学位論文要旨



No 121725
著者(漢字) 佐藤,桐子
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,キリコ
標題(和) 古英語散文における格形から前置詞構文への発達
標題(洋) The Development from Case-Forms to Prepositional Constructions in Old English Prose
報告番号 121725
報告番号 甲21725
学位授与日 2006.06.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第675号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 寺澤,盾
 東京大学 助教授 大堀,壽夫
 昭和女子大学 教授 小川,浩
 首都大学東京 教授 井出,光
 東京大学 助教授 小林,宜子
 駒澤大学 教授 久保内,端郎
内容要旨 要旨を表示する

 英語は、歴史的に見ると、総合的言語から分析的言語へと変化した言語である。この変化を示す重要な例として、屈折語尾の衰退とともに、格形が前置詞構文に取って代わられたことが挙げられる。古英語では、格形と前置詞構文が共存しており、同じ機能を果たすことがあったことは良く知られている。そこで、古英語の時代に、格形と前置詞構文の占める割合に変化があったかどうかについてであるが、先行研究は、「古英語期には大きな変化はなかった」という結論で一致している。しかし、極めて短い抜粋を調査していることや、異なる格や機能を区別せずに数えているなど、研究方法に従い難い点があり、この結論にはなお疑問の余地がある。

 本研究の目的は、古英語における格形から前置詞構文への歴史的発達を明らかにすることである。そして、歴史を辿ると同時に、テクストの文体に着目し、作品固有の文体的特徴と統語上の問題との関係について考察しながら論を進める。調査するテクストは、初期古英語として、The Parker Chronicle (ChronA), Boethius' Consolation of Philosophy (Bo), Bede's Ecclesiastical History of the English People (Bede), 後期古英語として、AElfricによる Catholic Homilies の第一集 (AECHom) と Lives of Saints (AELS), Wulfstanの説教集(WHom)の合わせて6作品である。文体的な観点から言えば、初期古英語テクストのうち、ChronAはオリジナル散文、Boはラテン語原典の自由訳、Bedeはラテン語原典に忠実な訳であり、後期古英語テクストでは、AElfricによる2作品のうち、AECHomの大部分は普通の散文体、AELSは、殆どがリズミカルな散文、WHomはWulfstanによるリズミカルな散文である。また、調査は、格形と前置詞構文が共存していた機能(または構文)に限定して行う。即ち、(1)手段・様態、(2)付随、(3)時点、(4)期間、(5)起源、(6)場所の特定、(7)独立与格である。

 論文の第1章から6章で、上で挙げた6テクストの調査を行った結果、格形・前置詞構文が合計で1937例あり、その分布は表1のようにまとめられる。

この結果から、歴史的変化・文体的特徴について、以下のように結論付けられる。

歴史的変化

 前置詞構文の比率で見ると、初期古英語では平均して43.1%であるが、後期古英語では、78.5%であり、前置詞構文が増加し、逆に格形は減少している(表1参照)。この結果は、「大きな変化はなかった」という先行研究の結論とは違い、古英語期に重要な変化があった、ということを示している。

 機能別に見ると、(1)手段・様態、(2)付随、(3)時点、(4)期間、(5)起源では、程度の差はあるものの、いずれも後期古英語では、前置詞構文への傾斜を強めている。一方、(6)場所の特定では、前置詞構文が大幅に減少し、格形が増加し、また、(7)独立与格では、初期古英語では格形の例が1例あるのみで前置詞構文は皆無だが、後期古英語では、格形が37例、前置詞構文が16例と、格形・前置詞構文の両者に増加傾向が見られた。この点については、次の「文体的特徴」で詳述する。

 また、本研究では格形と前置詞構文の選択に意味が関与することを明らかにした。例えば、「手段・様態」では、「様態」には格形が使われる傾向があるが、「手段」の意味では前置詞が好まれる。また「期間」では、長い期間であることを強調する場合に特に前置詞を使う、と言える。

文体的特徴

 表1から分かるように、同時代のテクスト間でも、格形・前置詞構文の比率に大きな相違があるが、これは個々の文体的特徴によるところが大きい。古英語テクストはそれぞれ固有の文体的特徴があり、テクスト間での統計上の違いは、この点との関連で吟味しなくてはならない。

