学位論文要旨



No 121746
著者(漢字) 染谷,昌義
著者(英字)
著者(カナ) ソメヤ,マサヨシ
標題(和) 知覚経験のエコロジー : その存在論と認識論の検討
標題(洋) Ecology for Perceptual Experience : Its Ontological and Epistemological Implications
報告番号 121746
報告番号 甲21746
学位授与日 2006.07.27
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第678号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 村田,純一
 東京大学 教授 今井,知正
 東京大学 助教授 野矢,茂樹
 東京大学 助教授 信原,幸弘
 東京大学 教授 佐々木,正人
内容要旨 要旨を表示する

 近代以降の哲学における認識批判もしくは経験批判の伝統には共通した傾向が見られる。それは、使用している概念や探究方法の違いこそあれ、どれも認識主観の能力自身の批判的吟味に焦点が当てられているということである。哲学的認識論の問題は、観念の連合、純粋悟性概念による感性的多様の綜合、志向性の働きというように、主観の認識能力の批判として展開される。しかもこの傾向は哲学だけに固有のものではない。認知活動の解明を企図する心理学や認知科学といった現代科学の分野でも、脳を始めとする神経系のメカニズムやそれらの因果的機能の解明に考察の焦点が当てられる。これらは知識を正当化する認識根拠の探究といった哲学的認識論の文脈を必ずしも共有していないが、「方法論的独我論」とでも呼べる主観内部の機構に認識・認知の起源を探ろうとする姿勢を伝統的な認識批判と共有している。認識問題を考える上での観念論的傾向は根強い。

 本論文は、エコロジカル・アプローチ(生態心理学)の哲学的意義とその広範な射程を明らかにしながら、知覚的認識にまつわる哲学的諸問題への解答を試みている。この立場は、アメリカの知覚心理学者James J. Gibson(1904-1979)によって創始された、生物の知覚を経験的に探究する特異な立場である。というのも、エコロジカル・アプローチは、認識論の観念論的傾向を反転させ、主観の能力批判ではなく環境の存在批判から、認識、特に知覚経験の本性を解明しようとするからである。生態心理学は「心」の本性を解明する上で、いわば「心」から一旦離れ、「心」を取り巻く環境存在に注目する。そして次のような発想の転換を行う。認識問題を考える上でこれまでの心理学や哲学が犯してきた誤りは、知覚を始めとする認識活動がその中で行われる環境の「貧困さ」、あるいは認識を作り上げる素材・刺激の「貧困さ」と、認識が持つ「豊かな性質」にはギャップがあると仮定し、この隙間を埋めようとしてきたことにあるのではないか。そのため、認識主体の能力に過剰とさえ思える程の「インテリジェント・ローン」をかけざるを得なかったのではないか。しかし、こうした仮定こそ近現代の心の科学や哲学、さらには哲学的認識論の誤謬ではないのか。エコロジカル・アプローチでは、心理学者や哲学者が想定するよりも豊かな行動資源(アフォーダンス)やそれらを知覚的に発見するための情報資源が環境内に存在し、私たちはそれを利用し、改変しながら環境の事実を認識し、環境内で行為し生活していると考える。本論文は、認識活動や経験が、それを可能にする豊かな資源としての環境に取り囲まれており、文化や社会制度をも含めた広い意味での生態学的環境の中でどのような資源を用いて知覚経験や行為はなされているのかという環境存在の批判的検討から、知覚表象、知覚の真偽、知覚による判断の正当化という三つの認識論的問題に取り組んでいる。

 論文全体は三部より構成されており、第一部がエコロジカル・アプローチの概要の提示、第二部はエコロジカル・アプローチの存在論の検討、そして第三部で哲学的認識論の三つの問題に対してエコロジカル・アプローチからの解答が試みられる。

