学位論文要旨



No 121764
著者(漢字) 安部,聡一郎
著者(英字)
著者(カナ) アベ,ソウイチロウ
標題(和) 後漢末士大夫像の構成過程からみた魏晉貴族制の形成
標題(洋)
報告番号 121764
報告番号 甲21764
学位授与日 2006.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第553号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 平勢,隆郎
 東洋文化研究所 教授 黒田,明伸
 東洋文化研究所 教授 高見澤,磨
 東京大学 教授 岸本,美緒
 お茶の水女子大学 教授 窪添,慶文
内容要旨 要旨を表示する

 戰後日本の中國史研究における論爭の中でも、魏晉南北朝時代の貴族制、特にその形成過程をめぐっては盛んな議論が取り交わされてきた。一九五〇年代から七〇年代に掛けて川勝義雄氏や谷川道雄氏、矢野主税氏らが論爭の中から生み出していった成果は、時代區分の問題に關わるだけでなく、いわゆる「共同體」論として、中國社會に對する理解のあり方に關わる問題としても展開を遂げてきたといってよい。論爭の擔い手たちが第一線を退いた八〇年代半ば以來、こうした論爭は膠着のまま終息に向かったと言われるようになって久しいが、ちょうどその頃から貴族制形成期を分析する概念としてしばしば用いられるようになったものが名士であった。中でもこれを積極的に用いてきたのは渡邉義浩氏であろう。

 渡邉氏は貴族制論爭の間に提起された諸々の分析概念を否定した上で後漢末から三國期の貴族制形成過程を「名士」の觀點から論じたのであるが、これら諸概念をその原點である楊聯陞氏の理解まで遡って研究史的に檢證してみると、渡邉氏の理解は實際には先行する諸概念が問題としてきた士大夫の内面的な理念を重視する方向へと傾きつつあるものと考えられる。こうした觀點からすれば、渡邉氏の「名士」を含めて貴族制形成過程を總體的に再論していくためには、士大夫の内面的な理念、さらにその發現形態の一つと思われる名聲がいかなる存在であるのかを檢討する必要が生じよう。

 この點を考える際考慮すべきであるのが、魏晉南北朝時代に編纂された歴史記述の中にはその編纂者が生きていた時代の状況が投影されている場合があるという岡崎文夫氏以來指摘されてきた問題である。特に現在正史とされている范曄『後漢書』は後漢滅亡後二百年余りを經て編纂されたものであり、かつ貴族制形成過程において重視されてきた理念や名聲が人間によるある種の判斷によって構成されるものである以上、これに魏晉南北朝における後漢時代史理解の影響が伏在している可能性は高いものと考えなければならない。

 本論は序章における以上の檢討を踏まえ、特に基礎史料としての范曄『後漢書』の成立過程に注目し、その歴史的性格を捉えて分析を進めるために妥當な手法を考え(以上第一部)、その手法に基づいた貴族制形成過程の再檢討を行うことを目的とする(以上第二部)。貴族制形成過程の再檢討を行うにあたっては、特に貴族制形成の出發點になったとして從來多く檢討の對象となってきた黨錮の禁前後の時期を主たる對象とし、上述した理念や名聲に深く關わる論點を選んでその根據となる史料の形成過程を分析し、ここに現れる後漢末士大夫に關する從來の理解がどのような歴史的性質をもつものなのかを追求する。こうした試みは、今まで貴族制形成過程を考える上で議論されてきた諸概念を捉え直し、同過程の理解を深化させる上で充分な意味を持つであろう。

 第一部第一章では、まず後漢時代關係史料を取り卷く史學史的状況を檢討する。范曄『後漢書』が後漢王朝内で編纂された『東觀漢記』他先行する諸家『後漢書』・『後漢紀』をもとに編纂されたことは良く知られていたが、それらの性質や編纂過程について論じた研究はごく限られていた。本論ではまず『東觀漢記』が後漢代の史書として纏まった記述を作り上げた最初のものであったことを確認し、次いで魏晉南北朝時代の史學史的状況を踏まえ、編者の思想・價値觀が記事自體に影響を及ぼす可能性が實際に存在することを明らかにした。この前提に立てば、從來考えられていたように范曄『後漢書』をはじめとする諸家『後漢書』・『後漢紀』は『東觀漢記』の記述を忠實に引き繼で書かれたものであると考えることは出來なくなり、かつこれらの記述を合理的に繋がるよう選擇・接合する方法も史料の信頼性を高める方法として不適當ということになる。從って各時代における言説を混淆させないためには、『東觀漢記』以下の史料をそれぞれ區別して取り扱い、立場の違いを前提として比較檢討を行う手法を取るべきと考えられる。

