学位論文要旨



No 121759
著者(漢字) 星野,靖二
著者(英字)
著者(カナ) ホシノ,セイジ
標題(和) 近代日本における宗教概念の展開 : 宗教者の自己理解を中心に
標題(洋)
報告番号 121759
報告番号 甲21759
学位授与日 2006.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第548号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 助教授 苅部,直
 日本女子大学 助教授 磯前,順一
 一橋大学 教授 深澤,英隆
内容要旨 要旨を表示する

本稿は近代日本における宗教概念の展開を、宗教者の自己理解を中心に論じるものである。

まず第I部では先行研究の整理を行い、本稿がどのような問題意識を先行研究から引き継いで共有し、また何を考察するのか、そしてそれはどのように位置付け得るのかといった事柄について論じる。

第1章は「宗教」概念の歴史性を問う視点がどのように「宗教」についての学的研究にもたらされたのか、またそうした視点を近代日本という場に向けた研究がどのように行われてきたのかを概観し、続いて思想史研究の研究史を特に近代日本の宗教についての研究との関わりにおいて取り上げる。その上で本稿の基本的な視座として、ある宗教伝統に積極的に関わる者達が自らの奉じる宗教伝統を「宗教」として語っていく場に焦点を合わせ、そしてそこで「宗教」としての自己理解に基づいて再帰的に自己を組み替えていく自己定位の営みに目を向ける旨述べる。

続いて第2章では、武田清子の日本キリスト教思想史の試みを取り上げ、主にその「近代化」と「宗教」という分析枠組みを用いる方法論に対して考察を加える。また第I部の最後となる第3章では、本稿で用いる幾つかの概念、即ち文明と開化、そしてまた自然的宗教や自然神学といったものについてその背景を概観し、補足を行う。

第II部では、明治初年から明治十年代中葉頃までに焦点を合わせ、「宗教」なるものの提示と受容の諸相について考察を加える。ここでは「開化」と「宗教」が密接な関係にあるものとするようなキリスト教理解が提示されたこと、そしてそうした提示には儒教的な世界観と呼応するものがあったことについて論じる。またそうした宗教理解を言語化して広く訴えようとする姿勢がキリスト教徒や仏教徒に見られたことについても述べる。

第4章は、まず明治初期における「宗教」が「開化」と不可分なものとして捉えられていたことについて、キリスト教の宣教師達がそのようなものとしてキリスト教を提示していたことについて自然神学的なキリスト教理解の影響に触れながら述べる。また、そうした自然神学的なキリスト教理解、あるいはその神の議論が、儒教の影響を受けた伝統的な世界観に呼応するものとして解され得たことについて中村敬宇を事例として論じる。

第5章では「宗教」概念の把握における伝統との連続の問題について、明治十年代にキリスト教の立場から積極的な言論活動を行っていた高橋五郎の「理学」と「宗教」の関係についての論説に考察を加える。そこで宗教と学問は調和の中に捉えられているが、それは儒教的な学問-道徳論と自然神学的なキリスト教理解が交錯する地点において成立したものであり、伝統的な世界観のある種の延長において「宗教」が捉えられていると論じる。

第6章では、そうした「宗教」についての議論が誰にどのように提示されていたのかについて、仏教演説の試みを事例として論じる。この仏教演説は必ずしも仏教に積極的な関心を持つわけではない人々を対象とし、従来から行われてきた説教とは異なるものとして企図されたものであり、説教が基本的に仏教伝統の真理性が前提されている場において行われたものであったのに対して、仏教演説は仏教伝統の外側にある言葉を参照してその真理性を弁証しようとするものであったと指摘する。

そしてこの仏教演説は同時期におけるキリスト教徒達による演説の営みと同じく「中流以上の人士」を聴衆として想定するものであり、そこで論じられる「宗教」については「道理」や「修養」との関わりに焦点が当てられていることについて述べる。

第III部では、「宗教」概念を組み上げていく過程において、様々な契機を経て「宗教」に独自な領域が模索されていく幾つかの事例を取り扱う。

まず第7章では小崎弘道がJ・H・シーリーの原著を翻訳して1881(M14)年に刊行した『宗教要論』と、1886(M19)年に小崎自身が著した『政教新論』とを比較して考察を加える。

