学位論文要旨



No 121744
著者(漢字) 中川,純子
著者(英字)
著者(カナ) ナカガワ,ジュンコ
標題(和) 慣用句の変形タイプとコンテクスト効果 : 身体部位名詞を含む慣用句のコーパス分析に基づいて
標題(洋)
報告番号 121744
報告番号 甲21744
学位授与日 2006.07.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第676号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 幸田,薫
 東京大学 教授 田尻,三千夫
 東京大学 教授 重藤,実
 武蔵大学 教授 新田,春夫
 筑波大学 教授 伊藤,眞
内容要旨 要旨を表示する

 慣用句は決まった構成語から成り立ち、形式的、意味的に安定した単位とされている一方で、実際の使用状況を調べると非常に様々な変形があることが指摘されている。慣用句の変形は主として「ヴァリエーション」と「修正形」という2つの概念によって説明されることが多く、「ヴァリエーション」は慣用句が安定していない(イディオム性が低い)ために起こるとされ、「修正」は、その都度のコミュニケーション上の必要に応じて慣用句に臨時的な変更を加える話者の意図によって起こるとされる。本稿では、慣用句全般においてどのような話者の意図が確認されるかをコーパス分析によって調査することにより、変形のタイプとイディオム性との関係について新しい提案をする。

 慣用句が用いられる理由の一つには、本来長い説明を要する事柄でも、短い言葉で表現力豊かに効率よく伝達できるという利点が挙げられる。本稿では、慣用句に様々な変形が見られることについて、「修正形」以外の変形もコミュニケーション上の要請と関連する現象と仮定し、(1) 具体的にどのようなタイプの変形が「コンテクスト効果」の上昇に寄与しているか、(2) それぞれのタイプの変形を示す慣用句には共通の構造上の特徴があるのか、(3) 慣用句によってそれぞれのタイプの変形を示す割合に異なりがあるのかという3つの問題について仮説を立て、それを大量のコーパス資料に基づいて検証していくという形で分析を行った。その結果、(1)に関しては伝達の表現力向上に寄与する変形と少ないエネルギーで伝達の目的を達成する効率化に寄与する変形の存在が確認された。(2)に関してはそれぞれの変形のタイプが特定の統語構造を持った慣用句に対応していることが分かった。(3)に関しては、効率化と表現力向上に寄与する変形は、排他的であり、それらの現れる比率によって、慣用句が2つのグループに分けられるという結果を得ることができた。

1. 伝達における変形の役割

 関連性理論による「伝達」についての考え方からは、自動化された含意しか伝えない、コンテクスト効果の低い慣用句に対しては次のような措置が取られると仮定される。

(1) 表現を簡略化する。(→発話の効率化。以下「効率化」)

(2) 再び新鮮なイメージを喚起する表現へ変える。

 (→伝達の表現力向上。以下「表現力向上」)

慣用句の形式と伝達の「表現力向上」と「効率化」の関係を明らかにするために、以下の仮説を立て、その実証を目的とした。

 仮説1:「表現力向上」には「構成語の入れ替え」、「統語構造の変更」、「拡張」が用いられ、「効率化」には「構成語の省略」と「造語化」が用いられる。

慣用句がコンテクスト効果向上のために受ける変形措置について、またこれらの変形の形式がコーパスにおいてどのような分布と頻度を示すかについては、以下の仮説を立てる。

 仮説2:コンテクスト効果上昇のための変形の種類と、慣用句の元々の意味的・形式的構造には因果関係がある。

 仮説3:効率化の変形形式を多くもつ慣用句ほど表現力向上のための変形は少ない。また、その逆も言える。

 コミュニケーション上の要請と形式との関係から、以下、2および3に述べるA〜Eの変形タイプを導き出し、それらを伝達の「表現力向上」と「効率化」の役割を担う変形に二大別した。「効率化」に貢献すると仮定される変形をA、Bのタイプとし、両タイプの基準を満たす変形の合計値が全検索値の1割以上になるものを、効率化に貢献する変形がある慣用句と認定した。さらに「表現力向上」に貢献すると仮定される慣用句をC、D、Eのタイプとし、これらのタイプの基準を満たす変形の合計値が全検索値の1割以上になるものを伝達の表現力向上に貢献する変形がある慣用句と認定した。さらに仮説2を検証するために、A〜Eの各タイプごとに1割以上合致した例も調査した。

2. 「効率化」について

 タイプAは、「慣用句を元にした造語」のある慣用句である。造語という形式は、慣用句的意味を担いながらも音韻的に短縮されているため、発話のエネルギーが節約され、伝達の効率化に貢献していることが用例から確認された。さらに造語は形式的にも意味的にも独立した単位としてさまざまな派生・複合語の基礎語として利用されることで、効率化はさらに上昇する。

 タイプBの、「構成語の一部の省略」については、構成語である動詞がなどが省略され、残りの構成語に慣用句としての意味が凝縮されることで伝達の効率化が実現することが確認された。

