学位論文要旨



No 121712
著者(漢字) 渡辺,敦子
著者(英字)
著者(カナ) ワタナベ,アツコ
標題(和) 自然再生における参加と協働 : 保全生態学的社会調査の試み
標題(洋)
報告番号 121712
報告番号 甲21712
学位授与日 2006.06.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3066号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生圏システム学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鷲谷,いづみ
 東京大学 教授 武内,和彦
 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 教授 鬼頭,秀一
 東京大学 助教授 菅,豊
内容要旨 要旨を表示する

 日本の自然環境は、気候や地理的な作用に加え、自然と調和した人為作用によって形成された生物多様性によって特徴づけられる。しかし、過去半世紀に国土景観や生態系の衰退が進行し、人と自然のかかわりのありかたも急激に変化しつつある。このような状況に対応する政策として期待される「自然再生」には、生態系の修復と並んで、人と自然のかかわりの再生という社会的役割が重視されている。

 本研究は、多様な主体の協働による「学びの場」としての自然再生のありかたを検討することを通じて、人と自然のかかわりの再生の方策としての自然再生に寄与することを目指した。

 本研究では、1)国内外の横断的な資料分析を通じた、自然再生の論理的根拠やその発展経緯の分析を行い、また2)人と自然のかかわりの歴史的経緯を踏まえ、自然再生に対する地域的な取り組みの将来展望を促すための「保全生態学的社会調査」手法の開発とその試行的適用による改善を行った。本論文は7章により構成される。各章の題名と概要を以下に記す。

第1章「序論」

 20世紀を通じて、近代化による急激な生態系の衰退に直面した欧米では、自然保護・保全が実践および理論の両面で発展した。その背景においては、生態学の科学的発展、市民の政策意思決定への参加拡大などの重要性が指摘される。順応的管理や参加と協働に基づく生物多様性の保全・修復は、生物多様性条約の目標達成へ向けた実践上の原則としても取り入れられ、国際社会においては、持続可能性な社会の構築や人類の福祉の向上における重要な課題としての認識が広まっている。

 日本における自然再生の政策的導入も、このような動向の影響を強く受けている。自然再生を通じた生物多様性保全、および人と自然のかかわりの再生にあたり、科学的プロセスに基づく順応的管理、多様な主体の参加と協働の促進などの新しい課題に対処するための学際科学の発展が求められている。

第2章「参加と協働に基づく生物多様性保全と修復に関する世界的な動向」

 多様な主体の参加と協働に基づく生物多様性保全と修復は、日本においては比較的新しい課題である。そのため、先駆的な取り組みを行ってきたと考えられる国と地域における取り組みの経験に学ぶ意義は大きい。

 本章では、特に米国、欧州における生物多様性保全と修復に関する政策、法制度および運用状況を横断的に分析・整理した。世界に先駆けて生態系管理が導入された米国では、自然環境の利用と保全に関する国民の価値観を反映し、1970年代までには、生態系の保全・修復を推進する強力な環境法体系が整備された。一方、欧州では、地域共同体としての統合と持続可能な開発へ向けた大きな潮流の中で、生物多様性保全・修復の取り組みの強化が各国に求められている。特に、農業生産と生物多様性保全・修復を結びつける政策措置や、河川の氾濫原再生の取り組みは注目に値するものである。これらの取り組みにおいては、市民活動団体や営利企業を含む多様な主体の協働が大きな役割を果たしている。欧米におけるこのような取り組みの進展は、科学的な情報に支えられた開かれた議論が、生物多様性保全・修復に関する参加と協働の土台を築きつつあるためであるといえる。

第3章「日本における生物多様性の衰退と国家政策における自然再生の導入」

 本章では、日本において、自然再生が政策的な課題として導入されるまでの経緯と自然再生推進法の制度的特色について整理した。また、2005年までに開始された自然再生事業の事例からその多様なあり方を概観し、共通の課題を抽出した。1993年の生物多様性条約の批准や、それに引き続く生物多様性国家戦略の策定、自然再生推進法の施行を契機として、国家政策は生態系保全への配慮をより重視するものとなった。

