学位論文要旨



No 121738
著者(漢字) 辻,直人
著者(英字)
著者(カナ) ツジ,ナオト
標題(和) 近代日本における海外留学の性格変容に関する史的研究 : 文部省外国留学生・同在外研究員の派遣実態を中心に
標題(洋)
報告番号 121738
報告番号 甲21738
学位授与日 2006.07.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 教授 汐見,稔幸
 東京大学 教授 佐藤,一子
 東京大学 教授 金子,元久
 東京大学 助教授 西平,直
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、近代日本において、一大国家事業だった留学が実態として多様化していく過程を明らかにすることを課題として、特に文部省留学生の変容に関する分析を中心に考察した。

 遅れて近代化を開始した日本にとって先進諸国の科学技術や学問の輸入は不可欠のものであり、明治初期から文部省が派遣した留学生はその役割の中心を担って来た。しかし、現代においては、留学はそのような目的でなされるよりも、国際交流を目的とする留学を初め、多様化している。そのような変化は、いつ、何をきっかけとして起きたものだったのだろうか。文部省留学生の制度についての先行研究は、時期的には明治期まで、方法的には個々の帝国大学あるいは留学生個人を対象とする研究が中心であった。すなわち上記の変化を含む長期間を対象とした、客観的なデータに基づいた研究は行われてこなかったといえる。本研究ではそのような認識にたって、まず実態として文部省留学生はどのように派遣されてきたのか1875年から1940年まで、計3180人についてのデータベースを作成し、そのデータに基づきながら留学の性格の変化を考察する方法をとった。そして本研究においては、文部省留学生の派遣目的に大きな変化が起きたと思われる1920年代を考察の中心とした。変化の要因として、文部省留学制度が国内の高等教育拡充に対して担ってきた役割を重視すると共に、留学に直接影響を与えた外交関係や国際交流の観点も踏まえて考察した。本研究において得られた結果は、以下のとおりである。

 第1部第1章では、筆者が作成した文部省留学生データベースの分析を行い、65年間にわたる所属別、分野別、留学先別の変化を数量化して、派遣動向の概観を明らかにした。文部省留学生は帝国大学所属の者が最も多く派遣されているが、大正期の高等教育機関拡充と呼応する形で、1919年を境に他の直轄学校所属者も多く留学生として選ばれるようになり、特に高等学校所属者の増加が最も多くなっていた。分野別には自然科学系の方が多く選ばれていた。留学先としては、先行研究で「ドイツ主義」と称されているようにドイツが最も多くなっているが、派遣開始当初の1875〜1879年及び第一次世界大戦期間中の1915〜1919年は少ない。第一次世界大戦を機にアメリカ留学が増え、対戦終結後は米独両国への留学生数が拮抗していたことが判明した。

 第1部の分析を受けて、第2部と第3部においては、具体的な事例を取り上げ、近代日本における海外留学の特質やその変容を明らかにした。第2部では、高等教育拡充問題と留学生派遣についての考察を課題とした。

 第2章は、東京及び東北帝国大学からの留学生選抜を中心に、帝国大学の新設拡張と留学生派遣問題について検討した。文部省留学生制度開始当初は東京(帝国)大学の教員養成を主たる目的で派遣されており、留学生の選抜も文部省が行っていた。しかし、1899年からは新設帝大や直轄学校の教員補充という新たな目的が出てきたため、東京帝国大学からの留学生選抜方法も代わって、大学側から文部省に上申する形になった。東北帝国大学からは新設以来文部省に上申された人は順に選抜され留学生として派遣されていた。帝国大学からの留学生選抜が優先されていた実態が明らかになった。

 第3章は、直轄学校からの留学生派遣について、高等学校からの選抜を中心に検討した。1919年以前の留学生選抜は帝国大学と新設直轄学校(主として実業専門学校)の教員補充が主眼であって、高等学校からの留学生(特に理系)はそれらの大学・学校に帰国後異動することが想定されていた。しかし1919年以降、1920年の「在外研究員」改称後本格的に、高等学校も留学生の派遣は自校の教員養成のために活用出来るようになった。

