学位論文要旨



No 121713
著者(漢字) 三枝,暁子
著者(英字)
著者(カナ) ミエダ,アキコ
標題(和) 中世京都の寺社勢力と室町幕府
標題(洋)
報告番号 121713
報告番号 甲21713
学位授与日 2006.06.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第543号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村井,章介
 放送大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 吉田,伸之
 史料編纂所 教授 近藤,成一
 史料編纂所 教授 久留島,典子
内容要旨 要旨を表示する

序章―南北朝期の国家体制―

 序章では、本稿の内容が研究史上どのような意義を持つものであるのか確認するため、本稿が主として取扱う「南北朝期」の「寺社勢力」及び「京都」に関わる先行研究を取り上げ、そこからみえてくる課題を指摘した。「寺社勢力論」の前提となる黒田俊雄氏の「権門体制論」に対しては、様々な批判があるが、南北朝期という変動期における国家体制をみたとき、寺社勢力の動向が無視しえないものであった点などを重視するならば、継承すべき点も多くあるように思われる。しかし近年の南北朝期の国家論は、「公武関係」を中心に議論されている傾向にある。そこで「公武統一政権」をうちたてた足利義満の「王権」にとって「寺社勢力」がいかなる位置にあったのか、「王権」論を扱う先行研究を取り上げながら探ってみた。

第1篇 南北朝期の山門・祇園社と室町幕府

第1部 南北朝期における山門・祇園社の本末関係と京都支配

 ここでは、門前・境内を通じ都市空間を構成する重要な場であったとされる中世寺社と都市との具体的関係を探るため、中世京都の祇園社の支配構造について分析してみた。分析にあたっては、特に祇園社が山門末社であった事実に注目し、山門にとっても、祇園社のような京内末社との関係は、京都を支配する上で非常に重要な意味を持っていたことを明らかにした。具体的には、(1)南北朝期の祇園社は、本寺僧を上位に置く組織体制のもとで本寺の統制を受ける一方、社僧・公人・神人がそれぞれ山門大衆勢力と結び付いて活動を共にしており、本末関係は重層的な内容を持って展開していたこと、(2)祇園社の京中社領支配は、検断や地子徴収等を通じて行われていたが、社領に門跡領及び山僧の地主所有地を包含し、かつ他寺勢力との紛争時などに本寺勢力の実力行使を必要とした点に、本末関係の影響を見出し得ること、(3)一方山門は、座主・別当を頂点とする祇園社の組織構造を土台として、京内末寺領や門跡領の管領を祇園社を通じ行うとともに、山門公人による京中検断や他宗弾圧の際には人員的協力を求め、京都支配の重要拠点として祇園社を積極的に利用したこと、などの点を明らかにした。

第2部 南北朝期京都における領域確定の構造―祇園社を例として―

 ここでは、第1部で明らかにした祇園社の組織と社領支配の形態が、南北朝末期に変質していく事実に注目し、そこから中世都市京都における寺社領主権の特質やその領域の確定過程について検討した。具体的には、祇園社に下された至徳2(1385)年の官宣旨を読み解くことにより、南北朝期の祇園社において生じていた組織上の変化と、これに伴う社領支配上の変化について考察を進めた。至徳2年以前の祇園社は、天台座主及びその配下の山門僧を頂点とする組織構造を持ち、山門末社として、本寺の統制下で経営がはかられていたが、次第に山門の支配を排除した、新たな経営体制が敷かれるようになっていく。その背景に、祈祷を通じての、祇園執行と室町幕府将軍との密接な関係があったこと、室町幕府による京都市政権の掌握という状況下にあって両者の関係がより密接になっていったことなどを明らかにした。

第3部 中世犬神人の存在形態

 ここでは、これまで明らかにした、山門・祇園社の本末関係及び京都支配の展開を体現する存在である犬神人について分析した。その結果、山門が清水坂の「濫僧」を組織化し、直接的には、山門の末社である祇園社に「神人」として所属させることによって「犬神人」が生まれたこと、その背景に、新仏教勢力を「非人」と同類のものとみなし、「非人」に敵対させるという山門大衆の論理が存在したことが明らかとなった。また「犬神人」と「清水坂非人」・「坂者」とは実態としては同一のものであること、室町期になると、山門・祇園社の本末関係の変化を受け、山門が直接に犬神人を組織するため、新たな「坂」組織、すなわち「坂公文所」を整備するに至り、その統轄者となったのが、犬神人年預・山門使節の上林房であったことを指摘した。そして応仁・文明の乱をへて近世になると、坂者の弓矢町居住と癩者の物吉村居住という清水坂非人の〈分化〉がおこるとの見通しを述べた。

第2篇 中世後期北野社をめぐる社会構造

第1部 北野祭と室町幕府

 ここでは、南北朝末期における祭礼の復興・運営を通じた幕府の都市商人支配の展開過程を、北野祭を通じて考察することにした。

 まず北野祭は一条天皇の代にあたる永延元(987)年に始められた「官祭」であったこと、鎌倉期の北野祭は蔵人方が運営を奉行し、大蔵省・率分所の年預が祭礼用途を諸国から調達して執行されるものであったこと、三年に一度の三年一請会も、大蔵省が中心となって神輿修造のための点検を行い、費用の調達にあたったこと、しかしながら北野祭も三年一請会もいずれも南北朝期に変質することを明らかにした。その変質は経済基盤の変化として現れており、幕府寄進の料所や、将軍義満期に新たに設定された西京「七保」と大宿直「九保」への馬上役負担によって三年一請会・北野祭は運営されるようになっている。特に注目されるのは北野祭における神人への馬上役賦課であり、これが日吉小五月会馬上方一衆の創設による洛中日吉神人への祭礼役賦課と同時期に達成されていることは、決して偶然のことではなく、当該期の幕府に一貫した祭礼政策・神人政策が存在したことを示すものと考えた。