 まず、テクスト毎の重要な特徴を挙げる。初期古英語の場合、Bede ではBoより格形の比率が高く、Bedeにおけるラテン語原典の強い影響を反映している。しかし一方で、BoでもBedeでも、格形・前置詞句の選択に意味が関与することもあり、「Bedeは常に"over-literal"というわけではない」と主張したWhitelockの説を裏付けることが出来る。また、ChronAに含まれるCynewulfとCyneheardの記述など、一般に特異な文体であると認められている箇所について、格形・前置詞句の用法に関しても他とは違う特徴があることを明らかにした。後期古英語では、格形は、AECHom、AELS、WHomの順で高くなるが、このことは、リズミカルであるかどうかということとある程度関係があると思われる。

 次に、より巨視的な視点から、古英語散文の文体的発達について考えたい。Bruce Mitchellは、Old English Syntax (1985, §3948)において、初期古英語散文の文体を"sometimes stiff and unwieldy"と評し、一方でAElfricやWulfstanなどの後期古英語散文を"more flexible, more controlled, more varied"と評している。また、Fernand Mosse も、Esquisse d'une histoire de la langue anglaise (1958, p. 39) で、Alfredや彼と同時代の作家の文体はAElfricの"mature"な散文には到底及ばない、と述べている。本研究で行った文体の考察は、ラテン語原典の古英語テクストへの影響の仕方が、MitchellやMosseの主張する散文文体の発達と無関係ではないことを示した。Bedeでは、「手段」・「時点」を表す格形や「期間」を表すpurhが、ラテン語の逐語訳として使われ、これらは他のテクストでは、極めて稀、又は皆無である。一方、AElfricの散文では、逐語訳とは異なった形でラテン語が重要な役割を担っている。即ち、AElfricは、ラテン語の統語法を模範とし、それを英語に応用しているのである。これは、「場所の特定」と「独立与格」の用法に見られ、特に、独立与格は、従来ラテン語の逐語訳とされてきたが、AElfricでは約半数が原典に対応がなく、AElfric自身の文体と考えられる。実際、原典の文を短くする、文と文の従属関係を明確にする、など独立与格の持つ効果がAElfricの文に認められることは、これが彼自身の文体であることを強く裏付ける。さらに、AElfricは独立与格の用法を拡大し、分詞の代わりに形容詞を用いた例や前置詞を付けた例が、特に彼の後期の作品に現れた。このような独自の変化も独立与格が単なる逐語訳ではないことを示す根拠である。従って、AElfricの散文のシンタックスを考える際、彼がラテン語に精通していたという事実は看過できない。また、AElfricの散文の優れた点は、リズミカルな文体の発達にも認められる。AECHom とAELSでは、後者のほうが格形を好むが(表1参照)、より短く簡潔な格形が、リズミカルな文体に合っていたことが理由の一つだと考えられる。また、AELSでは稀に前置詞が頭韻を踏むこともあり、構文の選択と文体に関連があることを示している。

 最後に、WHomではAElfricよりも格形が好まれ、全体の約3分の1を占めており初期古英語に近い。このことは、一般的に古英詩において格形が好まれたようにWulfstanのリズミカルな文体でも格形が好まれた、と考えて良いかもしれない。しかし、先行研究の多くはWulfstanの言語は現代的であるとの見方で一致しており、本研究の結果はこれとは全く逆であるが、この問題については今後の課題としたい。

残された問題

 今後に残された問題について特に重要なものを三点挙げたい。一つ目は、本研究が明らかにしたように、機能によって前置詞の発達の早さに違いがあるが、この違いを言語学的な立場から説明しようとする試みはされておらず、考える価値があるかもしれない。二つ目に、中英語でも、ある特定の文脈ではhis own hand(s)などの格形が残っており、本研究の調査を中英語の時代へ広げることが可能であると思われる。三つ目に、統語と文体の問題、中でもAElfricの散文の文体についてさらに研究の余地があると思われる。本論で扱った格形・前置詞構文以外にも、beon/wesan gepuhtや原因を表す接続詞のswelceなどラテン語を模範としたであろう構文がAElfricにあり、それらはラテン語原典に対応がない場合もある上に、文体的な効果も認められる。このような表現について、本研究で行ったようにテクスト固有の文体的特徴を考慮に入れ、英語の歴史的変化という大きなコンテクストの中で考えることで、古英語の統語と文体についてさらに理解を深めることが可能であると思われる。

