学位論文要旨



No 121758
著者(漢字) 越門,勝彦
著者(英字)
著者(カナ) コエモン,カツヒコ
標題(和) ジャン・ナベールの道徳哲学 : 他者と世界を介した自己理解の探究
標題(洋)
報告番号 121758
報告番号 甲21758
学位授与日 2006.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第547号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 助教授 一ノ瀬,正樹
 東京大学 助教授 鈴木,泉
 京都大学 助教授 杉村,靖彦
内容要旨 要旨を表示する

 本論は、自由と悪という二つのテーマに即して、ジャン・ナベール(1881〜1960)の道徳哲学の解明を試みた研究である。テクストとしては、主に、『自由の内的経験』、『倫理学要綱』、『悪についての試論』を扱った。

 ナベールは、自由そのものではなく自由の「内的経験」を考察の対象とした。つまり、理念ではなく、自由の具体的経験を問題としたのである。そして、内的経験の位相を二つに大別して論じた。その二つの位相とは、決断もしくは行為の実行に至るまでのプロセス(本論第一部)と、人格の変化(同第二部)である。

 決断に至るまでのプロセスに関して、要点は次の三つである。第一に、複数の可能な選択肢を前にした未決定状態は自由の内的経験ではない。第二に、熟慮は表象の連鎖ではない。そこには意志作用が働いている。そして最後に、その意志作用である我有化(s'approprierの名詞形)が客観的な価値観を自己の動機とする。

 制度による選択の自由の保証はそれ自体重要なことだが、個人が自由に選択できる状況にあるという事実は自由の内的経験ではない。選択肢の一つを選び取り行為を実行するプロセスが自由の内的経験に該当する。そこで、ナベールとともにわれわれが解明すべきは、この一連のプロセスの内実である。そのプロセスの重要な局面である熟慮は、願望、理念、目標などの表象が順々に連なって決断へと導くものではない。それらが純粋な表象である限り、決して決断をもたらさない。理念や目標が動機となり、われわれを決断、さらには行動へと移行させるには、ナベールが我有化と呼ぶ意志作用が働く必要がある。理念や目標を、他ならぬ私が実現すべき価値として採用するとき、すなわち我有化するとき、その価値は私を決断へと動かす動機となる。このように、意志作用が、もとは客観的な価値観でしかない理念や目標を自分自身の価値として取り込み、動機へと練り上げていくプロセスが熟慮である。

 だが、われわれは意志作用を直接的に経験するのではない。確かに、我有化と決断の瞬間をそれと分かる仕方で経験することもある。だが、その決断はその後撤回されることになるかもしれない。したがって、意志作用の働きを正確に理解するのは、反省によってである。つまり、意志作用は意識の直接経験の対象とはならず、われわれは熟慮のプロセスにおけるその意義を反省によって事後的に理解しうるのみである。

 ナベールは、メーヌ・ド・ビランを起源とするフランス反省哲学の系譜に属しており、自由の経験において反省にこうした重要な役割を認める発想も、その文脈で理解すべきである。ところで、ナベール自身は自覚していないが、反省はいくつかの種類に区別すべきだと思われる。例えば、ナベール研究者のノランは、哲学の方法たる「哲学的反省」と「日常的反省」を区別している。本論では、反省を<客体を介しての自己理解>と<事後的な分析>とに区別する。前者は、意志作用の客体化である行動や作品を介して、直接経験の対象とならない意志作用を読み取るというタイプの反省であり、後者は、内的経験のプロセスを事後的に分析して、その中での意志作用の意義を理解するというタイプの反省である。後者のタイプの反省は、それ自体一つの意志作用であるのだから、無秩序に生じるはずはなく、何をきっかけとするのかが問題となる。そこで、『倫理学要綱』に示された、過ち、失敗、孤独という「否定的経験」が反省のきっかけに該当するものと解釈し、その含意を明確にする。

 ところで、ナベールは、自由の内的経験の最も重要な側面を信念と規定する。それは、過去に繰り返された行為から自己の願望や価値観を読み取り、それに即応した行動を過去になしえたという事実を以って「私は自由であった」と信じ、また、そのような行動を将来なしうるという能力の感情において「私は自由である」と信じる、そのような仕方での自由の経験である。信念としての自由の規定は、同時に、自由を、単独の行為ではなく、行為の反復の水準で、言い換えれば人格の水準で考察することを意味する。というのも、ナベールの定義によれば、人格は、一個人がなす諸々の行動を統合し全体化するカテゴリーであり、信念はまさにその人格のカテゴリーと相即的に形成されるからである。

 行為は人格のカテゴリーの下に全体化され、意味づけを与えられるが、しかし同時に、人格は行為から成り立っているのであり、したがって人格を変化させるのは行為である。ある一つの行為が私に能力の感情をもたらし、そのような行為をなしうる人格との自覚を私に与えることはありうる。ただし、人格の変化が定着するためには、行為が反復されなければならない。ところで、こうした人格の変化は無秩序に起こるのではなく、既存の価値観を反映した形で生じる。われわれが意図的に人格を変化させるときには、よい方向へと変えようとするはずである。その指針となるのが徳である。ナベールによれば、徳は、習慣化することなく、行為の意識的な反復によって維持すべきものである。それは、いかなる徳であろうと絶対的ではなく、常に再検討の余地を残すからである。

