学位論文要旨



No 121734
著者(漢字) 兼岡,理恵
著者(英字)
著者(カナ) カネオカ,リエ
標題(和) 風土記受容史研究
標題(洋)
報告番号 121734
報告番号 甲21734
学位授与日 2006.07.12
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第545号
研究科 人文社会系研究科
専攻 日本文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 長島,弘明
 東京大学 教授 藤原,克巳
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 教授 佐藤,信
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、和銅6(713)年撰進詔によって編纂された風土記が、各時代どのような要請のもと、どのような人々に受容されてきたのかという問題意識に基づき、風土記編纂より江戸後期までの風土記受容の史的変遷を考察したものである。

 第I部「律令国家と風土記―古代―」では、奈良時代初期の律令国家形成期における風土記編纂の背景、そして律令制が崩壊していく平安期における風土記受容を考察した。

 第一章「風土記編纂資料の重層性」は『出雲国風土記』『常陸国風土記』を取り上げ、風土記編纂に用いられた資料の多様性を論じた。前者『出雲国風土記』では、「八束水臣津野命」と「意美豆努命」という同一神とみなされる神が出雲郡・杵築郷条とその直後の伊努郷に登場するという事実より、郷ごとに別の資料が作成されていた可能性を指摘し、また「意美豆努命」「八束水臣津野命」の相違について、前者が在地的な神であるのに対し後者はその勢力範囲が広域化した神であること、さらに出雲郡全体を統治しうる神としての「所造天下大神」の存在を論じた。一方『常陸国風土記』では、総記・国名起源譚と新治郡・郡名起源譚の類似性について、前者は後者の説話を摂取したものであり、その成立には、新治郡が常陸で最も早く開発された土地という歴史背景とともに、普通名詞として讃め詞である「新治」を含むことが、律令制下の一国「常陸国」の由来を語る際、常陸国をことほぐという伝承上の効果を生み出していることを指摘した。

 第二章「『常陸国風土記』行方郡説話」では、『常陸国風土記』収載の行方郡の説話を扱った。行方郡は653年茨城郡と那賀郡を分割して成立した郡であり、いわば行政区分として人為的に定められた新しい地域共同体である。そのような歴史背景が、倭武天皇の一連の巡行説話によって郡名その他の地名起源譚に示されていることを指摘した。また行方郡の説話が、郡中央の脊梁山脈を境に東・西グループに分かれ、倭武天皇が登場する前者は大和朝廷の支配が早くに及んだ地域とする一方、倭武天皇が登場しない後者の「古...」と語られる説話は、古東海道が通る地域であり、その駅家等で古伝承が採集された可能性を指摘した。

 第三章「『常陸国風土記』編纂の思想―郡名風俗諺記載の意味―」は、同風土記郡名起源譚の注記にある「風俗諺」という詞章に注目し、「風俗諺」という語自体の意味を探ることを端緒として、編纂者が当詞章を記載した意味を考察した。その結果「風俗諺」は、まず「風俗」という語が、漢籍における為政者が民を導く「風化」の理念に支えられた言葉であり、それを儒教的思想を摂取した編纂者―国司が使用したこと、また郡名風俗諺の統一した形式は「風化」の理念に関わる「音の統一」に通じるものとし、さらに同時期の風俗の統治政策は、六国史の「風俗」用例からも窺えることを指摘した。

 第四章「「良吏」と「風土記」―九〜十世紀の風土記受容―」は、風土記が各地の国庁で保存・利用された具体例として、九世紀の文人官人・菅原清公編纂の地誌「尾州記」を取り上げた。本書は清公が尾張国司時代に編纂したと推定されるが、成立の背景には、当時理想の国司―「良吏」の営為として地誌編纂が位置づけられていたことを、十世紀前半の三善清行『意見封事十二ヶ条』、十一世紀初の大江匡衡の漢詩集『江吏部集』等から明らかにした。

 第II部「風土記をめぐる歌人の系譜―中世―」では、地方行政の在り方が変貌した十一世紀以降、風土記受容も従来の行政文書としての利用から歌学書・歌合判詞など歌学における利用に変化し、その中で特に風土記と関連の深い人物を取り上げて考察を進めた。

 第一章「真観と風土記」では、十三世紀半ばの反御子左派中心歌人・真観に注目し、彼が著作『簸河上』で風土記を高く評価している点、それは真観の、歌枕の由来や現地に対するこだわりに起因することを指摘した。さらに『万葉集註釈』著者・仙覚と真観の交流に着目し、従来より疑問とされている仙覚の風土記利用に、真観の援助の可能性を論じた。

