学位論文要旨



No 121757
著者(漢字) 林,裕子
著者(英字)
著者(カナ) ハヤシ,ユウコ
標題(和) 日本の科学技術政策決定過程の制度分析 : 日米のヒトゲノム計画の事例を比較して
標題(洋)
報告番号 121757
報告番号 甲21757
学位授与日 2006.09.14
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博工第6330号
研究科 工学系研究科
専攻 先端学際工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,晃
 東京大学 教授 馬場,靖憲
 東京大学 教授 橋本,毅彦
 東京大学 教授 油谷,浩幸
 東京大学 教授 元橋,一之
 政策研究大学院大学 助教授 角南,篤
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は,日米のヒトゲノム計画の事例を比較することにより,日本の科学技術政策決定過程を分析し、科学と政治を媒介する境界組織の機能を検証した。

 第一章では、ヒトゲノム計画を分析の対象とした動機と背景を述べた。2003年4月、生命の設計図を解明する巨大科学プロジェクトであったヒトゲノム計画で、全ヒトゲノムの解析が完了し、アメリカは62%、日本は5.5%、解読へ貢献した。日本の解析量への評価は分かれ、もっと貢献できたという意見には,ゲノムの大量解析のアイデアは日本から生まれ,ゲノムの自動解析装置の開発でも,日本がアメリカに5年先行し,成果を上げていたという背景があった。当時ヒトゲノム計画の推進に携わった科学者の中にも、大規模な計画の立ち上げの遅れを悔やむ意見も多い。日米で同じように、大規模なヒトゲノム計画の発足を政府に働きかけた科学者たちがいたが、政策決定の結果に違いが生じた。

 第二章では、「日本で,大規模なヒトゲノム計画がアメリカの後追いになった原因の一つは,科学と政治を媒介する機能がアメリカには存在し,日本には存在しなかったことである」という仮説を設定し,境界組織を含むプリンシパル・エージェントのフレームワークを分析に使用することを示した。政治アクターに対して、科学技術に関する情報の非対称性を緩和し、科学者に対して政策決定に関する情報の非対称性を緩和するものを、境界組織と再定義した。

 第三章では、実際に日米のヒトゲノム計画の事例を分析し、高度な専門知識を有する科学者と技術の非専門家である政治アクターの,日本のヒトゲノム計画の政策決定における問題点を指摘した。具体的に言えば、米国では,高度な専門知識を有する科学者が,DOE,OMB,NIHの政策決定にかかわる地位に配備され,境界組織の機能を果たしたが,日本の科学技術庁や大蔵省(当時)ではそのような地位に科学者はいなかった。米国の省庁内の科学者は予算権を持ち,ヒトゲノムのアジェンダ設定,予算策定に成功し,政策決定の情報の非対称性を軽減した。これは,科学者が技術の分野が細分化しているため,利益団体を結成しにくく政治プロセスにアクセスしにくいという欠点を補った。また,ワトソンらは人事権を持ち,研究者としてだけでなく政策決定にかかわる地位に科学者を採用した。そして,それらの科学者は更なる人事権や議会へのアクセスの権限を得ることができた。また,各省庁の上層部の非科学者である政治アクターに対して,ヒトゲノムに関する科学情報や重要性,会議の結果等を提示し,科学情報の非対称性を軽減する働きをした。

 また,米国では大規模予算の権限があり,省庁横断的な議論が可能な議会で,OTAとNRCが統制された科学的市場を形成し,政治アクターに対し,科学情報の非対称性を軽減した。また,OTAとNRCは報告書や会議を通じて議会の予算策定に影響を及ぼし,政策決定の情報の非対称性の軽減に貢献した。しかし,日本では統制された科学的市場が形成されなかった事が明らかになった。科学技術会議では科学情報は審議されたが,政策決定に充分アクセスできず,政策決定に関する情報の非対称性を軽減できなかった。各省庁では審議会が一つしか存在せず,情報の市場を形成することはできなかった。また,国会は予算審議の方法から,米国議会のように大規模予算の決定権を持つプリンシパルの役割は果たさず,むしろ与党内の部会等にその役割が期待できるが,そこでも統制された科学的市場を形成する境界組織が存在しない事が明らかになった。

