度のBPAやDESを含むACSF中で2時間インキュベーションすることによって作用させた。その後、スライスを4%パラホルムアルデヒドで組織固定した。固定後、海馬CA1領域の単一神経細胞に、微小ガラス電極を用いて蛍光色素Lucifer Yellowを注入することによって、神経細胞を染色した後に、これを共焦点レーザー顕微鏡を用いて断層撮影した。30-60枚程度の断層像から3次元画像を再構成したのち、Neurolucida プログラムを用いて樹状突起のトレース、及びスパインの数と形態の解析を行った。特に、海馬CA1領域の単一神経細胞の放射状層(stratum radiatum)領域にある二次樹状突起上のスパイン構造の詳細な解析を行なった。その結果、BPA(10nM、100nM)で2時間の作用を行なった海馬スライスの神経細胞では、対照群のスライスに比較して、神経細胞の樹状突起における全スパイン数の増加が確認された(0nM BPA作用群:0.94 spines/μm、10 nM BPA作用群:1.55 spines/μm、100 nM BPA作用群:1.40 spines/μm)。低濃度の10 nM BPAでは1.54倍の増加で、高濃度100nM BPAの1.47倍増加より効果が大きかった。このBPAによる全スパイン密度の増加は、NMDA型グルタミン酸受容体の阻害剤であるMK-801によって完全に阻害された。BPAの作用は電位依存性カルシウムチャネルの阻害剤ニカルジピンによって影響を受けなかった一方で、MK-801によってNMDA型の受容体を不可逆的に閉じた場合には完全に阻害されたことから、ナノモルBPAによるスパイン構造の変化には、静止時におけるNMDA型受容体の自発発火的な開閉による細胞内カルシウムの平衡維持が不可欠であると考えられる。また、MAPキナーゼのリン酸化活性を阻害剤PD98059で阻害した場合、BPA作用によるスパイン密度の増加は完全に抑制された。これらの結果から、BPAは樹状突起やスパインにおけるMAPキナーゼ系カスケードを駆動することで、スパインの変化をもたらしていることが示唆される。

 スパインは形態的特徴から、mushroom(頭が大きく、首部分がある)、thin(頭が小さく、首部分がある)、filopodium(細長く、頭が無い)、stubby(短く、頭が無い)の4種類に分類されることがわかっている。このうち、シナプス形成能をもったスパインは、細い首部分によって樹状突起と隔てられた構造をもつmushroomタイプおよびthinタイプであることがわかっているが、BPAはthinタイプのスパインを特に選択的に増加させることがわかった。一方DESによっても、2時間の作用後、全スパイン密度の増加が確認された。1 nM DES作用群は1.38 spines/μm、10 nM DES作用群は1.06 spines/μmと、ここでも低濃度1 nMの DESの方が、高濃度10 nM DESより効果が大きかった。DESもまたthinタイプのスパインを顕著に増加することがわかった。

 本研究で初めて確認された環境ホルモンによるスパイン構造のモジュレーション効果は、女性ホルモンであるエストラジオールの効果とよく似ていることが分かった。川戸研究室の釣木澤により、エストラジオール 1 nMを2時間作用させると、CA1 神経の全スパイン密度は1.54倍増加するという結果が得られている。またエストラジオールはthinスパインを選択的に増加させた。これらの研究結果は、本研究において明らかになったBPAおよびDESの結果と非常によく似ている。川戸研究室の先行研究により、精製抗体RC-19を用いた免疫電子顕微鏡解析によって、海馬CA1神経細胞の樹状突起やスパインの内部において女性ホルモン受容体が局在していることが世界で始めて発見された(Mukai et al., 2005)。擬似女性ホルモンであるBPA・DESは、このシナプス内在性女性ホルモン受容体を作用サイトとして、神経細胞のスパイン構造を短時間のうちにモジュレーションしていると強く考えられる。

 また、BPA刺激が海馬神経細胞のカルシウム動態に及ぼす影響を調べた。新生ラットから採取した脳海馬から神経細胞の安定な初代培養系を作成した。これにカルシウム感受性色素Calcium Green-1を負荷した後にナノモルBPAで刺激を与え、蛍光強度の変化を経時観察することによって、BPAが神経細胞内のカルシウム動態に及ぼす影響を調べた。その結果、10 nM, 100 nM BPAを海馬初代培養神経細胞に滴下すると、滴下から1分以内程度の短時間に、細胞内における蛍光強度の一過的な上昇(カルシウムシグナル)が起こることが確認された。BPA滴下の直前にタプシガルギン処理することによって細胞内カルシウムストアを枯渇させた神経細胞では、BPAによるカルシウムシグナルは生じなかった。電位依存性カルシウムチャネルの阻害剤ニカルジピンで細胞を処理すると、BPAによるカルシウムシグナルは部分的に阻害された。これらの結果から、海馬初代培養神経細胞においてナノモルBPAは細胞内カルシウムストアを駆動し、マイルドなカルシウム放出を引き起こすことが発見された。このカルシウムシグナルはさらなる細胞内シグナル伝達系を活性化させ、神経回路の形成に寄与していくものと考えられる。