まず両書共に「宗教」は国の開化と密接な関係があるとするが、それは特に道徳との関わりにおいて論じられており、そこで「宗教」は人間の精神に影響を与えて道徳を主体的に行わしめるものとされる。これは道徳との関わりにおいて「宗教」の自律的な領域を主張するものであるが、そこで想定されている道徳が専ら国家・社会との関わりにおいて論じられており、そこで宗教的価値と政治的価値が道徳を媒介として調和のうちに捉えられていることについて論じる。また小崎が『新論』で儒教にキリスト教の前段階として一定の評価を与えていることを指摘する。

次に第8章では、仏教の立場から行われた宗教論の事例として中西牛郎の議論を取り上げ、これを井上円了の議論と比較して考察を加える。井上の議論は進化論によるキリスト教批判等を念頭に置いて仏教の方がより道理に適っているとするものであり、そこには「宗教」の真理性を人間知との関わりにおいて判定する態度が見られる。

こうした知との関係から「宗教」を論じる論法はキリスト教の弁証論を反転させたものであったが(cf.第6章)、それに対して中西は全ての宗教伝統は超越性との関わりを持つとし、またそれを「宗教」の本質として位置付けている。ここで中西は仏教の弁証・キリスト教の批判を目的として議論を行っているが、この議論の枠組みにおいて仏教とキリスト教は同じ「宗教」という資格において捉えられているのである。

しかし中西の述べる超越性は、知を超えたところにある一方で且つそれに反するものではないとされており、そこで知として捉えられているところのものに国粋主義的な見解がすべり込まされていることについても言及する。

また第9章では植村正久の宗教論を取り上げ、その明治十年代から二十年代にかけての変遷について論じる。即ち明治十年代において植村はキリスト教と文明は切り離せないものとし、またそうしたあり方を範型として「宗教」という概念を捉えていたが、植村自身の洋行体験や自由主義的なキリスト教理解が日本に持ち込まれたこと等を契機として、明治二十年代において植村は文明とひとまず区別されるところにキリスト教を位置付けるようになる。そしてそこで「宗教」は他の領域に還元されない独自のものとして捉えられ、その探求は比較宗教学に委ねられることになるのである。

このように明治初期において文明との関わりにおいて提示され、またそのようなものとして受容された「宗教」という概念は、一方においては知的な考究の対象となり、他方においては他の領域に還元されない独自の領域を持つものとして捉えられていくことになるが、何れの場合でも実践的には道徳との関わりに焦点があてられていた。そして第7・8章で触れたように、そこで取り上げられる道徳において宗教的価値と政治的価値が相克することは想定されていなかったが、第IV部では世俗権力との関わりにおいて道徳と宗教の関係が問われる局面と、その後の「宗教」のあり方について論じる。

まず第10章では、内村鑑三不敬事件といわゆる教育と宗教の衝突問題を取り上げ、そこで行われたキリスト教に対する批判に触れながら、忠や孝といった教育勅語に述べられている徳目は個別の宗教伝統よりも上位にあり、またそこに同化すべきものとして論じられていたことを中西牛郎の議論を事例にして論じる。そして中西においてはそのようなキリスト教こそが純粋なキリスト教であり、即ち純粋な宗教であるとして論じられていたことについても触れる。

もちろんこうした中西のキリスト教批判をキリスト教徒達が全面的に受け容れたわけではないが、日本という場に即してキリスト教を捉え直さなくてはならないという問題意識自体は共有されていたことを指摘し、その上でこの時期の植村正久による道徳と宗教の議論について考察を加える。

そこで植村はカーライルの「英雄崇拝」を超越的人格としてのイエスに接続させ、人はイエスを目指して道徳的に向上していくべきであり、またそれが救済につながるとしていた。こうした議論の枠組みにおいて宗教は人に主体的に道徳を行わせるところのものとして理念的には道徳の上位に位置付けられることになるが、同時にそこで遂行されるべき具体的な徳目については論じ得ないのであり、またそうすることによって道徳と宗教をそれぞれ異なる領域を取り扱うものとして併存させることが可能になったと論じる。

