学位論文要旨



No 121739
著者(漢字) 于,臣
著者(英字) YU,CHEN
著者(カナ) ウ,シン
標題(和) 渋沢栄一の<義利>観をめぐる実業と教育の一側面 : 張謇との比較を中心に
標題(洋)
報告番号 121739
報告番号 甲21739
学位授与日 2006.07.19
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 廣田,照幸
 東京大学 助教授 今井,康雄
 東京大学 教授 黒住,眞
内容要旨 要旨を表示する

 伝統的儒家経済思想において、「重義軽利」の<義利>観が長く続き、前近代の中日両国の経済思想の主流となった。経済的近代化を目ざす中日両国の商工業の発展にとって、この「利」を否定する賎商思想はそのままでは障害となっていた。そこで、伝統的な農業国から西洋のような近代的な商工業国へと発展する過程の中で、中日両国の第一世代の近代的経済の担い手あるいは実業家たちは、理念上において「義」と「利」との関係を処理するという試練を迎えざるをえないのである。

 本論は、渋沢栄一の<義利>観を中心に、この問題をとらえ、さらに張謇におけるものとの比較を通して、その特徴を明らかにした。

 第一章では、渋沢の少・青年期の成長環境、学問履修と体験につながる思想形成を検討し、その<義利>観の形成における内在的メカニズムを分析した。ここからは、彼が若い頃から形成した主体性と経済人としての合理的視座を読みとることができた。

 第二章では、『論語』の読み直しから生まれた渋沢の<義利>観について考察した。彼は攘夷時期からすでに新しい<義利>観をみせていた。そして朱子学への批判をはじめ、伝統的な<義利>対立論に反対し、両者の合一を唱導する。この「義利合一」論において彼は国家観念を最も強調していた。そしてこれを前提に、「公利」と私利の一致を唱えたのである。明治の啓蒙思想家たちとの比較からすれば、渋沢のこの<義利>観は明らかに「公利」を優先していたといえる。

 第三章では、渋沢の実業理念をとりあげ、彼の「実業」の定義を検討し、そして「官」と「商」との関係における渋沢の立場を考察した。さらに彼の実際の商業活動(第一国立銀行、択善会)に対する考察を通して、渋沢の「合本法」思想と「公利」思想について分析した。その結果として、渋沢は商工業立国理念にもとづいて、「官尊民卑」への打破に伴って、商工業の地位を向上させようとしたことが明らかとなった。また住友と三菱の経営理念との比較を通じて、渋沢の民間経済の発展をめざす「よろずや」としての性格と「公利」へのこだわりを見て取ることができた。最後に、渋沢が日本の資本主義発展から生じた社会問題をいかに見ていたのかを検討し、また私利と「公利」との調和における彼の慈善思想について論じてきた。これによって渋沢の<義利>観における原生期の資本家の特徴がうかがうことができた。ここで挙げて論じた労資問題の解決における彼の「王道」思想は、当時の資本家もしくは富豪の立場を代言していた。

 つづいて第四章において、東京高等商業学校の昇格問題をとりあげ、教育面における渋沢の<義利>観を考察した。ここでは明治20年代前半、後半ならびに昇格の主張を出した明治30年代の渋沢の商業教育に関する講話、ならびに当時の社会経済背景を分析し、昇格に関する主張をはじめ、彼の商業教育像に反映された<義利>観の性格を検討した。最後に修養団体(竜門者、修養団)での演説をとりあげ、彼の総体的な<義利>観を捉えた。その考察から、渋沢の商工業立国の国家観念、また産業社会の発展から生じた落とし穴に対する彼の商業道徳への重視を明らかにした。

 そして渋沢の<義利>観の性格を更に明らかにするために、また彼の<義利>観の意義を解明するために、第五章以後、国家と地方、農業と商工業、実業と教育の関係処理について、相対的な視角で、儒学の本拠地である中国の張謇を比較の対象にとりあげた。

 まず第五章では、張謇の家庭背景、学問形成と体験をとらえた。渋沢と比較した結果、張謇は科挙及第のため、渋沢に比較してより正規の儒学の習得プロセスを辿ってきた。また渋沢と同じくマージナル・マンであるにもかかわらず、張謇は強い宗族意識と家族観念をもっていた。しかも儒学にこだわる張謇とは対照的に、渋沢はむしろ広域的な志向性をみせ、国事に奉仕する国家観念を強く持っていた。

