学位論文要旨



No 121760
著者(漢字) 木村,覚
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,サトル
標題(和) 判断力の批判としての美学 : I・カントの美学的思考の研究
標題(洋)
報告番号 121760
報告番号 甲21760
学位授与日 2006.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第549号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 小田部,胤久
 東京大学 教授 藤田,一美
 東京大学 教授 西村,清和
 埼玉大学 教授 渋谷,治美
 東京大学 助教授 熊野,純彦
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、I・カントが『判断力批判』(一七九〇年)の第一部「直感的判断力の批判」で展開した判断力の批判としての美学をめぐる研究である。第一部でその成立に至るまでの彼の諸考察を、第二部で『判断力批判』で確立した直感的判断力の批判を究明する。

 第一部の第一章では、六四年の二つの論考を検討する。最初に対象とするのは『美しいものと崇高なものの感情に関する観察』である。当時、社交人としても知られていた哲学者カントが、観察者の眼差しで人々の振る舞いを考察するなか、名誉欲に、理性や徳に代わってひとに公益的な行為を促す衝動を見いだした点に着目する。名誉欲によってひとは、思考において自分以外の立場を取る。この他者への顧慮によって多様な他者の立場が反省出来るとともに、そこから統一ないし「道徳的本性の全体」が自らの内に示される、とカントが考える点を分析する(第一節)。

 その一方で、妄想を通してのものである限り、他者への顧慮はひとを高慢さや狂気へ導く可能性がある。同年の論考「脳病試論」の研究を通して、カントが他者を顧慮する際に自分に引きつけて他者を解釈することの内に高慢さや狂気の原因を見いだしている点に注目する。また、思考においてあらゆる他者の表象の仕方を顧慮することを論じる『判断力批判』の共通感官論にも通底する論点が、すでに六四年のこの二つの論考の内に示されていることを確認する(第二節)。

 第一部の第二章では、七二年から八九年までの人間学講義録を中心に、判断力の批判としての美学が成立するまでのカントの考察の過程を辿る。とくに第一節で趣味の「批判」と「規則」、第二節で心情諸力の「調和」、第三節で「判断力」と「共通感官」をそれぞれ中心的議題にする。まず、七二-七三年にカントが、趣味を学説の内に位置づける立場に反対し、他方でケイムズ卿を評価しながら趣味を批判の内に置くべきものとして論じた点を分析する。とくにそこで、直観に先行する趣味の規則を斥け、趣味をあくまでも陶冶を通して獲得するものとしたカントの姿勢に『判断力批判』と連続する面のあることを明らかにする(第一節)。次に、諸認識能力の調和なかでもそれらの「自由な戯れ」が、七五-七六年の創作(詩作)を論じる際に言及されている点に注目し、「調和」やそれを反省する判断力が創作論において模索されていたことを明示する(第二節)。さらに「判断力」と「共通感官」(共有的感官)を取りあげ、とくにそれらがエゴイスムや狂気を論じる場に置かれている点に焦点を絞る。そこでカントが、趣味を各人固有のものと見なす立場を批判し、意見が異なる際にはむしろ争うことが可能であるとし、趣味判断においてひとは他人の視線を考慮して選択すべきであることを強調した点に考察を向ける(第三節)。

 第二部は『判断力批判』で展開された判断力の批判としての美学を解明する。

 第一章は、趣味判断における直感的判断力の批判を考察する。規定的判断力と異なる反省的判断力の特徴を、直観を概念に関係させる際にその反省が悟性の命令に服さないことに見る。すなわちそこでは、包摂は概念のもとにではなくただ判断力の条件のもとに対象の形式を包摂することであり、そのとき対象を把捉する自由な構想力は、概念なしに図式機能を営む。また、そこに生じる構想力と悟性の調和は、感覚可能な関係として論じられている。その際、判断力が(構想力の把捉における)対象の形式と比較する判断力の条件とは、主観的ではあるもののすべての人間に一様な普遍的なものである(第一節)。共通感官論から見た場合、こうした判定の働きは、主観的で私的な条件を退け、あらゆる他者の表象の仕方を思考の内でア・プリオリに顧慮することと理解出来る。ここで、共通感官を狂気との対比のもとで捉える考えに注目し、趣味判断を下すことの内には「趣味の事柄における裁判官を演じる」ことが含まれているとするカントの論点を浮き彫りにする(第二節)。

