学位論文要旨



No 121765
著者(漢字) 井ノ口,哲也
著者(英字)
著者(カナ) イノクチ,テツヤ
標題(和) 後漢経学研究序説
標題(洋)
報告番号 121765
報告番号 甲21765
学位授与日 2006.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第554号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川原,秀城
 東京大学 助教授 小島,毅
 東京大学 助教授 横手,裕
 大東文化大学 教授 林,克
 東京大学 講師 李,承律
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、後漢経学史上の二つの転換点の間の経学、すなわち、「六藝」「六経」という語に代わって「五経」という語が普及浸透した後漢時代初期から、別行していた経と伝が一つのテキスト上に合併されたことの恩恵に与り、且つ紙が普及してきたことの恩恵にも与ることできた後漢時代後期のおおむね鄭玄の活躍期あたりまでの経学を考察対象としたものである。具体的に言えば、この時期の経学という学問に関する知識人の活動情況を把握することから後漢経学を描いたものである。その作業の手順としては、後漢時代の一次資料や范曄『後漢書』等の後漢時代約二〇〇年の流れを知るための後代の基本資料から、だれがいつどのような活動をしたか、経学上のできごとがいつどのようにして起こったか、だれとだれがどのような関係にあるか、といった経学に関する記述をくまなく拾いだし、それら後漢経学の展開を叙述するための材料になる記述を、特定のメルクマールなど一切設けない何の先入観もない平心の状態で平板に並べて眺めることから始めなければならない。そして、記述内容に従って分類していった結果、同じ学問的営為に関する複数の記述が一箇所に集められることとなり、確かにその営為は後漢時代にあった、ということをお互いの記述同士が証明することになる。類似の記述が多ければ多いほど、その営為があったことの証拠として有力になる。これが、筆者の言う知識人の活動情況を把握するということであり、そうした営為が事実としてあった、というのを重ねて把握していくことが、後漢経学を描くための一つの道筋である。この作業により、本稿においては、従来の常識とされてきたものの考え方を見直すことができたとともに、点と点を線で結ぶ叙述によってこれまで看過されてきた事実を一次資料の中から可能なかぎり拾いあげることができた。

 本稿は、全六章・結語・参考文献一覧から構成される。第一章では、後漢時代の経学(史)のはじめを的確に捉え得るための視点として、いわゆる《儒教の国教化》説が既に役割を果たし終えたことを述べ、その次の段階に移るべきことを説いて上述した本稿の研究範囲を明示している。そして、後漢経学をどのように描くべきかを考えるために、従来の後漢思想(史)の把握のし方をうかがってその問題点を指摘し、本稿の構成と企図する所を述べた。

 第二章では、後漢経学(史)のはじめに位置する問題として、(1)「六経」「六藝」両語にとって代わった「五経」という語の普及浸透、(2)讖緯の流行、(3)「古学」修得者の活躍、という後漢初期の三つの現象の関係を考察した章である。考察の結果、三者の関係は、「五経」という経の総称のもと、皇帝権力を背景に「経」化した讖緯が五つの経の紐帯的役割を担って五経の縛りを強固にし、当時勢いを得つつあった「古学」修得者がその「全体で一となった」五経をまとめて修得した、ということが明らかとなり、また、讖緯の「経」化によって、経を学ぶ者は同時に讖緯も学ばなければならないということ、讖緯が新たな一つの学問領域となったことを指摘することができた。「古学」修得者は、賈逵など一部の者をのぞいて、讖緯を否定した。讖緯が皇帝権力を背景にしていても、讖緯が経でない以上、受け入れなかったのであり、讖緯を受け入れないことによって、彼らは自らの中で本来あるべき経学の姿を保っていたのではないか、と思われる。