 まず第一部において、生態学的知覚論の全般的説明が提示される。生態学的水準での環境の存在構造の考察から始まり、それが最終的に「情報に基づく知覚論」(直接知覚論)と連結される。ここでは環境存在と知覚経験に対するギブソンの見解を概説的に提示し、それらの哲学的意義を検討した。特に、知覚意味、志向性、知覚経験の本性についての議論では、生態学的知覚論と心の哲学や現象学における知覚論との相違点を明らかにした。現象学者が知覚経験における「意味」と呼んできた契機は、環境内に存在するエコロジカル情報の特定性と解釈され、知覚経験の志向性の自然化が試みられる。

 第二部第一章では、エコロジカル・アプローチが認識論的問題を存在論的問題へと転換し、同時に知覚経験の本性を「構成」から「調整」へと転換する方針一般に対して寄せられる批判への応答を試みた。認識批判の伝統の中では、特定の存在論を前提にして認識論に取り組むことは御法度であり、それは「神の視点に立った独断的な立場」として批判される傾向にある。この「神の視点批判」に対して反論し、認識される環境が主観によって「構成」されるという認識論の根強い偏見を浄化している。その上で、エコロジカル・アプローチから考えられる「構成」の本来の意味と意義を検討した。

 第二章は、アフォーダンスの存在論を主題にしている。中心的な問題は、アフォーダンスの実在を、どの程度まで生物から独立的だと考えられるのかということにある。従来のアフォーダンス解釈では、アフォーダンスが生物の性質に関係的で相対的な環境性質と見なされることから、アフォーダンスの存在は、それを利用できる行動能力を持った生物の存在に依存していると考えられている。こうした見方は、ギブソンの後継者たちからアフォーダンスについての「関係解釈」と「傾向性解釈」として提起された。しかし、ギブソン自身の主張と進化生態学的な観点から見た環境と生物との存在論的非対称性を検討した結果、アフォーダンスは生物存在からも独立した環境の性質と考えるべきではないかという結論が導かれた。これはアフォーダンスの「資源解釈」と呼ばれる立場である。アフォーダンスが、それを利用する行為システムやそれを発見する知覚システムを進化論的な時間スケールで、個体発生の時間スケールで、さらには個体の行動時間のスケールで選択できる因果的効力を持つためには、アフォーダンスは生物個体群の遺伝型の変異や個体行動の変化に比べより長期に渡って不変なまま持続している必要がある。アフォーダンスの集合をニッチと考えるギブソンの立場を重視するならば、アフォーダンスはニッチにフィットするものに選択圧を及ぼし、それをめぐって競合が行われる資源として解釈できる。

 第三章では、環境存在、環境アフォーダンスの存在が生物存在から独立的でありながらも、生物が環境を部分的に改変することによって、その跳ね返りとして生物自身の知覚と行為のあり方が変化する諸相を、主に人間の高次の認知活動を取り上げて考察している。認知や行為が利用する資源としての環境の中に、環境を改変し構造化することで新たな資源が作り出されると、その資源が開発されなかったときには存在しなかった資源利用法が誕生する(「リバウンド効果」)。また人類に特有な言語というものが質料性を持った環境資源の一つとしてわたしたちを包囲しているという考え方を提起し、言語も音声や表面の痕跡として環境内に具現した、認知と行為の調整に利用される資源の一種として解釈された。

 第三部第一章は、情報に基づく知覚論の反表象主義の根拠を明らかにしている。「表象なしではやっていけない」知覚認知のケースとして心の哲学者アンディ・クラークによって提起された「表象ハングリー」問題の内容を明らかにし、「表象ハングリー問題」も「表象なしでやれる」可能性を示した。ポイントは、表象ハングリー問題を「エコロジカル情報ハングリー問題」へと転換する点にある。表象ハングリー問題は、非現前環境事態・不在環境事態・非法則的性質のそれぞれに定位した選択的行為調整を問題にしており、このそれぞれに対して予想される「エコロジカル情報」を素描し、もしそうしたエコロジカル情報があるならば「表象なしでやれる」ことを提案している。またエコロジカル・アプローチの反表象主義のもう一つの根拠である機能特定的な知覚システムという知覚機構を検討し、表象を必要としない理由を、知覚に対する刺激観と知覚機構の二つの側面から明らかにした。