 さらに、タイプA、Bの変形のある慣用句はそれぞれ共通した統語的特徴を持っていることがわかった。

1) タイプAの慣用句の構造的共通性

 1) 4格の名詞と動詞、2) 「前置詞+名詞」と動詞、3) 「形容詞/副詞+名詞」と動詞、のいずれかによって構成されている。このことは造語のような音韻の節約が起こるのは、慣用句そのもののイディオム性ばかりではなく、慣用句の元々の統語的な条件も関与していることを示している。

2) タイプBの慣用句の構造的共通性

 中心的意味を担う語が、2つ以上ある慣用句である。その中でもとりわけ、名詞が重要な役割を担っている場合が多い。

以上の分析結果からタイプA、Bによって導き出された慣用句に関しては仮説1及び仮説2が実証された。

3. 「表現力向上」について

 タイプCは、「あらたな表現の構成語として造語が利用されている」慣用句である。つまり、造語が新しい別の比喩表現の構成語となるような「拡張」による変形である。このような慣用句の場合、元の慣用句と造語の使用頻度を比較すると、すべてにおいて造語の使用頻度が上回っていた。句の形式が用いられにくくなっている慣用句においては、造語は別の表現と結びつくことで新しい表現単位を形成し、発話全体のなかで伝達の表現力向上に寄与することがわかった。

 タイプDの、「慣用句の具象的意味を強める変形」については、聞き手に対する印象を強める効果がある変形、すわなち、1) 形容詞・副詞による「拡張」、2) 類義語・同義語による「拡張」、3) 「構成語の交代」、そして4) 「統語構造の変更」による直喩から隠喩表現への移行という4つの変形手段が確認された。コーパスの例から、具象的意味の強化は、慣用句によって自動化されて伝達されていた含意が再び聞き手の推論を必要とする含意となることに貢献し、結果として表現力向上に寄与する変形と認められる。

 タイプEは「コンテクストに依存した変形」のある慣用句である。これまでの研究でも「修正形」として、表現力を高めるための手段と定義されているものであり、本稿においても「表現力向上」としてその役割を確認した。

 タイプC、D、Eの変形をコーパスによって分析した結果、慣用句の変形が「表現力向上」に貢献していることが明らかとなり、よって仮説1が実証された。

 またどのような変形措置が取られるかは、個々の慣用句の統語的、意味的特徴によってある程度の方向性があらかじめ定められていることも明らかになった。

1) タイプCの慣用句は、すでにタイプAで述べたとおり、構造上造語化しやすい慣用句というものが存在する。造語が一般的に用いられるようになれば、その造語を基礎語として様々な品詞の派生語や複合語が生まれる可能性がある。

2) タイプDの慣用句の構造的共通性

タイプDの慣用句は、慣用句的意味が一つの名詞、つまり身体部位を示す名詞の比喩的意味に依存している。慣用句の比喩性は、慣用句の中で初めて実現されるものではなく、すでに構成語の身体部位名詞の中に多義の一つとして登録されている比喩的意味によってもたらされる。

3) タイプEの慣用句の構造的共通性

タイプEの慣用句は、具象的意味で用いられることはほとんどない慣用句である。身体部位を表す名詞が使われているといっても、慣用句の具象的意味によって表されている行為をすることが、物理的・生理的に不可能であるために、慣用句的意味にしか理解しようがない場合もある。このことから、コンテクストに合わせて慣用句が変形されても、それが慣用句を利用した比喩的表現であることがすぐに理解されるものと考えられる。

 一定の意味的・統語的特徴が見られたことは、変形の方向は慣用句の元々の構造と関係していることを示しており、よってタイプB、C、Eの慣用句についても仮説2が実証された。

 さらに仮説3については、「効率化」のための変形(タイプA、B)「表現力向上」のための変形(タイプC、D、E)の慣用句ごとの頻度調査から、効率化の変形の対象となる慣用句は表現力向上の変形の対象となりにくいことが確認され、よって仮説3も証明された。

4. 変形の種類と慣用句の全体的構造

 27個の慣用句の分析からは、これまでの研究で指摘されているように、慣用句化が進めば変形されにくくなるということはなく、具体的な使用例にあたってみると慣用句化の進んだイディオム性の高いものにも多くの変形が見られることがわかった。このことはイディオム化が進むことで慣用句のコンテクスト効果が下がり、「表現力向上」と「効率化」の変形の対象になりやすくなるためと考えられる。

 リストアップした335の慣用句のうち308個は一割以上の変形を示さなかった。その理由の一つには、308個の慣用句に多く見られる、次のような特徴が関係している。

 1) 統語構造がパターン化されている。

 2) 慣用句的意味と具象的意味の境界が低い。

これらの特徴を持つものは人間の言語活動の中で利用されやすい比喩表現の枠組みとなっていると考えられる。身体部位というのは、たとえば生活用具や社会制度・職業に関する表現などに比べて時代的な評価の変わりにくいものであり、身体部位の比喩的意味によって成り立っている慣用句、身体動作に由来するような慣用句は、習慣化してもイディオム化が進まない、いわば言語表現として安定した領域にある単位だとの推測が成り立つ。ただし、この点を実証するためには、今後、身体部位名詞を含む慣用句以外のものを分析し、結果を比較検証する必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