表 1 格形と前置詞構文の頻度

審査要旨 要旨を表示する

佐藤桐子氏の博士論文The Development from Case-Forms to Prepositional Constructions in Old English Prose(古英語散文における格形から前置詞構文への発達)は、「総合的言語から分析的言語へ」という英語史における一大言語変化について、古英語期における格形(総合的表現)から前置詞構文(分析的表現)への移行に焦点を当てて論述したものである。資料として用いられた古英語テクストは、前期古英語の3つの散文作品(The Parker Chronicle, Boethius, Bede)および後期古英語の3つの散文作品(AElfric's Catholic Homilies の第1部, AElfric's Lives of Saints, Wulfstan's Homilies)である。

第1章から第6章では、上記6つのテクストそれぞれにおける格形・前置詞構文の使用頻度について「手段・様態」、「付随」、「時点」、「期間」、「起源」、「特定化」、「独立与格」などの機能別に綿密に考察が加えられ、以下のような結論が得られた。まず歴史的変化については、前置詞構文の比率は、前期古英語のテクストでは平均して4割強であるが、後期古英語では、8割近くに上昇し、「古英語期において格形と前置詞構文の比率については大きな変化がなかった」とする先行研究の結論を否定するものとなった。また、機能別に見ると、「手段・様態」、「付随」、「時点」、「期間」、「起源」では、いずれも後期古英語では、前置詞構文への傾斜を強めている一方、「特定化」と「独立与格」では、逆に格形が増加、または格形・前置詞構文の両者に増加の傾向が見られる。従って、全体としては、前置詞が増加する傾向にあるが、機能によって違いが見られる。また、格形・前置詞の選択において、意味の違いや微妙なニュアンスの違いが関わることもあり、例えば、「手段・様態」では、「様態」には格形が使われる傾向があるが、「手段」の意味では前置詞が好まれること、また、「期間」では、長い期間であることを強調する場合に特に前置詞を使う傾向が認められる。

古英語期では、格形から前置詞構文への移行という一般的な変化の傾向が見られる一方、同時代のテクスト間でも、格形・前置詞構文の比率に大きな相違があることを、佐藤氏は明らかにしている。テクスト間での統計上の違いは、個々のテクストにみられる固有の文体的特徴との関連で吟味される。例えば、前期古英語では、Bede はBoethiusより格形の比率が高いが、これは、Bedeにおけるラテン語原典の強い影響を反映しているとする。後期古英語でも、格形の頻度は、AElfric's Catholic Homilies、AElfric's Lives of Saints、Wulfstan's Homiliesの順で高くなるが、これは、リズミカルな文体との関連で解釈される。最後の第7章では、結論が述べられ、さらにより巨視的な視点から、古英語散文の文体的発達について議論される。

以上が本論文の概要であるが、古英語における格形と前置詞構文の頻度と分布の推移を、ただ事実を指摘するだけでなく、その事実を「歴史的変化」と「文体的差異」という二つの要因を軸として綿密にかつ丁寧に議論している点がいずれの審査委員によっても高く評価された。「文体的差異」の例としてあげられた、後期古英語のAElfricとWulfstanの説教散文の間に見られる格形・前置詞構文の用法の違いについても、将来への発展性を含んだ問題であるとの意見があった。また、従来あまり深く論じられることのなかった、機能ごとの格形・前置詞の分布の調査に関しても好意的な評価を受けた。

一方で、本論文には以下のような問題点も指摘された。まず、本研究における佐藤氏の主たる関心が、「歴史的変化」にあるのか、それとも個々のテクストの共時的な「文体的差異」にあるのか、ところどころ揺らぎが見られるという論評があった。また、本論文のキーワードのひとつである「文体」についても、その定義がやや曖昧であり、文体という概念自体への考察も不十分であるという批評もあった。さらに、佐藤氏が調査対象にした6つの古英語散文の選び方にも問題点が指摘された。

 こうした欠点は見られるものの、佐藤氏の論文は、古英語期の格形と前置詞構文に関するこれまでにない詳細な研究であり、将来へのさまざまな発展の可能性を含んでおり、全体として学術的な価値が高く、この分野における優れた研究成果として十分に評価に値するものである。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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