 こうした直感的判断力は、自己自律的な立法能力として、この主観的条件(美のア・プリオリな基準)を自ら挙示する。判断力はその際、自分があらかじめ想定する主観的合目的性の原理に基づく。この原理について、判断力の必要の概念を手がかりに、とくに理性の必要を論じた八六年の論考「思考において方向を定めるとはどういうことか」を参照しつつ明らかにする。さらに、カントが趣味判断の根拠に、規定されない概念である超感性的基体、とくに叡智的なものを置くことに注目する。これは、単に判断力の主観的合目的性の原理ではなくその根拠となる概念であり、単なる純粋な理性概念である。この概念を感性的なものの根底に置くようにとの理性の要求に応じるところに、判断力の使用はある。すべての上級諸認識能力が合致する叡智的なものを望見しつつ、悟性や理性というア・プリオリな能力と関わりながら、判断力はそれらの合一点を探し求めるよう強いられる(第三節)。そこで、悟性に合法則的な構想力の自由が意志の自由との類比的なものとして捉えられている点を取りあげる。そこから、道徳的なものと類比的でありかつ悟性と合法則的に調和する構想力の自由を捉える判断力の原理は、自己自律的な己の立法作用を支えるとともに、叡智的なものを根拠にした上で判断力が自らの方向を定める原理であることを解明する。また、こうした超感性的なものこそ、異なる判断を下す判断者の争いの内に一致の希望を与えるものである点を明らかにする(第四節)。

 第二章は、崇高なものの直感的判断における判断力の批判を考察する。とくにカントが、人間のもつ道徳的素質を顧慮する機会としてこの判断を捉えている点に議論を定める。カントの崇高論は、否定的な契機(不快)と肯定的な契機(不快を通して可能になる快)によって構成されている。とくに否定的な契機に注目する傾向がある近年の解釈を、プリースの論点を概観しつつ批判し、彼らが総じて直感的判断力のあり方への省察を欠いていることを指摘する(はじめに)。美しいものとは異なり、崇高なものの場合、自然(の対象)は、それを前にする主観の能力に対して明らかに反合目的的でありまた不適合である。端的に言えば、そうした自然は本来的には崇高ではない。それにもかかわらずこの自然(の対象)はそれだけますます崇高であると判断される、とカントは考える。その際、構想力と理性が、葛藤によって主観的合目的性を生みだす。まず、こうした葛藤が調和的であると表象される点に崇高なものの判断の特徴を捉える(第一節)。

 自然は本来的には崇高ではないとすれば、真の崇高性は判断する主観の心情の内にある。崇高なものは従って、あくまでも反省的判断力の働きのもとでの精神の調和の内にある。崇高ではない自然がなおも直感的判断において崇高と呼ばれるのは、自然の直観(構想力による対象の形式の総括への努力)から道徳的なものへと至り、そしてその心情の内にある人間性の理念への尊敬を自然の尊敬へとすり替えるあり方に基づいている。そこから、こうしたすり替えはいかにして可能かを問題として呈示する(第二節)。

 そこで明らかにするのは、対象の形式が判断力に対して合目的的ではないこの場合に、それでも判断力によってこの対象の形式の偶然的な使用あるいは「可能的な合目的的使用」が遂行されることで、自然には全く依存しないある合目的的なものが心情に意識される点である。ここでの合目的性は、自然の合目的性とは異なり「より高次の合目的性」とも呼ばれる主観の内にある諸認識能力の合目的的関係である(第三節)。また、同一主観内にある二つの異なる(自然概念と自由概念の)領域間の移行を可能にする契機がこの判断に含まれるかについて論じる。自然の形式の合法則性は、自然の内で実現されるべき諸目的の可能性と合致すると考えられなければならない。崇高なものの直感的判断にこの移行の可能性を捉えるならば、構想力の努力が理念の呈示としては不適合であると見なされることによってむしろ尊敬の感情を喚起する点にあるとする解釈を試みる(第四節)。