 本研究はその成果として、新規形態学的手法により、ナノモル濃度の環境ホルモンBPAが成熟脳海馬の神経細胞のスパイン密度および形態を短時間で変化させることを発見した。また、海馬神経細胞の初代培養系を用いて、ナノモル濃度のBPAが神経細胞において細胞内カルシウムを駆動していることを発見した。本研究において得られた知見は、従来の生体組織への毒性効果の知見とは全く異なり、中枢神経系における環境ホルモンの神経成長因子としての作用を世界で始めて明らかにしたものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究の目的は、成獣における脳の記憶学習能に環境ホルモンが与える分子論的影響を研究することである。海馬神経細胞樹状突起には棘状の微小な(直径1μm弱)突起が存在している。これらの突起をスパインと呼ぶ。スパインは形態学的特長から、mushroom(大きい頭部を持つ)、thin(小さい頭部を持ち、細長い)、filopodium(首が無く、ひょろ長い)、stubby(首が無く、短い)の4種類に大別される。神経前細胞からの軸索終末と後細胞のスパインがシナプス結合を形成しており、神経細胞はこのシナプス結合を介して情報を伝達している。論文提出者は、海馬CA1領域における神経細胞のスパインが、環境ホルモンによってどのような影響を受けるかを、単一神経細胞染色したスパイン構造の蛍光イメージングによって解析した。

 「環境ホルモン、内分泌かく乱物質」と呼ばれるものは、人工の擬似女性ホルモンであろうと思われている。近年の研究の成果により、魚介類においては、環境ホルモンは生殖器官に明確な影響を及ぼすことが分かってきたが、しかし哺乳類においては、肝臓で解毒代謝されるために、卵巣・子宮・精巣などの末梢の内分泌器官における環境ホルモンの作用は弱いという結果が得られている。一方、脳神経系に環境ホルモンが進入した際に、神経活動に及ぼす影響に関しては、きわめて重要なテーマであるにも関わらずまだ信頼に足る研究発表が少なく、記憶学習への影響は不明である。脳においては薬物代謝酵素が末梢神経系に比べて少なく、解毒代謝作用が弱いので、影響は大きいと推測される。本研究では、ビスフェノールA(BPA)とジエチルスチルベストロール(DES)という、代表的な2種類の環境ホルモンが、ナノモルという低濃度で記憶中枢である脳海馬における神経活動に及ぼす影響を解明することを目的として研究を行った。ちなみに、ラットの体にBPAを皮下注入した場合、1時間程度で脳内に到達するということがわかっている。その結果、BPAおよびDESは、記憶を蓄える素子である神経シナプスのスパイン(シナプス後部)の密度と形態に2時間という短時間で大きな影響を及ぼすことを発見した。この効果は、川戸研究室で確認されている女性ホルモンがスパインの形態に及ぼす効果と非常によく似ていた。また、BPA刺激によって海馬神経細胞にカルシウム応答を引き起こすことも発見した。

 まずBPAが海馬組織における神経スパインに及ぼす急性的な影響を調べた。12週齢オス成獣ウィスターラットから摘出した海馬組織から急性スライスを作成し、このスライスをナノモル濃度のBPAやDESを含むACSF中で2時間インキュベーションすることによって作用させた。その後、スライスを4%パラホルムアルデヒドで組織固定した。固定後、海馬CA1領域の単一神経細胞に、微小ガラス電極を用いて蛍光色素Lucifer Yellowを注入することによって、神経細胞を染色した後に、これを共焦点レーザー顕微鏡を用いて断層撮影した。30-60枚程度の断層像から3次元画像を再構成したのち、NeuroLucida プログラムを用いて樹状突起のトレース、及びスパインの数と形態の解析を行った。特に、海馬CA1領域の単一神経細胞の放射状層(stratum radiatum)領域にある二次樹状突起上のスパイン構造の詳細な解析を行なった。その結果、BPA(10nM、100nM)で2時間の作用を行なった海馬スライスの神経細胞では、対照群のスライスに比較して、神経細胞の樹状突起における全スパイン数の増加が確認された(0 nM BPA作用群:0.94spines/μm、10nM BPA作用群:1.55 spines/μm、100 nM BPA作用群:1.40 spines/μm)。低濃度の10 nM BPAでは1.54倍の増加で、高濃度100 nM BPAの1.47倍増加より効果が大きかった。このBPAによる全スパイン密度の増加は、NMDA型グルタミン酸受容体の阻害剤であるMK-801によって完全に阻害された。BPAの作用は電位依存性カルシウムチャネルの阻害剤ニカルジピンによって影響を受けなかった一方で、MK-801によってNMDA型の受容体を不可逆的に閉じた場合には完全に阻害されたことから、ナノモルBPAによるスパイン構造の変化には、静止時におけるNMDA型受容体の自発発火的な開閉による細胞内へのカルシウム流入が不可欠であると考えられる。また、MAPキナーゼのリン酸化活性を阻害剤PD98059で阻害した場合、BPA作用によるスパイン密度の増加は完全に抑制された。これらの結果から、BPAは樹状突起やスパインにおけるMAPキナーゼ系カスケードを駆動することで、スパインの変化をもたらしていることが示唆される。