 第三章では、「古学」修得者の一人として王充をとりあげ、王充の経学に対するスタンスを考察した章である。この章は、後漢の経学を論じる際にとりあげられてこなかった王充をとりあげたことそれ自体に意義があり、考察の結果、王充をとりあげたことにより、「古学」修得者の一つの態度が明確になった。王充は、太学で学んだエリート儒者であるが、経学のみならず経学以外の諸学をも学び、該博な知識を身につけることによって、王充の意識の中で、経学は相対化された。その該博な知識に照らして、既存の経学のあり方に異を唱えた現象、これこそが「古学」修得者に多く見られた"章句を守らない"ということであり、王充もそうであった。その著書『論衡』は、「虚妄を疾む」という精神に貫かれた書であるが、知識の量や「文」を作成する能力に応じて後漢前期に至るまでの主要な知識人に差等をつける中で、王充は自らの理想的人物とした桓譚の「論説」の態度に倣い、自らも「論説」することによって、自らの中で相対化した経学に対しても「虚妄を疾む」メスを入れたのである。これによって、王充は、少なくとも「虚妄」に蔽われる以前の本来あるべき経学の姿を取り戻したかったのではなかったか。この王充の態度は、第二章の、「古学」修得者が讖緯を受け入れないことによって、彼らは自らの中で本来あるべき経学の姿を保っていたのではないか、と思われる態度と底流において共通していると言えよう。

 第四章は、諸生による継承(学習)と師による伝授(教育)の両面から、後漢時代における経学の継受を分析した章である。経学の学習については、経の暗「誦」を経たあとの「通」という状態について紙幅を割いて検討した。その結果、従来の「通」の定義に修正を加えることになり、「通」という評価を与えられた人が、「古学」修得者に多いことがわかった。これは、「古学」修得者が該博な知識に照らして、本来のあるべき経学の姿をもとめたためであろう。一方、師からの経学の伝授(教育)については、従来の「師法」「家法」で語られた経の伝授とは異なる観点から、一つの家で代々特定の経を受け継ぐ「伝」という営為と、自らの門弟に特定の経を伝授する「教授」という営為を検討した。その結果、三代続けて同じ学問を継承すると「家学」となることが分かり、また「教授」する者には、山に身をかくしたり、「隠居教授」するなど、官界や俗世間に関与したくないという意識をもつ傾向の強いことが分かった。「家学」もその家の本来のあるべき経学の姿をもとめた形であり、官界や俗世間に関与したくないという態度も政治や社会に左右されない自己と自己の経学を本来のあるべき姿で保持したいという意識からくるものであろう。この第四章からは、二つの問題が派生している。一つは、経学以外の諸学がどのように学習されたのかを調べて、当時の学術全体における経学の位置を見積もることである。これを次の第五章で採りあげた。二つは、「口授」による伝授と「誦」による学習がごくふつうに行われた当時の情況では、経学の継受の過程において、様々な諸条件のもと、間違ったまま学習したり恣意的に経の文言が改変されたことがあったために、経義や経文をととのえる営為が断続的に行われていた。これを第六章で採りあげた。

 第五章は、范曄『後漢書』に基づいて、後漢時代の学問のジャンルを調査し、同一人物によって経学以外の諸学のテキストがどの経書と併修されたかを探り、後漢時代の経学と諸学の関係を考察した章である。考察の結果、黄老(『老子』)は『易』との併修、術数は『(京氏)易』や他の経書との併修、兵法は『春秋』との併修がそれぞれ確認された。これによって、第二章で言及した新しい学問である讖緯学を含めて、後漢時代の学問ジャンルは、当時の経学的世界の枠内にすべて組み込まれていたことが理解できたが、反面、これらの学問ジャンルが『漢書』藝文志(『七略』)に著録されている諸学派が淘汰された結果であることも同時に知ることになった。理念としての『七略』の学術分類と現実としての学問のジャンルとに齟齬が無かったことは、総体的に言って、当時の多くの儒者は、経学の本来のあるべき姿として、この『七略』の学術分類を支持した、ということを意味する。