 慣用句は決まった構成語から成り立ち、形式的、意味的に安定した単位とされている一方で、実際の言語使用においては非常に様々な変形があるが、従来、慣用句の変形は、(1) イディオム性が低く安定していないために起こるバリエーション、または(2) コンテクストに応じた臨時の修飾である「修正形」(Modifikation)によるものとされてきた。本論文は、身体部位名詞を含む慣用句335個について、大量のコーパス検索を行い、語用論的な変形の理由を探ることによって、(1)が妥当しないこと、(2)がさまざまな変形の理由の一つに過ぎないことを示すとともに、慣用句の構造と変形の関係、変形一般、つまり言語変化の意味論的要因についても一定の結果を導いている。

 まず、従来の研究を概観した後、335個の慣用句について、それらを含む文を Institut fur deutsche Sprache(国立ドイツ語研究所)の提供するCOSMASデータベースから収集し、実例が1000以下のものについては実数で、1000以上のものについては1000までを調査して、変形が一割以上認められる慣用句27個を抽出した。

 27個の慣用句について、タイプA(慣用句を元にした造語)、タイプB(構成語の一部の省略)、タイプC(構成語として造語を用いた「拡張」)、タイプD(拡張、構成語の入れ替え、統語構造の変更)、タイプE(コンテクストに依存した臨時の変形)の分類を行い、それぞれの変形の理由に関して、関連性理論に基づいて以下の仮説を立てて、テクスト分析を行った。

 仮説:慣用句の変形は、当該慣用句が自動化された含意しか伝えなくなり、コンテクスト効果が低くなったために生じるものであり、「構成語の省略」と「造語化」は、表現を簡略化することによる「効率化」を図ったものであり、「拡張」、「構成語の入れ替え」、「統語構造の変更」は、再び新鮮なイメージを喚起する表現へ変えることによって「表現力向上」が図られたものである。

 その結果、以下のことを確認している。(3) タイプAとタイプBは、慣用句的意味を担いながらも音韻的に短縮されているため、発話のエネルギーが節約され、伝達の効率化に貢献している。構造的には、タイプAは、4格の名詞と動詞、「前置詞+名詞」と動詞、「形容詞/副詞+名詞」と動詞、のいずれかによって構成されており、タイプBは、名詞を中心として意味を担う語が2つ以上ある慣用句である。 (4) タイプCにおいては、造語は新しい比喩表現の構成語となることで、発話全体のなかで伝達の表現効果を高めることに寄与している。構造的には、タイプAと同じ。(5) タイプDには、(a) 形容詞・副詞による拡張、(b) 類義語・同義語による拡張、(c) 構成語の交代、(d) 統語構造の変更による直喩から隠喩表現への変更の4つがあり、それぞれ具象的意味の強調によって、自動化された形式と意味の関係が改めて意識化され、表現力向上につながっている。構造的には、慣用句的意味が身体部位を示す名詞の多義の一つである比喩的意味に依存している。(6) タイプEは、従来の研究における「修正形」であり、明らかにコンテクスト効果が認められる。構造的には、慣用句の具象的意味によって表されている行為をすることが、物理的・生理的に不可能であるような慣用句である。

 以上から、イディオム性の高い慣用句は変形がなく固定性も高いという従来の考え方は、誤りであり、イディオム性の高いものにも「効率化」による多くの変形があることが分かった。また、「効率化」のための変形(タイプA、B)と「表現力向上」のための変形(タイプC、D、E)の慣用句ごとの頻度調査から、効率化の変形の対象となる慣用句は表現力向上の変形の対象となりにくいことも確認された。

 さらに、リストアップした335個の慣用句のうち一割以上の変形を示さなかった308個の慣用句には、統語構造がパターン化されていること、慣用句の比喩的意味と具象的意味との隔たりが少ない(=イディオム性が低い)という特徴があった。したがって、必ずしもイディオム性の高いものが慣用句としての安定性(固定性)が高いとは言えない。

 本研究は、はじめて語用論的な観点から総合的に慣用句の変形を扱い、一定の規則性を見出すことによって、慣用句の本質である固定性とイディオム性とがなぜ一致しないかを示した点、およびある表現における具象的意味と比喩的意味との乖離が変形、ひいては言語変化を生む要因になっていることを示した点で評価できる。

 審査委員からは、本論文に対して、コーパスが新聞などに偏っていること、「表現力の向上」という言語機能の確認が主観的なものにとどまっていることなどの批判的指摘がなされたが、全体として課程博士のレベルに達しているとの結論となった。

 したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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