 張謇の「公利」説をはじめとする<義利>観については、第六章で考察している。渋沢栄一と比較する場合、両者の<義利>観において、その「公」の性格がまったく異なっていたことが明らかになる。両者の「公」はそれぞれの国の「公」の流れを汲んでいるのだが、張謇の「公」は寧ろ宗族意識につながる家族、地方団体の共同性を指すもので、却って各個の「私」のつながりでもある。これに対して、渋沢の「公」は国家の意義が中心となっている。両者の「義」もそれだけ異なっているのであり、張謇の「義」は地方公益の理念に直結しているのに対して、渋沢の場合は圧倒的に国家への奉仕という性格をみせている。

 そして第七章では、張謇の実業理念、ならびに「官」と「商」との関係処理に関して考察を行った。渋沢との比較からすれば、渋沢が「実業」の再定義によって商工業者に正当性を与えて、商工業立国の理念を打ち立てたのに対して、張謇の「実業」はまだ伝統的な「農を本とする」主義から脱出できなかったのである。また伝統的な士大夫としての張謇は、商工業の地位向上について、渋沢の一貫した強い呼びかけとは対照的に、むしろ問題にしていなかった。しかも張謇の商工業活動(大生紗廠)は教育など社会公益のために行ったのである。そして張謇が強い地方保護主義を表し、合理的な競争を排斥したのに対して、渋沢は国家全体の商工業を発展させようとするビジョンを持っていた。

 最後に第八章では、張謇の教育理念をとりあげ、渋沢との比較を試みた。張謇は、「天下の大義」につながる地方民生の責任を担当した士大夫として、教育経費の捻出という目的を孕みながら実業を営み、普通教育と実業教育を同時に行っていた。しかも教育の内容において鮮明な地方自治の傾向を現している。これに対して、渋沢の教育活動は、まず商業教育への重視は経済発展に伴いながら成り立ち、他方昇格主張における道徳面の強調は産業社会から生じた道徳問題を解決するためだったのである。同時に社会問題の解決、ひいては慈善活動において、張謇は地方自治の範囲で早期に計画したのに対して、日本資本主義の原生期の資本家の側面を示した渋沢の慈善事業との出会いは「偶然の事」であった。当然、これらの相違は両者の<義利>観から生じたものである。最後に両者の<義利>観に関連する道徳教育についての比較からは、渋沢の道徳面の主張が、商工業立国、商人の地位向上につながったのに対して、張は伝統的士人の保守性をみせた孔子学の復活につながり、そこにとどまっていることが判った。

 以上、渋沢栄一と張謇の<義利>観を分析した結果から、いくつかの仮説をまとめてみた。両者の<義利>観、とりわけ「公」についての分析からすれば渋沢の国家志向と張の地方自治とは対照的存在である。これに関連して経済的側面において日本は統一した国家的規模の市場が早くから形成されたのである。このように渋沢の国益志向が全国範囲での「経営ナショナリズム」に寄与しやすい。これに対して、清政府は「内憂外患」の存在によって、民族商工業の発展は始終安定した環境に恵まれることはなかった。そこで張は政府の諸政策に失望し、彼の村落主義を地方から着実に実施することしかできなかったのである。ゆえに張の<義利>観は当時の時勢によって成り立ったものとみることができると同時に、世情が許さない、伝統的な士大夫としての彼からは、これ以上の理念は生まれないともいえる。

 次に渋沢の商工業立国主義を参照して考えてみれば、近代中国の重商観念は伝統社会に根付いた農業経済を中心とする経済体制のもとから生じたものであり、旧来の思想観念の束縛を突破できなかった。張謇が農本主義から抜け出せなかった根源はここにある。しかも張はまったく「儒商」と自認したように、「儒」の身分(士大夫)の名目で企業経営に臨んでいた。彼は「状元」という身分ゆえに資金、特許権など、地方官の支持と援助に恵まれたのである。これも張謇があくまで政治に幻想を抱いていた原因である。しかし、渋沢の場合になると、彼は実業界への転身から高商の昇格の問題に取り組むまで終始商工業立国の立場を貫いている。これが彼の「官尊民卑」打破の思想へとつながるのである。そこで渋沢の<義利>観は、明治国家の殖産興業と富国強兵の政策の展開を特に富国の面から合理化したと同時に、事業を起こす実業家たちに精神的支柱を与えた。これに対して、張の<義利>観はむしろ彼自身だけによって南通という地域で実施されるに終わった。