 第四章では、これらの検証結果から,日米のヒトゲノムの政策立案過程において、アメリカに存在するが、日本に存在しない媒介機能を確認することができ、仮説は検証されたことを示した。そして、日本で境界組織の整備が今後必要であるとし、結論とした。ヒトゲノム計画の日本での遅れの原因としては,特許戦略の遅れや,セレーラの躍進,貿易摩擦等様々な要因が議論されているが,本稿では科学と政治の間に位置する境界組織の視点からの分析で,日本の境界機能の問題点が明らかになった。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究では,日米のヒトゲノム計画の事例を比較することにより,日本の科学技術政策決定過程を分析し、科学と政治を媒介する境界組織の機能を検証することを目的としている。

 第一章では、ヒトゲノム計画を分析の対象とした動機と背景を述べた。2003年4月、生命の設計図を解明する巨大科学プロジェクトであったヒトゲノム計画で、全ヒトゲノムの解析が完了し、アメリカは62%、日本は5.5%、解読へ貢献した。日本の解析量への評価は分かれ、もっと貢献できたという意見には,ゲノムの大量解析のアイデアは日本から生まれ,ゲノムの自動解析装置の開発でも,日本がアメリカに5年先行し,成果を上げていたという背景があった。当時ヒトゲノム計画の推進に携わった科学者の中にも、大規模な計画の立ち上げの遅れを悔やむ意見も多い。日米で同じように、大規模なヒトゲノム計画の発足を政府に働きかけた科学者たちがいたが、政策決定の結果に違いが生じた。

 第二章では、「日本で,大規模なヒトゲノム計画がアメリカの後追いになった原因の一つは,科学と政治を媒介する機能がアメリカには存在し,日本には存在しなかったことである」という仮説を設定し,境界組織を含むプリンシパル・エージェントのフレームワークを分析に使用することを示した。政治アクターに対して、科学技術に関する情報の非対称性を緩和し、科学者に対して政策決定に関する情報の非対称性を緩和するものを、境界組織と再定義した。

 第三章では、実際に日米のヒトゲノム計画の事例を分析し、高度な専門知識を有する科学者と技術の非専門家である政治アクターの,日本のヒトゲノム計画の政策決定における問題点を指摘した。具体的に言えば、米国では,高度な専門知識を有する科学者が,DOE,OMB,NIHの政策決定にかかわる地位に配備され,境界組織の機能を果たしたが,日本の科学技術庁や大蔵省(当時)ではそのような地位に科学者はいなかった。米国の省庁内の科学者は予算権を持ち,ヒトゲノムのアジェンダ設定,予算策定に成功し,政策決定の情報の非対称性を軽減した。これは,科学者が技術の分野が細分化しているため,利益団体を結成しにくく政治プロセスにアクセスしにくいという欠点を補った。また,ワトソンらは人事権を持ち,研究者としてだけでなく政策決定にかかわる地位に科学者を採用した。そして,それらの科学者は更なる人事権や議会へのアクセスの権限を得ることができた。また,各省庁の上層部の非科学者である政治アクターに対して,ヒトゲノムに関する科学情報や重要性,会議の結果等を提示し,科学情報の非対称性を軽減する働きをした。

 また,米国では大規模予算の権限があり,省庁横断的な議論が可能な議会で,OTAとNRCが統制された科学的市場を形成し,政治アクターに対し,科学情報の非対称性を軽減した。また,OTAとNRCは報告書や会議を通じて議会の予算策定に影響を及ぼし,政策決定の情報の非対称性の軽減に貢献した。しかし,日本では統制された科学的市場が形成されなかった事が明らかになった。科学技術会議では科学情報は審議されたが,政策決定に充分アクセスできず,政策決定に関する情報の非対称性を軽減できなかった。各省庁では審議会が一つしか存在せず,情報の市場を形成することはできなかった。また,国会は予算審議の方法から,米国議会のように大規模予算の決定権を持つプリンシパルの役割は果たさず,むしろ与党内の部会等にその役割が期待できるが,そこでも統制された科学的市場を形成する境界組織が存在しない事が示された。

 第四章では、これらの検証結果から,日米のヒトゲノムの政策立案過程において、媒介機能がアメリカに存在したが、日本には存在しなかったこと、媒介機能をはたす境界組織の整備が日本では今後必要であるという結論が導かれた。

 以上により、ヒトゲノム計画の日本での遅れの原因としては,特許戦略の遅れや,セレーラの躍進,貿易摩擦等様々な要因が議論されているが,本稿では科学と政治の間に位置する境界組織という視点から、一般的な理論的フレームワークと、ヒトゲノム計画をテーマとした丹念な実証研究により、日本の科学技術政策の立案、実行のプロセスの制度的な問題を明らかにした。

 よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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