 悪のテーマ(本論第三部)については、カントとの関係を確認しなければならない。というのも、『悪についての試論』が、問題設定から概念にいたるまで、カントの『単なる理性の限界内の宗教』の影響下にあることは明白だからである。そこで、まず、カントのこの著作の内容を概観する。そして、<悪の内実>と<悪を問う水準>という二つの論点に着目し、これらの論点において、ナベールがどのようにカントを批判し、その問題点の克服を試みているのかを考察する。

 カントは、意志の弱さ、不純さ、邪悪さといった「根元悪」を、格率の順序関係として規定する。つまり、義務に基づいて道徳法則だけを格率に採用しなければならないのに、道徳法則に違反しないまでも、別の格率との混合状態において採用したり、別の格率を優先させたりすることが悪だというわけである。カントはこのように、悪を純粋に形式として捉えるべきであり、感情は二次的だと断定する。これに対し、ナベールは、「正当化できないものの感情」は一切の法則や規範に先行すると主張する。われわれがある事態もしくは行為を悪いと判断するとき、規範を基準として妥当-非妥当を判別する以前に、正当化できないという感情を抱くはずであり、この感情が悪の経験の核心をなすというのである。法則に準拠した形式主義的な悪の定義の難点は、災いと道徳的悪を峻別し、後者のみを厳密な意味での悪と見なし、前者を悪のカテゴリーから取り逃してしまうところにある。形式主義的立場は、個人の意志のありように定位して悪を規定するため、個人の意志を超えた出来事はすべて、原則的には悪の要素を全く持たないことになる。こうした立場に欠けているのは、苦しみへのまなざしである。災いと道徳的悪の共通の地盤は苦しみである。われわれは、まず、誰かが言われなくして苦しみを蒙っている現実に対して正当化できないと感じるのであり、災いと道徳的悪の区別は、苦しみをもたらすものというカテゴリーの下位区分に相当するのである。ここから、ナベールの主張する感情の先行性とは、感情が災いと道徳的悪の共通の地盤である苦しみに対応していることを述べたものとの解釈が成り立つのである。以上が<悪の内実>に関連する議論である。

 だが、カントが想定する道徳的悪は、他者に苦しみをもたらさない行為にも当てはまる点が特異である。ナベールはこの悪概念をカントと共有している。そこでは、悪が行為者当人の内面の問題として捉えられている。結果的に誰の心も体も傷つけることなく、物的損害をもたらすこともない行動であっても、他人を手段として用いることを容認する格率に基づいていたなら、その行為は端的に悪となる。そして、ナベールは、われわれがその悪を「罪の感情」として経験すると言う。人は一般に、こうした道徳観を厳格すぎると評価し、時に道徳的潔癖症などと揶揄もする。だが、それは、内面の問題としての悪の矮小化である。かつては悪と見なされていなかった行為や事態が新たに悪として認定されるためには、「罪の感情」とそれに対応した責任概念が不可欠である。この責任概念は、第一に、行為者に帰属する対象が無際限に拡張すること、そして第二に、帰属は他者ではなく行為者当人が行うこと、この二点を特徴とする。以上が<悪を問う水準>に関連する議論である。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、ジャン・ナベールによる人間の自由と悪の経験の分析を克明に辿り、自己形成する人間の有り方を解明したものである。ナベールの諸著作は二〇世紀前半にフランスで主流思潮となった反省の哲学の最高峰をなすものであるが、その後の実存哲学と現象学との流行という歴史ゆえに、また文体の取っ付きにくさもあって、本格的に研究されることは極めて少なかった。かかる状況にあって、本論文は、ナベールの仕事をアクチュアルな問題へとつなげ、その思想の豊かさを明らかにすることを目論んだ。

 第一部は、ナベールの言う「自由の内的経験」を、自覚的な選択や迷いの場面から始まり熟慮し決断に至るまでの過程において、つぶさに検討している。「どうしたらよいか」と問うこと、或る価値づけをもつ諸動機を我がものにすること、そして、意識において私が行動主体として立ち上がること、これらの有りようを、克明に浮かび上がらせている。

 第二部は、反省の役割を考察する。反省が始まるきっかけが否定的経験にあること、反省によって人は統一性を回復し、「自由への信」を形成すること、そして人格の生成がみられることなどをみることが主たる内容である。ここでの本論文の功績は、ナベールの考察のうちに伏在する反省の二種を明示化したことである。

 第三部では、善悪を形式主義的に捉えるカントを批判するナベールの議論を取りあげ、道徳の基礎に感情があることを明らかにしてゆく。第三部の特徴は、現代におけるさまざまな道徳論(道徳の基礎づけ)との対比においてナベールの道徳哲学の輪郭を明らかにし、のみならず、そもそも哲学とはいかなる営みかということに立ちかえりつつ、論者独自の展望を見出すまでに至っていることにある。

 以上のように、本論文は、埋もれがちなナベールの仕事を現在の道徳哲学における論争を踏まえつつ掘り起こし、その思想の豊かさを明らかにしたものである。そこには確かに、ナベール自身が取りあげた主題に制約され、具体的な行動が相手にする諸対象と行動を取りまく状況とについての分析が欠けている憾みはある。この欠如は、論者が、内閉的な意識が問題ではないことを示すために他者との交流という側面に目を向けたことによっても補えるものではない。とはいえ、本論文が、ナベールという二〇世紀前半の最良の哲学者の仕事を甦らせ、そこに、現代の諸問題の解決に生かされるべき豊かな鉱脈があることを示した意義は極めて大きい。

 よって、本論文は博士(文学)の学位を授与するに値すると判断する。

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