 第二章「玄覚と風土記―『万葉集註釈』書入注記―」は、仙覚『万葉集註釈』伝写に貢献した人物・玄覚に関して、冷泉家時雨亭文庫所蔵本・国文学研究資料館所蔵本『万葉集註釈』より確認できる彼の「書入注記」から、玄覚と風土記の関連を考察した。その結果、玄覚が複数の風土記を披見し、それには仙覚同様、真観の存在が推測されることを指摘した。また『摂津国風土記』逸文二条は、玄覚書入注記によって現在まで伝えられたことを再確認した。

 第三章「定為と風土記―高松宮家旧蔵『袖中抄』紙背文書―」は、高松宮家旧蔵(現・国立歴史民俗博物館所蔵)『袖中抄』紙背文書にみえる、永仁年間の風土記書写の背景を論じた。そして定為が確かにこの紙背文書にある国の風土記を披見し、そこに玄覚の関与が推定されること、さらに第II部第一章以来の検討より、真観、仙覚、玄覚、定為という一連の風土記をめぐる系譜が想定されると論じた。また当時、二条派歌人の間で風土記の流通があった可能性を、同紙背文書の「済言」書状から指摘した。さらにこうした二条派歌人間の風土記流通は、為世流歌学書『悦目抄』における風土記重視と表裏を成すものと論じた。

 第四章「南北朝〜室町期の風土記受容」では、南北朝〜室町期に見える風土記受容の具体的事例を取り上げた。まず前田家本『玉燭宝典』紙背文書の風土記書写関連書状より、足利直義の風土記への関心、また直義を含めた二条派歌人の間で風土記書写が行われ、南北朝期でも複数の風土記所持者がいたことを指摘した。次に連歌師の紀行文における風土記への言及を取り上げた。宗久『都のつと』では、古風土記が地方の伝承を記す第一の書とされていたこと、さらに連歌師の手で「風土記」と称される新たな地誌が創出される可能性を指摘した。また里村紹巴『天橋立紀行』では、現地におけるガイドブックとしての風土記利用という江戸時代の利用法の先蹤となる例を確認した。さらに中世における風土記訓読の可能性を示す文献として、一条兼良『尺素往来』を紹介した。

 第III部「風土記の再発見―近世前〜中期―」では、天下統一後、古典籍尊重の気運が高まる十七世紀から十八世紀初の、主に幕府・諸藩を中心とする風土記受容を検討した。

 第一章「林羅山『諸国風土記抜萃』」は、林羅山『諸国風土記抜萃』の転写本(東京大学総合図書館所蔵)の概要を紹介した。そして同書の羅山の逸文採択は、必ずしも風土記に限定されずあくまで草稿に留まる点などから、「最初の風土記逸文採集者」という羅山の風土記逸文研究における位置づけは過大評価であること、また本書と羅山『本朝神社考』成立の関係を指摘した。

 第二章「『常陸国風土記』再発見前夜―藩撰地誌『古今類聚常陸国誌』―」では、水戸藩の藩撰地誌『古今類聚常陸国誌』を取り上げ、その編纂背景に、当時幕府・諸藩に地誌編纂の気運があり、それは『大明一統志』などの中国地誌からも影響を受けていた点を論じた。また『古今類聚常陸国誌』には風土記逸文の採択が見られる点、さらに「近世偽風土記」とされる『日本総国風土記』成立年代推定の傍証となりうる点でも、風土記受容史上重要な史料であることを確認した。

 第三章「前田綱紀と風土記」では、前田綱紀と風土記の関わりとして、彼の風土記所持状況、三条西家本『播磨国風土記』修復、風土記逸文採択を確認し、中でも三条西家本『播磨国風土記』修復は、同写本の価値、そして存在そのものを綱紀が見出したという点の重要性を指摘した。

 第IV部「風土記の伝播―近世中〜後期―」は、人・モノあらゆる面の流通が拡大した江戸中期以降の風土記受容について検討した。

 第一章「風土記と近世紀行文―今井似閑『橋立の道すさみ』―」は、風土記逸文採集書『万葉緯』編者・今井似閑を扱い、彼の紀行文『橋立の道すさみ』(附章として翻刻・補注を示した)から、『万葉緯』・似閑と風土記の関係を考察すると同時に、本書が当時流行した貝原益軒の紀行文の影響を受けている点を指摘した。さらに当時は、旅の興隆・紀行文の流行により「外部の土地」とともに「自分達の土地」に対する関心も高揚した時代であり、その両者が絡み合った結果「風土記」へも意識が向けられたことを指摘した。

 第二章「『万葉緯』伝写をめぐる人々―谷川士清校正本『万葉緯』巻十八「諸書所引風土記文」―」では、伊勢の国学者・谷川士清が校正した『万葉緯』巻十八の四つの写本検討を通じ、同書をめぐる人的交流を明らかにするとともに、士清・宣長などの国学者の活躍を支えた、樋口宗武・荒木田尚賢などの存在の重要性を指摘した。