第2部 北野社西京七保神人の成立とその活動

 ここでは、第1部で取り上げた北野祭の変質と深く関わる西京神人の存在形態について考察した。西京神人が南北朝期には麹業を営むようになっていたこと、南北朝末期に造酒正による酒麹賦課が免除され、さらに室町期になると麹業を独占する権利を幕府から与えられるに至ったことを明らかにした。そして西京神人の麹業に対する幕府の優遇政策は、将軍と北野社社家松梅院との、御師職を通じての密接な関係を背景に、西京神人を七つの「保」ごとに組織し各「保」に北野祭の馬上役を負担させる、新たな祭礼役負担の方式の成立と一体化して進められたものであることを指摘した。しかし文安の麹騒動を契機として西京神人の麹専売権が失われ、応仁・文明の乱以後北野祭も行われなくなると「七保」の内実も変化したこと、そこに「保」を基盤とした地縁的結合の形成を見出しうる可能性のあることを指摘した。その上で西京神人の近世化についても検討し、近世の西京神人は、空間としての「七保」そのものが豊臣秀吉による京都の改造を契機に解体・変質していたため、系譜的には中世の西京神人とつながりつつも、その性格を変えざるをえず、神職化をとげたことを指摘した。

第3部 戦国期北野社の闕所

 ここでは、戦国期北野社の領主支配の展開について、闕所検断を中心に考察した。まず北野社の闕所の実態について分析をし、闕所となった家屋は必ず「検封」されたこと、その後その家屋が破却される場合とされない場合のあったこと、などを明らかにした。そして闕所屋が、「居屋」(建売)であろうと「壊屋」(解体資材の販売)であろうと、必ず「沽却」されていることから、戦国期の北野社の闕所屋処分において重要であったのは、破却することよりもむしろ「沽却」することにあったのではないかと考えた。次に、戦国期の北野社がこのような闕所屋処分の方式を選択した背景には、当時の社領に展開していた家屋売買・家屋所有の状況があるとみて、家屋の売買について考察した。その結果戦国期の北野社領においては、家屋の〈京出〉という事態が深刻化していたために、北野社が「壊屋」を禁止し、家屋の社領外への流通を必死で食い止めていたこと、家屋が領外へ流出していく原因には、「百姓」の家屋所有権・自専権の拡大や「家主」・「家持」層の台頭という問題のあったこと、一方領主北野社にとって屋地子収入の重要性は次第に増しており、そのために〈京出〉を阻止する必要のあったことなどを指摘した。その上で、闕所屋処分にあたり領主が闕所を通じ一方的に家屋を没収し、売却することに「土地所有関係の一新」という「祓」の意味を見出すことも可能であり、闕所屋の「沽却」があくまで「破却」にかわりうる検断行為を意味したものと結論づけた。

おわりに ―課題と展望―

 最後に本稿の簡単なまとめを行った上で、今後の課題として、(1)南北朝期から室町期における山門大衆の動向の分析、(2)中世後期の京都における土地所有の構造についての分析、(3)祭礼役・馬上役制度の展開と都市共同体の成立との関係の分析、の三点を提示した。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、中世京都における寺社勢力と室町幕府との関係を考察している。近年の研究によって、中世都市において寺社の存在がいかに大きな位置を占めていたか、またその寺社を室町幕府がどのように取り込んでいったか、が明らかにされつつある。しかし、都市と寺社と幕府の三つがどう関わっていたのかという問題となると、きわめて不明瞭であった。本論文はその三つの関係を明らかにしようと試みたものである。

 本論文が取り上げる寺社勢力は、中世の京都でとりわけ重要な位置を占めた祇園社と北野社、ならびに両社を末寺末社とする山門延暦寺である。序において、寺社勢力研究の意義と二つの神社をとりあげることの意味を語ったのち、第一部では「南北朝期の山門・祇園社と室町幕府」と題し、山門・祇園社間の人的・物質的関係を明らかにするとともに、双方が京都支配とどう関わっていたのかを、所領支配や経営の実態、将軍による御師職補任の意義、さらには双方に組織された非人身分の犬神人や坂者の存在形態を通じて明らかにしている。第二部では「中世後期北野社をめぐる社会構造」と題し、北野社の祭礼への室町幕府の関与に着目しつつ、北野社に組織された西京七保とそこに住む神人の活動、また北野社によって罪科を理由に家屋が没収されたり売られたりする習俗を考察して、都市に生きる人々の動きの一端を明らかにしている。

 このように本論文は、京都の寺社勢力に視点をあてて、室町幕府という権力とのかかわり、都市に生きる人々とのかかわりの双方を、立体的に捉えることに成功した。提示された新たな知見のおもなものは、つぎの三つである。(1)南北朝時代京都の都市民衆の動向を、祇園社の記録を丹念に読み込んで明らかにした。(2)差別された犬神人や坂者などの実態を、研究史の批判的検討を通じて明快に解き明かした。(3)御師職を通じて将軍が祇園社と北野社を独自に組織化し、山門の支配下から切り離していったことを指摘した。なかでも(3)と関わって、幕府が朝廷の権威をふりかざしつつ寺社勢力を独自に組織化した画期が南北朝最末期にあったことを実証した点は、室町幕府研究にも裨益するところが大きい。

 もちろん、安易に権門体制という概念をあてはめていたり、史料の読みに若干の問題があったりなど、不満を感じさせる部分は認められる。とはいえ、本論文が提示した室町時代の幕府と都市、寺社の関わりについての指摘は、今後の研究の大いなる基礎をなすものである。委員会はこの点を高く評価し、博士(文学)にふさわしい業績と認めることで一致をみた。

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