最後に第11章では、上述してきたような展開を受け、もはや「宗教」とは何であるかという議論を行う必要がなくなった明治後期の状況において、自らの宗教伝統についての省察がどのような形で行われるようになるのかということをキリスト教界の状況と関連させて論じる。

まず日本人キリスト教徒による神学、即ち自らの宗教伝統に対する知的・反省的な把握が試みられるようになったということと、比較宗教の試みを参照することが同時に行われていたことを指摘する。これはつまり個別の宗教伝統に対する知的な掘り下げの試みと、総称としての宗教に対するそれとが区別され、前者は後者を参照することによって――即ちそれによって宗教としての領域を確保された上で――行われるようになったということを意味するのである。

また、宗教そのものに対する探求はこれも同時代的な営みであった宗教哲学の試みにおいて追求されていくのであるが、こうした神学や比較宗教、あるいは宗教哲学の担い手が、とりわけ都市中間層に存在していたことについても言及する。

このように、近代日本において宗教が他の何ものでもなく宗教として捉えられるようになっていく過程の一端について考察を加えた上で、結論として道理や道徳と宗教がどのような位置関係にあるものとして論じられてきたのか、また宗教そのものについての視座がどのように展開してきたのかについて論じる。

審査要旨 要旨を表示する

 星野靖二氏の「近代日本における宗教概念の展開――宗教者の自己理解を中心に」は、近代化の道を歩み始めた日本で、religionの訳語として用いられた「宗教」の概念がどのような意義をもって用いられ、精神文化をめぐる同時代の思考枠組みと関わり合っていたかを論じたものである。西洋から持ち込まれた宗教概念があたかも普遍的な概念であるかのように思われていた時代が過ぎゆきつつある今日、日本の宗教の現実と照らし合わされながら宗教概念がいつ頃どのように定着し、その後どのような使われ方をしてきたかという論題は大いに注目を浴びつつある。星野氏はこうした新しい研究動向を踏まえるとともに、長い蓄積をもつ近代思想史研究の成果を批判的に読み込みつつ、キリスト教や仏教を奉じる明治初中期の論者に即して宗教概念の意義内容の変化を明らかにしていく。

 初期のキリスト教は「文明」や「開化」に貢献するものとして意義づけられることが多く、それはまた、自然神学的なキリスト教理解にそったもので学問と宗教が合致しうるという前提に立っていた。そこには儒教の影響を受けた伝統的な世界観と符節を合わせていたという事情も反映している。このような宗教理解が支配的であった明治10年代には、他宗教の存在を意識しつつ、自己が信奉するものを相対化して「宗教」として提示する論述の形式も広まっていく。星野氏は中村敬宇、高橋吾良らのキリスト教系の論者、また「仏教演説」という論述形式の登場に注目しながら、定着期にあった宗教概念が以上のような特徴をもっていたことを丁寧に示していく。

 続いて、単に「文明」や「開化」に役立つものとしてではなく、道徳や知と関連づけられつつ「宗教」独自の領域があると強調される時期が来る。キリスト教の小崎弘道や仏教の中西牛郎の場合を見ると、「開化」に役立つとしてもそれは宗教が道徳や知を超えていてそれらを基礎づけるようなものだからだと解されている。明治20年代に移るにつれて、植村正久においても「文明」という目標とは別に「宗教」独自の領域があることが強調され始める。このような立場は内村鑑三不敬事件と「宗教と教育との衝突」論争を経て多数の人びとにおいて明確に析出されてくる。以上は、宗教学の成立と密接にからみあう過程だが、さらに宗教学成立後の明治後期になると宗教学的な知を前提にしつつ自らの宗教の内側での知的な掘り下げに集中するような態度が目立つようになる。

 以上の論述は丁寧な資料の読み込みから引き出された星野氏独自の理解であり、近代初期の日本における「宗教」概念の歴史についての大きな貢献である。従来の宗教思想史で取り上げられてきた宗教と国家の関係といった問題について、またなぜこれらの素材が取り上げられたのかについての論及が弱いなど不十分な点はあるが、キリスト教、仏教の思想史や宗教学史を横断し、数十年の幅で日本の「宗教」概念の歴史をたどった試みはこれまでになく、新しい肥沃な土地を切り開くような価値をもつ業績と言える。よって審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものと判断する。

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