 第六章では、後漢時代に大小様々な規模で断続的に行われた経義・経文の正定という営為をとりあげた。これは、まさに経学を本来あるべき姿に戻すための営為にほかならない。第四章で見た経学の継受の過程において、様々な諸条件のもと、文言の改変や経への誤った解釈が生じる。これこそが、経義・経文の正定が断続的に行われたことの背景にある。そういう観点で、後漢時代における経義・経文の正定の事例を時間順に並べてみると、従来後漢思想(史)において大きくとりあげられてきた白虎観会議の挙行と熹平石経の建立という両事業も、後漢時代に大小様々な規模で断続的に行われた経義・経文の正定という営為の一齣にすぎないことが理解でき、両事業を過大にとりあげる必要はない、と主張した。この第六章では、従来の常識を疑ったことにより、白虎観会議の挙行と熹平石経の建立の両事業が、これまで過大に評価されてきたことを指摘できた。また、特定の指標同士を結んで思想史を構築することに一定の留保が必要であることを主張できた。そして、最後に、鄭玄による経学の綜合化を経義・経文の正定の一事例として挙げ、所期の目的どおり、「五経」の普及浸透で始まった本稿を鄭玄で締め括った形となった。

 本稿の意義は、従来型の、白虎観会議や『白虎通義』をいわゆる《儒教の国教化》実現のメルクマールとする後漢経学のイメージを払拭すべきことをうったえ得たことや、当時の経学を今文学と古文学のせめぎあいという対立の構図だけの一色に染め上げることから脱却できたことにもとめられようし、後漢時代の知識人がそれぞれの置かれた立場で、本来のあるべき経学の姿――その姿は個々の知識人にとって異なるが――をもとめていたということ、この点を一貫して論じることができたことである、と筆者は考えている。

以上

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、中国後漢時代の知識人の経学に対する様々な治学スタンスを分析し、それを通じて後漢経学の性格を考えその正確な輪郭を定めようとしたものである。全体の構成は6章からなっている。

 第一章では、経の総称が「五経」に定着した両漢交替期と、別行の経と伝が合併された後漢後期に経学史上の二つの画期を認め、その間の思想的営為を自らの分析対象とする理由を説明する。また後漢思想史の独自性を明示しない従来の叙述方法に対して限界を指摘し、資料の再検討の必要なことを主張する。第二章では、皇帝権力を背景に讖緯によってまとめられた五経を「古学」修得者が修めたことを明らかにする。第三章では、経学以外の諸学も修得した「古学」修得者において経学が相対化されたことを論じる。第四章では、経学の継承と伝授の両面を分析した結果、「通」の定義を修正し、また官界や俗世間との関与を避ける「教授」者の傾向を指摘する。第五章では、経学と諸学の関係を考察し、『七略』の学術分類が支持されたことを確認する。第六章では、経義や経文を正す営為を考察し、この種の営為の一齣にすぎない白虎観会議と熹平石経を過大視する必要のないことを説いている。

 本論文において第一に評価すべきは、日本の学界で前漢経学にくらべて検討される機会が乏しかった後漢経学に考察対象を絞り、多角的な視点からその独自性を解き明かしたことである。その結果、「儒教の国教化」など、漢代経学を説くときに常用される言い古された旧来のパラダイムから一定程度自由になることに成功した、ということができる。第二に評価すべきは、当時の知識人の治学方法や思想的営為について具体的に考察したことである。第四章の「誦(暗誦)」と「通(兼通五経)」、「伝(家伝)」と「教授」の分析などによくあらわれている。

 本論文は後漢経学の全体像の解明を目的とした結果、個別思想の分析についてはいまだ十分ならざるところもあるが、所期の目的を達成しており、後漢思想研究者に新しいビスタと視点を提供することができ、後漢経学史の解明に資すること大である。

 審査委員会は以上にもとづいて、本論文が博士(文学)の学位に値すると判断する。

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