 第二章では知覚誤りの問題が検討された。知覚誤りの存在は知覚経験に表象を要請する有力な根拠である。表象を無用にする情報に基づく知覚論では知覚錯誤はどう処理されるのだろうか。まずギルバート・ライルの「知覚とは達成である、したがって知覚は誤ることがない」という論証を「エコロジカル情報ピックアップの達成としての知覚」というギブソンの知覚定義と関連させ、知覚錯誤をこの意味での知覚達成には至らなかった「知覚失敗」として定義した。次に知覚錯誤だとされる個々の事例を逐一検討し、それらを知覚達成と知覚失敗とに振り分けている。最後に、知覚には真偽性格ではなく、知覚達成基準の適不適性格があることを論じ、知覚の「善し悪し」を問題にし得る「知覚の倫理学」の提案を行っている。

 第三章では、概念的内容を持つ経験的判断や信念の知覚的正当化問題に対する生態学的知覚論の解答を検討した。従来の認識論では、知覚による経験的知識の正当化問題は、因果関係に依拠する立場と理由関係に依拠する立場との分裂の中で考えられている。しかし、これらとは異なる第三の立場が提示される。概念と知覚との関係についてウイリアム・ジェイムズによるプラグマティズムの考え方では、概念には知覚と行為を誘導する「機能」があるとされる。この考えに基づき、行為を仲立ちにして概念と知覚とが機能的関係を結ぶことで、言語的な経験的判断は知覚経験によって正当化されるという解答が導かれた。さらに、このプラグマティズムの正当化論をエコロジカル・アプローチの文脈で解釈し、エコロジカルな認識論一般の見方―社会化するプロセスとしての認識論―を提起した。

 第三部で行われる認識論的問題に対するエコロジカル・アプローチの戦略はどれも、環境存在・環境資源をリッチにし、知覚し行為する主体にはそれを利用すべく自らの調整活動を行う役割を割り当てるという点で共通している。この戦略が哲学的な認識問題への処方箋として本当に効き目があるのか否か。第三部の議論全体の成否は、この点にかかっている。

審査要旨 要旨を表示する

染谷昌義氏の論文「知覚経験のエコロジー」は、J・J・ギブソンの生態学的心理学のもつ哲学的意義とその射程を、特にその存在論と認識論に関して検討したものである。

伝統的な知覚論の見方のもとでは、知覚的認知の成立に関する基本問題は、環境から与えられたわずかな刺激をもとにして、いかにして環境に関する認知を獲得できるかという点に見出されてきた。そのために、答えはもっぱら知覚者の内部で行われるさまざまな活動、すなわち、与えられた表象に基づいてなされる判断、推論、計算、あるいは情報処理と呼ばれる操作のあり方に求められてきた。

それに対して、ギブソンを創始者とする生態学的アプローチでは、伝統的な知覚論の前提が根本的に変換され、知覚の可能性の条件は知覚者の内部に見出されるのではなく、外部に見出される。つまりここでは、知覚的認知の基本問題は、環境の性質、媒質内の情報、そして知覚者の身体活動のあり方を解明することにおかれる。こうした見方のもとで、環境には、知覚者が生きる上で重要な意味を持つ性質(アフォーダンス)が備わっており、また、媒質の光のなかにはそれらに対応する情報が満ちていることが指摘され、されに、知覚者は、さまざまな身体活動を通して、そうした情報を抽出(ピックアップ)することによって環境に備わるアフォーダンスの認知を成し遂げているとみなされる。こうして、アフォーダンスの実在性というテーゼをはじめ、表象を媒介しない直接知覚という考え方や、知覚と身体的行為との密接な連関といった考え方など、さまざまな新たな見方が提起されることになる。