 これまでに、自然再生推進法の定める手続きに即した事業、河川法の範囲における事業、市民主導による事業など、多様な規模や環境条件、推進体制をもつ自然再生事業が実践されてきた。しかし、日本における自然再生の進展のためには、市民活動団体が行政や企業活動とならぶ社会的な地位を持ちえていないことや、社会全体の生態系保全への認識の向上へむけた教育分野での政策的取組みが大幅に遅れていることなどが、今後の課題となっていることが示された。

第4章「アザメの瀬自然再生事業地周辺地域の水辺環境における生物多様性認識と事業への参加意欲に見られる世代間差」

 本章では、「保全生態学的社会調査」手法の開発と、佐賀県松浦川流域の中山間地において実施されているアザメの瀬自然再生事業地周辺地域における試行的適用および改善について記した。異なる年齢層の近隣住民を対象とした聞き取りや質問紙調査を通じて、地域の河川や水田・水路・ため池などの農業用水における水辺の自然環境とその変遷、人々の事業への関心や期待を明らかすることを試みた。その結果、自然体験のあり方や認識される生物相の分類レベル、事業への要望や参加意欲は年代層で異なることが明らかになった。これらの結果から、川と人のかかわりの変化と、それによる生物相認識の衰退の進行過程、さらに自然再生への参加意欲の低下の要因を分析結果を記した。

 日本における自然再生事業には地域の文化的・歴史的背景を配慮し、地域社会の自然環境に対する意識や要望に応えるためのソフト面での支援プログラムが必要となることが考察された。また、今回の試行的調査の利点と改善点を明らかにし、同様の保全生態学的社会調査の自然再生事業へのより広範な適用を提案した。

第5章「茨城県潮来市の水郷地域における伝統的生態学的知識の生物多様性保全上の意義」

 茨城県南部の潮来地域の水郷景観は、江戸時代以降に形成された、掘り上げ水田と水路網に特徴付けられる。そのような水辺は人の営みの場であると同時に、多様な生物の生育・生息地であった。しかし、近年の霞ヶ浦・北浦とその流域の大規模開発の過程で、大幅な社会経済的状況の変化と水辺の生態系の衰退が進行している。本章では、この地域の自然再生の目標設定に資する基礎資料として、地域住民を対象とした聞き取り調査から、水辺における大規模開発以前の伝統的生態学的知識を明らかにし、その生物多様性保全上の意義を整理した。

第6章「茨城県潮来市の水郷地域における住民の自然体験と生物認識および自然再生イメージにおける世代間差」

 本章では、茨城県潮来市の水郷地域において、地域住民の子ども時代の自然体験、身近な動植物に対する認識、自然再生事業によって取り戻したいと思う自然のイメージなどの世代間の変遷を明らかにするための社会調査の結果をまとめた。回答者の身近な自然体験の頻度は年齢層が下るにつれて低下した。実際の自然経験に基づく在来動植物の認識率は回答者の世代が下るにしたがって低下するが、外来の魚介類については若い世代ほど認識率が高かった。また、再生したい自然のイメージとして、高年層は水質から景観、心理面までを含む多様な要素が挙げたのに対し、中年層、若年層はほぼ一様に水質に関する要素のみを回答した。これらの傾向は、地域の大規模な水辺開発の進行過程と同調しており、自然環境の体験的な知識を得る機会や場の喪失が、人々の自然観の希薄化の背景にあると推察された。 

 一方、このような状況における有望な兆候の1つとして、市民主導の自然再生事業へ参加経験のある若年回答者の生物認識率が、参加経験の無い層に比べて有意に高いことが示された。市民主導の小規模な再生事業は、近年衰退している伝統的地域社会が保っていた自然環境に関する知識の伝承や地域連携の代替を果たす可能性があると考えられ、現代の社会的状況に即した生物多様性保全や地域連携の強化の遂行への寄与が期待される。