 以上の考察を通して、第2部では、文部省留学生制度が1919年頃までは帝国大学の整備を中心的目的として運用されていた実態が、1920年頃からは直轄学校全てを対象とした教員養成が実施されるようになったこと、すなわち文部省の高等教育拡充計画との関係で留学生派遣制度の運用に変化が生まれていたことが明らかになった。1899年の文部省による「八年計画」で示された留学生派遣計画を、1900〜1910年代の高等教育機関増設時期の留学生派遣実態と照らし合わせてみると、時期的に多少の遅れはあるものの、帰国後の留学生を新設・拡張されて新たな教員が必要とされる部署に重点的に配置していったことが解った。その後1920年頃になると、留学生の選抜に関しては文部省主体から各直轄学校主体へと変化し、各学校の希望がほぼ叶う形で運用されていった。選抜方法は上申された候補者が留学生としてほぼ全員機械的に採用されており、制度としては形式化していった。これらのことから、文部省留学生派遣制度は、文部省の強力な主導に基づいて高等教育機関を創設する役割から、その維持に重点が移ると共に、更に専門学校や高等学校など多様な教育機関の質的向上へと力点を移して変容していったと言えよう。

 第3部は留学の多様化過程を、留学を取り巻く国際環境の影響を考慮しながら検討した。

 第4章では、日米間の外交問題が新たに日本から情報を発信するスタイルの交流を生み出したことを明らかにした。それまでは、アメリカには日本人の私費留学生が大量に渡っていたが、留学生や移民らの大量移入により引き起こされた排日運動がきっかけになって、日本はアメリカに対して日本文化を紹介する教育事業を始めることとなった。最も大きな事業の1つが、スタンフォード大学における日本学講座の開講だった。「対米啓発運動」と称されたこの一連の動きは、国が主体的に教育的行為による国際交流という現象を始めたという点で意義がある。それまで、国は一方的に外国の文物を輸入する<留学>に力を入れてきたが、日本から情報を発信することにも目を向け始めたのである。

 第5章では、「対米啓発運動」が実施されている最中に起きた第一次世界大戦の文部省留学生に対する影響を考察した。第1章でも触れたように、文部省留学生の主たる留学先はドイツであった。それが、大戦でヨーロッパが戦場と化し、留学生は留学先の変更を余儀なくされた。その中で文部省が選んだ留学先はアメリカだった。しかし、留学先を変更してアメリカに渡った大正期の留学生たちは、余り現地での経験に満足出来なかった。アメリカ学術界を、実用主義的、実地的で余り学術的にはレベルが低いと評価していたのである。アメリカ留学により、文部省留学生たちは日本の学術レベルの高さを実感することになった。単に教えを請うだけでなく、共同研究をしたり、より高度なレベルでの研究を受けられたりするようになった。もはや一方的に文物を輸入するだけの<留学>行為ではおさまらなくなってきたのである。

 第6章は、第一次世界大戦終結後の世界状況の変化が日本の留学にどのような影響を及ぼしたかを考察した。大戦中にアメリカ留学を経験した文部省留学生たちは、大戦終結と同時に再びドイツを目指すようになる。文部省留学生のドイツ主義傾向は対一次世界大戦後も変わらなかった。しかし、ドイツは大戦以前のような状況ではなかった。敗戦後の混乱と、国際学会におけるドイツの排除という事態を受け、逆にドイツでは日本人を受け入れない動きが見られるようになった。このような日独教育関係の悪化を懸念した人たちにより、「日独文化協会」がベルリン及び東京で開設され、日独両国間の相互理解のために、留学生の研究援助のためにも用いられた。文部省も積極的に予算を組み補助金として差し出している。一方日米関係においても、ロックフェラー財団や国際教育協会の働きかけで相互教育交流が動き始めた。外務省は特に国際教育協会による交換学生に申し出でを積極的に受け入れ、日米関係の改善に乗り出そうとした。しかし、文部省側は外務省ほど積極的ではなかった。