 さらに、この判断においてひとは、目の前の自然に対して自らの無力を意識しつつも、同時に諸認識能力の使命へ向けて自らの反省を拡張しうる。この内に真理があるとカントが述べることに注目する。崇高なものにおける直感的判断は、このとき生じる快感情を通して、自己の諸能力の発展と訓練が「我々」に委ねられ課せられていること、つまり「我々」の能力の使命を明らかにする機会である。これによって諸能力(とくに理念)の陶冶が促されることになる。カントが注意するのは、開化(陶冶)によって準備された「我々」を未開人と対照しながら「我々」が崇高と呼ぶある自然の対象に対して無感動なままのひと(「我々」の内の一人)は、「感情」をもたぬひとと見なされ非難を受ける点である。カントにとって荒々しい自然は、「我々」にとって人間の道徳的素質を顧慮するあらゆる適切な機会の一つであるべきものである。それは、単に個人(判断者)のみならず誰も(他の判断者の誰も)がそれを顧慮する機会であると考慮するべき対象であり、判断者は、この考慮によって、自らの満足をあらゆるひとにも要求するのである(第五節)。

 次の点が本論文の結論になる。普遍妥当性の要求をともなう直感的判断を下すことは、判断者が「参与」の状態に身を置くことであり、単に一個人として私的な条件に従うのではなく、普遍的な立場から判断を下すことを意味する。判断力の批判としての美学とは従って、普遍的な参与の感情とともにひとが直感的に判断するという事態の存在する可能性のために考究されたものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、I・カントの美学的思考を、とりわけ彼が『判断力批判』(1790)において主題とした「反省的判断力」の働きに即して、通時的かつ体系的に明らかにしようとするものである。第一部は『判断力批判』に先立つ論考・講義録・遺稿に見られる美学的思考を検討し、第二部は批判期のカントが自らの美学的思考を展開した『判断力批判』第一部「直感的判断力の批判」の詳細な分析を行う。

 第一部第一章において著者は、批判期以前のカントの二つの論考「美しいものと崇高なものの感情に関する観察」および「脳病試論」の分析をとおして、思考において他者の立場を顧慮する社交性に対するカントの関心を浮き彫りにし、そこに批判期の『判断力批判』につながる論点を読み取る。第一部第二章は1772年から1789年までの人間学講義録を検討しつつ、「趣味」と「規則」、心的能力の「調和」、および「共通感官」という三つの論点に即して『判断力批判』の成立史に光を投げかける。

 『判断力批判』第一部「直感的判断力の批判」は「美しいもの」と同時に「崇高なもの」をも主題とするが、こうしたカントの二分法を踏まえて、本論文第二部は第一章において「美しいもの」に関するカントの議論を、第二章において「崇高なもの」に関するカントの議論を対象とする。筆者によれば、「直感的判断力」は自己の内に判断の原理を有しており、それゆえに自律的であるにもかかわらず、常に超感性的なもの・道徳的なものとかかわり、このかかわりが「直感的判断」の公共性を支える。筆者は、こうしたかかわりのもとにおいてのみ、人々は自らの直感的判断の正当性をめぐって相互に争いつつも、究極的には一致した判断にいたることを希望しうる、とカントの議論をまとめる。このように、美学的な議論の内に含まれる道徳的な側面を炙り出し、「美」から「道徳」への「移行」をめぐるカントの論述の内に「私」から「われわれ」が生成する機構を読み取る点に、本論考の特色がある。

 膨大な資料を読みこなした成果を論文に反映させるために筆者はときに不要な議論に立ち入り、そのため細部に未整理な論点が残されている。また、引用文の解釈に強引な点が散見され、そのために議論の道筋が必ずしも明確とはなっていない箇所がある。とはいえ、先行研究をも視野に収めつつ、『判断力批判』の成立以前のカントの美学的著作・講義録・遺稿を一貫した視点から読解し、『判断力批判』を「美」から「道徳」への「移行」の問題に即して体系的に解釈しようとした点は、筆者の力量を十分に示している。以上に基づいて、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するに値すると判断する。

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