第7章「総合考察」

 本研究の前半では、国外の生態系管理およびそれを包含する生物多様性の保全と修復に関する議論と実践の動向を理解し、国内での今後の取り組みの課題や方向性を明らかにすることを試みた。欧米における生物多様性保全・修復の取り組みの特徴として、1)市民活動団体によるロビー活動や市民訴訟が政策意思決定へ与える影響力の高さ、2)行政機関や企業との協働関係構築などを通じた参加の仕組みの多様さ、3)保全・修復における参加と協働を推進することに対する社会的ニーズに即した学術研究の発展などが挙げられた。これらの要素は、今後の日本における自然再生の推進上の重要な示唆を与えるものである。

 また日本では、伝統的な技術や知識に基づく自然への働きかけが、生物多様性保全の重要な要素として機能してきた。そのため、人と自然のかかわりの再生を目指す自然再生事業の方向性を探る上では、自然環境と人間のかかわりの歴史的経緯や構造、そこで蓄積されてきた技術や知識をつぶさに見てゆくというプロセスが重要であることが指摘された。

 このような認識にもとづき、本研究の後半で試みた保全生態学的社会調査は、人々の地域の自然に関する経験、認識、自然環境の状況に対する不安や再生への期待など、これまで注目されることの少なかった自然環境の変遷と人の心理的側面のかかわりを明らかにした。

 調査を通じて、地域の自然環境に対する人の認識力が、過去半世紀間で低下しつつある状況が浮き彫りとなった。これは、生態系自体の衰退と並んで、生態系の保全・修復ひいては持続可能な社会の構築に対するもう1つの課題となりうるだろう。このような社会調査を組み込んだ調査は、自然再生の社会的学習に関する効果の評価に応用することが可能であり、今後国内外で推進される自然再生事業の個別の現場で実施されることが望ましい。保全生態学が、学際領域として、社会と生態系のかかわりに関する統合的な情報整理と理論的基盤の提供に貢献しうる可能性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 20世紀を通じて人間活動の強い影響下で、地球規模、地域規模を問わず生態系の不健全化が加速的に進行した。1990年代になると、失われた健全性と生物多様性を取り戻すための生態系修復あるいは生態系管理の必要性が広く認識されるようになり、現在、世界中でさまざまな実践が進められている。日本でも「自然再生」が環境政策の一つとなり、各地で実践や事業が始まっている。自然再生においては、自然科学的なプロセスによる生態系の修復と同時に、それと密接に関係する人と自然のかかわりの再生がめざされる。自然再生はこれまでの経験が乏しい新たな人類の活動領域であり、多様な主体の協働による科学的で順応的な取り組みを進展させる上で、保全生態学が研究課題とすべき問題が数多くある。

 申請者は、自然再生における参加と協働における主要な課題とその解決の方向を見出すために、1)国内外の横断的な資料分析を通じた、自然再生の論理的根拠やその発展経緯の分析、および2)「保全生態学的社会調査」手法の開発とそれを用いた地域の自然にかかわる経験・知識・認識および再生イメージに関する世代間差異の分析を行い、保全生態学の立場から、人と自然のかかわりの再生としての自然再生に寄与することをめざした。

 研究の背景、目的、論文構成、主要概念の定義について述べた第一章に引き続く第二章では、国外、特に米国、欧州における生物多様性保全と修復に関する政策、法制度および運用状況を横断的に分析・整理した。その結果、欧米における生物多様性保全・修復の取り組みは、1)市民活動団体によるロビー活動や市民訴訟が政策意思決定へ与える影響力の高さ、2)行政機関や企業との協働関係構築などを通じた参加の仕組みの多様さ、3)保全・修復における参加と協働を推進するという社会的ニーズに即した学術研究の発展、などを特徴としていることが明らかとなった。