 これらの考察により、以下のような結論が得られた。

 幕末以来、日本が近代化を遂行するに当たって行われていた留学は、一方的な学術輸入としての<留学>であった。しかし第一次世界大戦の影響で留学生の希望したドイツに行けずアメリカに渡ったことが、文部省留学生たちの留学認識を変化させることとなり、学術交流としての「在外研究員」制度へと転換させたと考えられる。同時期までには、高等教育機関創設のために中心的な役割を担っていた文部省留学生制度の性格にも変容が現れていた。このような国内での状況変化の下、日米関係や日独関係において、両国の外交摩擦解消のために、新たに教員や学生の交換を行ったり、日本学講座や文化機関を設置したりして、教育交流が一層盛んになっていった。一方的な輸入行為としての<留学>から、インプットのみならずアウトプットも含む交流としての留学へと変化していく過程が明らかになった。更に1931年になると、それまで独米と比べて日本人留学生の少なかったフランスから日本人留学生を政府費用で招聘したいとの申し出がなされるようになり、新しい形の教育交流が実施されるようになった。日本の学術レベルの向上とそれに伴う留学生の意識変化、また国際関係における諸問題解決の方途として、日本の留学は新たな役割を付与されていった。このような過程を経て、幕末以来続けられてきた<留学>は、現代的な留学へと転換していったのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、明治期以来130年余にわたる文部省派遣海外留学制度についての歴史研究である。従来留学史の研究は、ほとんどが幕末・明治期までを対象とし、人物研究、高等教育制度形成史などいくつかの視点に分散したままでおこなわれており、通史的、総合的な留学制度研究は極めて乏しかった。本研究はこのような問題認識に立って、近代日本の留学制度の基幹となった文部省留学制度の最初の大きな転換期を提示し、その検証をおこなったものである。すなわち文化的な落差が大きいために欧米に一方的に学びに行く形であった幕末以来の「留学」が、呼称が「在外研究員」へと変化することが象徴するように、相互交流を含む形に変化するようになったのはいつか、その要因は何か、の論証を試みたものである。

 まず第一部において、1875年から1940年まで65年にわたる毎年の留学生『一覧』(冊子)等を用い、3180人の留学生について所属学校、留学先、専攻分野、留学前後のポストなどの詳細なデータベースを作成した。このデータベースを分析の結果、1920年頃には留学に質的な変化があったのではないかとの仮説を提示する。すなわち帝国大学の教員候補者を派遣して帰国後大学に迎えるという役割を果たしていた文部省留学制度は、1900年代以降は専門学校、高等師範学校、高等学校などに広がり、ポストの移動の仕方にも変化がみられることなどをその根拠とする。第二部では上記の仮説を検証するため、旧帝国大学史料などを使用して、選抜の仕方の変化、新設の帝大における留学の役割などを考察し、さらに時代とともに形を変えつつ留学が直轄諸学校全体へと拡大していく過程を明らかにした。第三部では、第一次世界大戦期に留学先がドイツ中心からアメリカに移行し、その経験を一つの「てこ」として相互交流型の留学が姿を現してくる過程を明らかにした。大戦後再び留学先としてのドイツが復活するが、相互交流的な在外研究への動きは、ドイツ、フランスとの間にもみられるようにるという。

 本研究の成果としては、個々の留学生についてのデータベースを土台に通史的、数量的な留学生派遣の概観を得た点、従来先行研究の考察が大学からの派遣にとどまっていたのに対し初めて高等学校や諸学校の留学を検討した点、1920-30年代の留学制度上の質的変化とその背景を仮説的に提示した点などがあげられる。また多くの新史料の発見も評価に値する。他方、この問題はグローバルな文化交流史の問題等多様な視角からのアプローチとの接点があり、その点に課題があるとの指摘がなされたが、それらは本研究のメリットを損なうものではないと判断された。これらを踏まえ、留学史という視点からの研究が確立していない日本教育史研究における、通史的研究の先駆的な業績として、本研究は博士(教育学)の学位にふさわしいものと判断された。

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