 第一部第二章においては、この考え方と手法が有効であるかどうかを實際に『後漢書』史料の比較檢討を行うことで檢證した。范曄『後漢書』とそれに先行する袁宏『後漢紀』を除く『東觀漢記』以下多くの關係史料が亡佚しているため、檢討は内在的に記事の變質が證明できる場所を選んで集中的に行うこととした。實際の檢討は劉平・趙孝という二人の人物にかかる記述を選び、袁宏『後漢紀』卷九にみえる史料を中軸に『東觀漢記』以下の諸史料及び范曄『後漢書』を比較檢討した。結果として、趙孝兄弟の徳を賞贊する記述が兄・趙孝ひとりの義を強調する方向へと變化し、それに伴って説話に新たな後半部が付加されていくことを確認した。このことは『東觀漢記』から范曄『後漢書』に至る間に記事内容の變容と意味づけの變化があったという實例であり、ここで試行した手法が作業假説として有効であることを意味するであろう。

 以上第一部における基礎作業をもとに、第二部では貴族制形成過程に關わる史料を分析し、史料相互の關係や構造に立ち入ることでこの問題の再檢討を圖る。具體的には、貴族制形成過程に關わる論點として多く取り上げられてきた、黨錮の禁の際の所謂「天下名士の番付」、及び清流の雜多な性格を象徴する存在・あるいは「人物批評家」としてその役割が注目されてきた郭泰の二點である。

 第二部第一章では前者の問題を論じた。「天下名士の番付」は川勝義雄氏が黨錮の禁における清流勢力の統一性、自律性を支える具體的構造とした「郷論關節の重層構造」の存在を具體的に示すものであった。しかし本論の史料的見地からこの「番付」に關係する史料を檢討すると、張儉の結彈にみられる同縣内の事例は信頼できるものの、「天下名士の番付」は黨錮の際に實際に議論されていたものとは考え難く、主として三國末・西晉以降の議論をもとに形成され、東晉以降現在知られる形に整理されたものであると考えられた。このことが提起する問題は多岐にわたるが、特に禮教と中央の支配理念との複合によって成り立つ王法が中央から地方へといかに貫徹するのか、そして漢代には察舉制度などの形を取る士人と王朝との關係がいかに構築されるのか、といった論點が主として第二章に關わるものである。

 第二部第二章では、後者、即ち郭泰の問題を取り上げた。郭泰は黨錮當時における太學生の清議の首領であり、同時に隱逸とも深い關わりを持った人物とされる。川勝氏は彼を清流勢力が雜多な要素を含みつつ一つの抵抗運動として纏まっていることを象徴する人物として取り上げており、清流の統一性を重んずる氏の論理構成上重要な位置を占めると言える。さらに川勝氏を批判する渡邉氏の議論においては、郭泰は全國的なレベルの名聲の場の主事者であり散在的・分裂的な人物評價をまとめ人物評價尊重の風潮を形成する上で決定的な役割を果たした人物として、しばしば「郭泰の規制力」という表現が用いられる程の位置を占めている。從って郭泰の史料の檢討は、川勝氏や渡邉氏の理解の檢證から、理念や名聲の歴史性を考えることで從來の諸概念の構成を再檢討することに繋がり得る。

 范曄『後漢書』における郭泰は聖人に比し得る人物評價者として論じられている。こうした理解が上記二氏の理解の背景にあることは明らかだが、郭泰にはその評價を論じた(1)蔡〓「郭有道碑文」(2)皇甫謐『高士傳』(3)葛洪『抱朴子』(4)袁宏『後漢紀』そして(5)范曄『後漢書』の五點の文章がほぼ完全な形で殘されており、ここから各時代の郭泰評價を窺うことが出來る。本章ではまずこの五點の文章から郭泰の傳記・評價の論理構成を追い、次いでそれを念頭に記事・佚文の比較を行った。結果として、郭泰は沒後當初は隱逸として評價されていたが、三國末から西晉に掛けてその人物評價能力を聖人に比す評價が出現し、西晉末から東晉以降には後者の評價が中心となっていったこと、その變化には同時代の隱逸をめぐる理解の變化があったことが明らかとなった。そしてこの變化と同期するように人物評價者としての郭泰が活動の場を廣げ、隱逸とは對比的に描かれるようになる記述が出現する。范曄『後漢書』の郭泰評價はこうした展開を引き繼ぐものだったのであり、この點から人物評價者としての高い權威が廣く認められたのは實は西晉以降と見なさなければならない。人物評價の統一性を擔保する存在として郭泰を見ることは、西晉以降の歴史觀に引きずられたものと言わなければならないだろう。