 第三章では、日本において、自然再生が政策的な課題として導入されるまでの経緯および自然再生推進法を中心とする現在の政策の特徴を整理した。現在、自然再生推進法の定める手続きによる事業、河川法の範囲内での事業、市民主導の実践など、多様な規模や特徴をもつ自然再生事業が実践されているが、それらに共通する課題としては、1)市民活動団体が行政や企業活動とならぶだけの影響力や実行力をもつまでには至っていないこと、2)社会全体の生態系保全への認識が必ずしも十分ではないこと、などが認められた。人々の参加意欲と自然環境の現状認識力を高めるための方策、すなわち、自然環境学習の機会の提供等の政策的対応が必要なことが示唆された。

 第四章には、佐賀県松浦川流域において実施されている自然再生事業の周辺地域を対象として「保全生態学的社会調査」手法の試行的な適用例が記されている。聞き取りおよび質問紙調査を通じて、地域の河川や水田・水路・ため池などの農業用水における水辺の自然環境の認識・自然体験および当該自然再生事業への関心・期待を世代別に分析したところ、自然体験のあり方、生物相認識の分類段階でみた粗密、事業への要望・参加意欲は世代間で大きく異なることが示された。見出された世代間差は、ここ数十年間の河川環境の変遷とそれに伴う人のかかわりの希薄化と関連させて解釈することが可能であった。

 第五章には、市民主導の自然再生の目標設定のために実施された、茨城県南部潮来地域の住民を対象とした聞き取り調査の結果が記されている。かつて水郷景観で有名であった潮来地域では、水辺は重要な人の営みの場であると同時に多様な生物の生育・生息地であった。しかし、近年の霞ヶ浦・北浦とその流域の大規模開発によって水辺の生態系の改変は著しく、すでに水郷らしい景観のほとんどが失われている。水辺の大規模開発以前に子ども時代を過ごした高齢層を対象に、水辺の自然を利用した営みと関わる知識・認識について聞き取りを行い、抽出された「伝統的生態学的知識」の生物多様性保全上の意義を解釈した。

 第六章には、当該地域の親・子・孫世代にあたる高・中・若年層に対する聞き取りによって、子ども時代の自然体験、身近な動植物に対する認識、および自然再生事業によって取り戻したいと思う自然等のイメージに関する世代間差を分析した社会調査の結果が記されている。身近な水辺における自然体験は、生年が下るにつれて低下し、実体験にもとづく在来動植物の認識率もそれに伴って低下した。それに対して外来の魚介類については若い世代ほど認識率が高かった。再生したい自然のイメージとその豊かさは、世代間で大きく異なっていた。すなわち、高年層は水質から景観、社会的心理的なものまで、多様で豊かな再生のイメージを描いていたが、中・若年層においては、ほぼ一様に水質に関するイメージに限定されていた。開発による水辺の自然環境の単純化と社会経済的な変化によってもたらされた体験的知識を得る機会と場の喪失が、人々の自然観とイメージの貧困化を招いていることが推測された。他方、市民主導の自然再生事業へ参加経験のある若年回答者の生物認識率が、参加経験の無いグループに比べて有意に高く、環境教育プログラムを重視する市民主導の再生事業は、かつては遊びなどを通じて伝承された自然環境に関する知識伝達の一部を代替する効果をもつことが示唆された。

 申請者の研究は、自然再生に関する世界的潮流と日本における政策と実践の現状を概観し、自然再生事業が実施されている地域において、自然科学的な生物相把握をベースとした社会調査によって、人々の自然環境に対する認識・知識および再生イメージの世代間の差異を抽出することに成功した。生物多様性保全・生態系修復の実践における中心課題であるにもかかわらず、日本ではこれまであまり分析されなかった自然に関する認識・知識・期待が子ども時代の自然体験と密接に関連している可能性があることを客観的に示した申請者の研究は、保全生態学における「人の側面」に関するアプローチの成功例であるといえる。ここで開発された調査手法は、国内外の自然再生事業における評価手法として応用されることが期待される。したがって、本研究は、学術面、実践面の両面できわめて大きな成果をあげたといえる。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値のあるものと認めた。

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