 スパインは形態的特徴から、mushroom(頭が大きく、首部分がある)、thin(頭が小さく、首部分がある)、filopodium(細長く、頭が無い)、stubby(短く、頭が無い)の4種類に分類されることがわかっている。このうち、シナプス形成能をもったスパインは、細い首部分によって樹状突起と隔てられた構造をもつmushroomタイプおよびthinタイプであることがわかっているが、BPAはthinタイプのスパインを特に選択的に増加させることがわかった。一方DESによっても、2時間の作用後、全スパイン密度の増加が確認された。1 nM DES作用群は1.38 spines/μm、10 nM DES作用群は1.06 spines/μmと、ここでも低濃度1 nMの DESの方が、高濃度10 nM DESより効果が大きかった。DESもまたthinタイプのスパインを顕著に増加することがわかった。

 本研究で初めて確認された環境ホルモンによるスパイン構造のモジュレーション効果は、女性ホルモンであるエストラジオールの効果とよく似ていることが分かった。川戸研究室の釣木澤により、エストラジオール 1 nMを2時間作用させると、CA1 神経の全スパイン密度は1.54倍増加するという結果が得られている。またエストラジオールは thin スパインを選択的に増加させた。これらの研究結果は、本研究において明らかになったBPAおよびDESの結果と非常によく似ている。川戸研究室の先行研究により、精製抗体RC-19を用いた免疫電子顕微鏡解析によって、海馬CA1神経細胞の樹状突起やスパインの内部において女性ホルモン受容体が局在していることが世界で始めて発見された(Mukai et al., 2005)。擬似女性ホルモンであるBPA・DESは、このシナプス内在性女性ホルモン受容体を作用サイトとして、神経細胞のスパイン構造を短時間のうちにモジュレーションしていると強く考えられる。

 また、BPA刺激が海馬神経細胞のカルシウム動態に及ぼす影響を調べた。新生ラットから採取した脳海馬から神経細胞の安定な初代培養系を作成した。これにカルシウム感受性色素Calcium Green-1を負荷した後にナノモルBPAで刺激を与え、蛍光強度の変化を経時観察することによって、BPAが神経細胞内のカルシウム動態に及ぼす影響を調べた。その結果、10 nM, 100 nM BPAを海馬初代培養神経細胞に滴下すると、滴下から1分以内程度の短時間に、細胞内における蛍光強度の一過的な上昇(カルシウムシグナル)が起こることが確認された。BPA滴下の直前にタプシガルギン処理することによって細胞内カルシウムストアを枯渇させた神経細胞では、BPAによるカルシウムシグナルは生じなかった。電位依存性カルシウムチャネルの阻害剤であるニカルジピンで細胞を処理すると、BPAによるカルシウムシグナルは部分的に阻害された。これらの結果から、海馬初代培養神経細胞においてナノモルBPAは細胞内カルシウムストアを駆動し、マイルドなカルシウム放出を引き起こすことが発見された。このカルシウムシグナルはさらなる細胞内シグナル伝達系を活性化させ、神経回路の形成に寄与していくものと考えられる。

 本研究はその成果として、単一神経樹上突起スパイン形態の高感度可視化解析手法により、ナノモル濃度の環境ホルモンBPAが成熟脳海馬の神経細胞のスパイン密度および形態を短時間で変化させることを発見した。また、海馬神経細胞において、ナノモル濃度のBPAが神経細胞において細胞内カルシウムを駆動していることを発見した。本研究において得られた知見は、従来の生体組織への毒性効果の知見とは全く異なり、中枢神経系における環境ホルモンの神経成長因子としての作用を世界で始めて明らかにしたものである。これらの結果は脳神経科学において、非常に有意義な貢献をしたものと認められる。

 よって、審査員一同、論文提出者田辺伸聡は東京大学博士(学術)の学位を受けるに十分な資格があるものと認めた。なお、本論文の内容は、2006年にNeuroendocrinology Letters誌に公表済みである。これは共著論文であるが、論文提出者は研究の主要部分に寄与したものであることを確認した。

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