 最後に、教育と実業との関係において、「義」と「利」との合一を目指したという意味で、渋沢の商業教育の重視は、経済発展に伴いながら成り立ち、昇格主張における道徳面の強調は、産業社会から生じた道徳問題を解決しようとした意図が込められていることが看取できる。このようにして企業の経営理念にプラスの作用を果たすことができたと考えられる。これに対して張謇が普通教育への重視と道徳強調の立場は実業の倫理形成に直結していない。とりわけ実業を教育経営の手段としていたように、彼は純粋な意味での近代的企業家になることはできず、したがって企業の運営としては失敗に陥ったと考えられる。

 歴史・場所を鏡にして、渋沢栄一と張謇の<義利>観に対する分析を通して今日の物質的文明と精神的文明の調和、または「義」と「利」の関係を如何に処理すべきかについて大きな示唆が得られる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、幕末から昭和期まで活動し、日本資本主義の発展に尽力した渋沢栄一の思想を通じて、近代化に対応した儒学の適応・修正という問題を検討した研究である。ウエーバーが問題としたような資本主義の「精神」という観点から見たとき、アジア・日本の場合、儒学がまず阻止要因として存在したと考えられる。すなわち儒学の中心思想の一つ「義利の弁」は、道義をさす「義」を重んじ、功利、特に私利を指す「利」を軽んじることを特徴とし、農業重視・商業軽視の職業観をもたらした。幕末に豪農として儒学教育を受けて成人した渋沢は、その後資本主義の発展を担う中でことあるごとにこの「義利の弁」の葛藤に直面した。本論文はその葛藤を詳細に追求して描き出すと共に、日本におけるその葛藤がどのような意味を有するか、中国でしばしば渋沢と対比される張謇(チョウケン)を取り上げて比較し、その特質を明らかにするという方法をとった。

 第一章では、渋沢の少・青年期の環境、学問履修に即して思想形成過程を検討する。第二章で、『論語』の読み直しから生まれた渋沢の<義利>観について考察し、朱子学への批判に基づく<義利合一>論を取り上げる。第三章では、渋沢の実業活動における<義利>観を取り上げ、「官尊民卑」の打破、商工業者の地位の向上を課題としていたとする。また資本家として終生慈善事業にも関わった彼の労資問題観、慈善思想についても検討し、彼のとなえた「王道」思想は、当時の資本家、富豪の立場を代弁するものとみている。第四章において、東京高等商業の昇格問題を中心に教育問題における渋沢の<義利>観を考察する。以上をふまえ、義利論、実業観、教育観について張謇の言説をも検討し(第五章〜第八章)、両者の<義利>観における「公」の性格の相違を指摘する(終章)。渋沢に於いては国家を中心とする「公」観が資本主義の発展に資することになったが、張における「公」は郷土志向から脱することが出来なかった。日本の工業化にも功罪両方あるとする立場から、両者の「公」観の相違について、現在もなお工業化が課題であるアジア諸国における「公」観の様々な可能性を示唆するものと位置づけている。

 渋沢の主要な資料は関東大震災ですべて焼失したため、その後断片的な資料を集めた30巻(68冊)の『渋沢栄一伝記資料』が編成された。この浩瀚な資料をもれなく読んで彼の思考を集積すると共に、古い中国語が使われていて難解な『張謇全集』をも丁寧に渉猟して両者の思想を構成するという膨大な作業のもとに本論文は成り立っている。さらに思想家であるより経済人であった渋沢の思想の意味を読み解くために、関連する大量の文献にあたっていることがよくわかる論文である。本論文は東アジアが近代化において共通して抱えてきた儒学の阻害的要因をどうとらえ、さらに資本主義形成を担う国民意識の問題にどうつなげるか、またそこにおける教育の意味の違いなどという大きな問題に踏み込んでおり、問題の大きさ、研究方法の魅力、そしてそれをともかくやり遂げた、スケールの大きい、意義ある論文であるという点で委員会は一致し、博士(教育学)の称号にふさわしい論文と判断された。

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