染谷さんの博士論文は、こうした特徴を持つ生態学的アプローチを近代認識論の問題領域全体に適用して、その有効性を論じたものである。

論文は全体として、3部に分かれている。

第1部「知覚経験のエコロジーとは」では、おもにギブソンの著作を基にして、生態学的アプローチの基本構図がまとめて提示される。環境の基本的な存在論的構造、生態光学に基く情報のあり方、そして、アフォーダンスの直接知覚説が環境知覚と自己知覚の相補性を通して描かれる。

第2部では、アフォーダンスの実在性というテーゼが、さまざまな批判に答える形で擁護される。とりわけ染谷さんの独創性が現れているのは、アフォーダンスの存在に関する「資源解釈」が提出されるところである。アフォーダンスは、知覚者の行為のあり方やその存在と相関的な性質とみなされているため、その存在に関しては、一種の関係的性質とみなす関係解釈や、あるいは、一種の潜在的性質とみなす傾向性解釈がおもになされてきた。それに対して、染谷さんは、アフォーダンスは、知覚者によって利用される前から、知覚者の存在とは独立にあらかじめ「資源」のような仕方で存在しているという見方を提起して、説得的に論じている。この点で、染谷さんのアフォーダンスの解釈はもっとも実在論的傾向のつよいものとなっている。他方で、染谷さんは、人間があらかじめ存在するアフォーダンスに働きかけて新しい環境を形成するものであることも強調し、それによって、環境が、文化的、社会的な構造を持つようになることも強調している。こうして、人間の知覚と行為に結びついた活動から、言語コミュニケーションのような「高次の活動」に到るまで、それらは環境存在論のなかに位置を与えられることになる。

認識問題が扱われる第3部では、直接知覚説への反論となると思われるさまざまな議論や事例が取り上げられ、それに対して大変詳細な仕方での応答が試みられる。

知覚が表象に媒介される認知活動であるという間接説を支持するために持ち出される代表的な議論は、誤った知覚を事例とした錯覚論法である。誤った知覚には対象が対応しないため、表象を持ち出さないと説明がつかないと思われるからである。染谷さんは、錯覚論法を単に論理的に批判するのではなく、幾何学的錯視から幻覚、あるいは、見間違いに至るまで、さまざまな具体例を一つひとつ取り上げて、それらが誤った知覚とみなされる必要はなく、むしろ、不完全な知覚ないし、知覚の完成には到達していない失敗例と解釈しなおすことができることを示す。このような詳細な議論によって、錯覚論法に用いられる事例を理解するために「誤った知覚」という概念を用いる必要のないことが示され、表象を考えたくなる誘惑から自由になりうる可能性が示されることになる。心理学の知見などを十二分に利用したこのような議論を展開することによって、染谷さんは、認識論を「自然化」するということがどういうことかを見事に示して見せたといえるだろう。

最後に、おもにプラグマティストのジェームスの見方を利用して、知覚と概念の関係のあり方を論ずることによって、生態学的アプローチのなかに概念的認知を導入する可能性を示し、それによってさらに、認識の知覚的な正当化に関する興味深い解釈を提示している。

以上のように、染谷さんは本論文の中心である第2部と第3部のなかで、これまでの論者には見られない徹底さで、存在論と認識論の基本問題に関して生態学的観点を擁護する議論を展開している。

審査委員会では、染谷さんの議論のなかでは、必ずしも伝統的な見方のなかで論じられてきた問題に十分考慮が払われていないのではないか、そのために、染谷さんの議論は、生態学的アプローチをとらない論者に対して必ずしも十分説得力を持たないのではないか、という批判や、さらには、社会的制度のようなものにもアフォーダンスの資源解釈や直接知覚説が成り立つのかどうか、といった疑問が提出された。こうした論点に関してはまだまだ論ずべき点が残っていることは確認された。しかし、本論文のように議論の幅の広さと徹底さをもって、生態学的アプローチの哲学的意義を検討したものは日本はもとより外国でも見かけないものであり、十分博士論文の資格を有していると考えられる点に関しては、審査委員全員の一致するところであった

したがって、本審査委員会は染谷さんの論文は博士(学術)の学位を授与されるにふさわしい論文と判断するものである。

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