 第三章「「風土記」の希求―南葵文庫旧蔵『風土記逸文』―」は、東京大学総合図書館所蔵『風土記逸文』(南葵文庫旧蔵)・『風土記逸文』(田中文庫旧蔵)の検討により、両本が『万葉緯』巻十八を参考にしつつ、諸書より風土記逸文を採択した本であることを論じた。また写本の作成者である阿波の国学者・野口年長、新居正方に関して、年長の随筆『粟の落穂』を手がかりに、彼らの土地に対する関心と、十九世紀以降再び盛んになった地誌編纂事業との関連を考察した。そして為政者が治国のために地誌を編纂した時代から、自らの土地の歴史を知るべく風土記を希求するという動きがこの時代に顕在化することを指摘した。

 風土記受容の在り方は各時代に相違はあるものの、その根底に共通するのは、人々が自分達の存在を土地の歴史によって確認しようとする思いであり、それは地域社会がゆらぐ時期に必ず風土記が注目されるという、本研究で確認した風土記受容の様相が示している。

 また「風土記」という言葉は、土地に根付いた人々の営みを喚起させる力を有しており、自分自身の地域の歴史を知ることで自己の存在を確認したいという思いが、人々を「風土記」に向かわせたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「風土記」研究に、受容史という観点から切り込んだ、視野のきわめて大きな、卓越した内容の論である。全四部十四章からなり、さらに序章、終章を置く。

 本論文の問題意識は、まことに鮮明である。すなわち、後代のさまざまな書籍に引用される「風土記」の逸文が、なぜその書籍に引用されることになったのかを探り、「風土記」をめぐる知のネットワークとも言いうる人的交流のありかたを、時代を追って具体的に解明することが、本論文の目的になる。もっぱら古風土記の復原をめざし、「記紀」や『万葉集』研究の補助資料として「風土記」の逸文を利用するこれまでの研究を大きく凌駕する、斬新かつ意欲的な成果が示されている。

 以下、論の順序に従いつつ、本論文が明らかにしえた新たな知見を簡単に要約する。

 「第I部 律令国家と風土記―古代―」は、『出雲国風土記』『常陸国風土記』の地名起源譚の分析を中心に、原資料をどのように利用しながら、それらの「風土記」が編纂されていったのかを明らかにする。とくに、常陸国行方郡の地名起源譚が、その東西で質的な相違をもっていたことを指摘し、また『常陸国風土記』の郡名起源譚の注記の「風俗諺」の意味を、国司の律令国家の意識に支えられた編纂行為の結果と明確に意味づけたことは、「風土記」研究を確実に一歩進めたものといえる。さらに、『塵袋』所引の菅原清公「尾州記」の検討を通じて、九世紀〜十世紀の国庁に保存されていた「風土記」を、当時の「良吏」が実務に利用していた事実を明らかにしたことも、注目すべき成果といえる。

 「第II部 風土記をめぐる歌人の系譜―中世―」は、中世の歌人たちの間で、「風土記」の関心が高まった事実を、歌学書の分析を通じて明らかにする。とくに注目すべきは、鎌倉歌壇の指導者であった真観の事績を詳細に跡づけることにより、仙覚の『万葉集註釈』の「風土記」利用に真観が介在した可能性を初めて指摘したことであり、さらに真観から玄覚あるいは二条定為へ流れる「風土記」への関心を探索することで、これまで見過ごされてきた当時の歌壇における人的なつながりをあらためて明確にしえたことである。これにより、二条家歌学為世流の『悦目抄』の「風土記」尊重の理由も明らかになったといえる。

 「第III部 風土記の再発見―近世前〜中期―」は、中国明清時代の地誌の大量輸入にともなう地誌への関心が「風土記」再発見の機運を生み出したことを具体的に跡づける。とくに水戸藩における藩撰地誌『古今類聚常陸国誌』成立の過程を精査し、「風土記」逸文収集の最初期の例と意義づけたことは、重要な指摘である。さらに加賀藩五代藩主前田綱紀の古典探索・書写の事績を丹念に追い、三条西家本『播磨国風土記』の発見者が綱紀であったことを明らかにしたことは、大いに評価しうる。

 「第IV部 風土記の伝播―近世中〜後期」では、近世最大の「風土記」逸文の集成である今井似閑『万葉緯』の編纂・伝写の過程をたどることで、当時の国学者相互のネットワークのありようを具体的に解明する。さらに南葵文庫旧蔵『風土記逸文』編纂の背景を明らかにすることで、地方の知識階級にまで地誌への関心が及んでいた事実を指摘する。なお、紀行文『橋立の道すさみ』が今井似閑の作であることを初めて断定するとともに、その詳細な注釈を試みており、これまた大きな成果といえる。

 このように、受容史という観点から「風土記」研究に挑んだ本論文は、いくつもの新見を提示するなど、まさに画期的な成果を示しており、一部を除いて「風土記」そのものを対象にしえなかったという憾みはあるものの、その内容は高く評価しうる。よって審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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