 第一章・第二章の檢討からは三國末〜西晉が後漢末理解の上で轉轍點となることが窺え、かつ郭泰の評價は隱逸論の變化と深く關わっていた。第三章ではまず同時期に注目しつつ郭泰と對比的に描かれるに至る「逸民的人士」と隱逸の關係を整理した。彼らは根本的に政治的な存在とされる儒家的隱逸の系譜に屬し、そして西晉以降、禮教を通し王法の内の存在として仕官者と同等に位置づけられるに至ることが知られる。神矢法子氏の過禮と王法をめぐる議論を參照すれば、これは王法によって士を體制内へいかに回收するかの問題であると理解され、そこから所謂「逸民的人士」は西晉の正統性を證明する存在と位置づけられていることが窺い得る。最後に見通しとして士の體制への回收が郷里社會とどのように關わり得るかを地方官・隱逸の祭祀から檢討した。郷人による地方官祭祀は前漢代からみられ後漢代に盛んになったと考えられるが、これらは後漢代までは基本的に中央から放置されていたものの、三國魏で司馬氏專權が確立して以降、中央がその祭祀に關與していく事例がみられるようになる。こうした郷人による祭祀對象には隱逸が含まれる場合もあり、祭祀が教化の手段としても機能したと考えることを踏まえれば、西晉國家が王法を通じて士人、さらに郷人をも捉えようとしていた可能性を檢討することができる。これは今後檢討を要する課題であるが、史料の歴史性から新たな貴族制理解を切り開く切り口として追求していきたいと考えている。

―以上―

審査要旨 要旨を表示する

 提出された論文は、中国の貴族制の形成過程を考える上で議論されてきた諸概念を捉え直し、貴族制形成期に関する理解を深化させたものである。それは、史料の歴史的性格に注目し、そこに記された士人のあり方に関わるものとしての理念や名声に関わる記述を分析することを通してなされた。

 まず貴族制の形成過程をめぐる議論の展開とその史料的な問題を踏まえ、特に基礎資料としての范曄『後漢書』の成立過程に注目し、それが後漢から魏晋にかけての修史・史学の中でどのように形成されたのかを検討した。ここで得られた認識を土台とし、貴族制形成の出発点になったとされる党錮の禁前後に関する史料のうちでも特に貴族制形成過程の理解に深く関わる論点、すなわち人物評価「名士の番付」等を選び、諸史料の形成過程の分析を行うことで、ここに現れる後漢末士大夫に関する従来の「理解」がどのような歴史的性格をもつのかを追究した。

 先行研究をつぶさに検討して、後漢時代を語るべき諸史料について、皇帝側近が残したなど史料の残され方や、正統にからむ問題や「合理」的思惟など史料を生み出した史学のあり方を検討し、そこから分析の姿勢と手法を導く。その分析の姿勢と手法を用いて、逸文を渉猟して同一人物の伝記という諸書相互に比較可能な事例を選び、その姿勢と手法に関する妥当性を検証する。そうした基礎の上に立って、人物評価「名士の番付」等の論点に及んでいる。こうした点は、論文提出者の作業の手堅さを示すものである。

 「天下名士」に関わる「番付」の出現は、三国末から西晋以後であり、従来これを後漢末まで遡らせて理解していたのは、西晋から東晋にかけての後漢史理解にとらわれていたものである、という指摘や、聖人に比してその人物識鑑能力を高く評価する理解が現れるのは三国末から西晋以降であり、後漢末の郭泰がそうした能力をもつとされるにいたるのも西晋以後のことであって、従来郭泰をそうした能力をもつ輿論の調整役としてきた研究は大きな見直しを迫られる、という指摘は、上記の手堅い作業ともあいまって、今後の当該研究領域において、とても重厚な意味をもつことになろう。貴族制の形成過程を論じているつもりが、その実、貴族制下で作られた歴史認識を土台にしていたにすぎない、という危険は、従来曖昧な形では認識されていたが、それが緻密かつ具体的に示された。

 貴族制成立に関して重視されている郷論については、後漢の党錮の段階で、県・郷のレベル、その上の郡規模のレベル、その上の天下的規模のレベルという三つの場が検討されてきたが、提出論文によって、第三の郷論は実際は存在しないだろうという見通しが述べられた。党錮段階で一旦天下規模の「番付」が成立し、後にその議論が郡規模のものとして出現することを基礎とする党錮以後の「清流派」「権道派」の理解は修正を迫られた。こうした新しい理解をもった本論文の提出によって、王法と私儀の関係をどうとらえなおすか、個別人身支配の問題をどう議論するか、など、今後発展が期待されるテーマも興味深い。

 以上、当審査委員会は、本提出論文をもって、博士(文学)の学位を授与するに値するものとの判断をくだした。

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