学位論文要旨



No 121767
著者(漢字) 前田,弘毅
著者(英字)
著者(カナ) マエダ,ヒロタケ
標題(和) サファヴィー朝のゴラーム : フロンティア政策と政治体制の再構築
標題(洋)
報告番号 121767
報告番号 甲21767
学位授与日 2006.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第556号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 羽田,正
 東洋文化研究所 教授 鈴木,董
 東京大学 教授 小松,久男
 東京大学 教授 深澤,克己
 早稲田大学 教授 佐藤,次高
内容要旨 要旨を表示する

 本稿では、サファヴィー朝のゴラームの活動に注目し、王朝のフロンティア政策と政治体制の再構築について論じた。既知のペルシア語史料に加えて、従来用いられていなかったグルジア語史料やペルシア語新発見史料『歴史の精華』第三巻の記述を参照した結果、サファヴィー朝のゴラームについて多くの新事実を明らかにした。先行研究の枠組みを制約してきた奴隷軍人論では人工的に形成された擬似的家族関係が注目されてきたが、サファヴィー朝のゴラームの場合は実際の血縁紐帯に基づいた親族関係が大きな意味をもったことを明らかにした。また、地域を跨いだ人の移動という観点から国民国家史観を批判し、ゴラームの郷里との関係や文化的変容の問題について検討することで、コーカサス系エリート台頭に伴うサファヴィー朝宮廷秩序再編という政治体制変容が、王朝の対コーカサス・フロンティア政策とその結果もたらされた地域秩序変動と密接に結びついた事象であったことを明らかにした。

 本稿で得られたサファヴィー朝政治体制変革に関する具体的な考察は、以下の通りである。

 サファヴィー朝は、王朝創建に際してトルコ系軍事集団キズィルバーシュの武力とターズィーク系定住民による文治行政を柱とする遊牧的な政治体制を先行するトルコマン系王朝から継承した。第5代シャー、アッバース一世(在位1587-1629年)は、より中央集権的な体制の構築を目指し、グルジア、アルメニア、チェルケス系といったコーカサス出身者を新たな支配エリート集団ゴラームgholam-e khaEEe-ye sharife(君主の奴隷)として登用し、キズィルバーシュの軍事力独占に終止符を打った。さらにキズィルバーシュの中からも選抜して国庫から俸給支払いを受けるコルチ集団を拡充することで、王権の強化を図り、こうした王に直属する軍への俸給を支払うためにハーッセと呼ばれた王領地の拡張に努めた。また、新都イスファハーンの造営や通商路の整備と絹生産の国家管理など、殖産と強兵策を推し進め、サファヴィー朝の最盛期を現出した。すなわち、ゴラーム集団は17世紀のアッバース期以降における王朝政治体制変革を象徴する存在であった。

 こうした宮廷権力強化の動きは、序列の固定化に見られる宮廷内秩序の制度的確立、さらには全国土をシャーとその宮廷の権威が覆っていく過程と並行していた。すなわち、宮廷がシャーの個人的業務の執行機関からより公的な色彩を帯び、シャーの個人的従者としてのゴラームが国家体制全体に奉仕する存在へと変化したのである。このように、アッバース一世の改革は、シャーの個人的な所有物である宮廷が支配機構の中核となり、また、宮廷で要職を務め、シャーの側で奉仕する者たちがその恩恵を最大限に受けることができるよう支配体制を変化させていった。

 この新たな一元的体制下では、これまで個人の経歴の上でも、そして民族的にさえ区別されていたといわれる文官職と武官職が、一個人の経歴の上で重なるといった現象も頻繁に見られた。これらの事例からも、文官・武官の区別が弱まっていったことが明確に指摘できるが、これまで理念の上でも確固としていた区別を乗り越える過程で、やはりゴラームが大きな役割を果たしたと考えられる。

 先行研究は、この新たな支配体制を、それまでの紐帯を解体されてシャーに絶対的な忠誠を誓う奴隷軍人を中核とする強力な中央集権体制としてとらえ、西欧の絶対王政に擬えることもあった。しかし、アッバースは自らの政治的意図に反しない限り、むしろコーカサス系エリートの持っていた地縁・血縁を積極的に利用し、時には自らの主導で新たな関係を取り結ばせながら宮廷に取り込んでいったと考えられる。本稿では、戦争捕虜、貢納、亡命、人質、政略結婚、強制移住など、流入経緯の多様性を明らかにしたが、アッバース一世の積極的な対コーカサス政策により、コーカサスの地方エリートは宮廷エリートに転じ、国家支配を支える一方、マーザンダラーンに移住させられた農民は絹生産に、商人は絹の交易などに直接携わった。彼らが、新たに拡張した宮廷権力によって構築・整備されたエスファハーン(王宮や新市街)やファラハーバード(新離宮)、首都とファールスを結ぶ交易路といった空間に投入されたことは、決して偶然ではない。宮廷に採用された者たちの多くも、宮廷工房や後宮の担い手としてそれぞれ活動したと考えられる。このように、アッバースはコーカサス出身者を、彼らの出自を生かした形で宮廷の従属民として抱え込もうとしたのである。

 こうしてコーカサスを軸に王朝の対外政策と対内政策のダイナミズムが重なり合う中、宮廷と直結するコーカサス出身者は、集団の社会的絆、アイデンティティー、ネットワークを残したまま宮廷に統合されていった。つまり、社会的・個人的紐帯が王朝によって認識・活用されることによって、出自に由来する絆は維持ないし更新されたのである。もともと様々な民族の居住するコーカサスの多民族社会としての側面は、アッバースにとって利用しやすいものであった。コーカサス出身者が、その出自や社会的階層に基づいてサファヴィー朝宮廷で活動したことにより、現地の社会秩序が、そのままサファヴィー朝宮廷に持ち込まれたかのようにもみえる。奴隷軍人論や国民国家史学に規定されてきた従来の征服・被征服や主人と奴隷といった「枠」を設定した見方では捉えることが決して出来なかったこうした「相互依存」的な関係を、サファヴィー朝王権とコーカサス出身者の間に認めることができるのである。

 他方、サファヴィー朝社会の新規参入者として、彼らのアイデンティティーが、出身地とは異なり常に流動的な状況に曝されたことも見逃してはならない。ゴラーム集団の活動からは、シャーの主導する婚姻や低い出自のアルメニア系ゴラームが軍の総司令官を務めるといった事例から、民族性を含めてアイデンティティーの操作と変容も色濃く観察されるのである。アッバース一世のとった婚姻政策には、同化と異化の矛盾する側面が同時にみられた。出身にまつわるアイデンティティーを「解体」する一方、自らの庇護のもとに「再編・強化」しようとしたのである。このように、アッバースによる宮廷拡張政策は、「辺境」を巧みに取り込み、複雑な民族的緊張と「差異」の関係を刺激しあうことで成り立っていた。コーカサス出身者のサファヴィー朝宮廷における活動は、コーカサスのローカルな政治風景に影響されると同時に、影響を与え、コーカサスはサファヴィー朝の対外政策と対内政策の複合力学を象徴する場に転じたのであった。

 また、本稿で取り上げた有力ゴラーム家系は、官職を兄弟や息子で引き継ぎ、兼任していた職務の代理を親族が頻繁に務めた点において共通している。すなわち、いずれも実際の血縁紐帯を基盤とした親族組織を背景としており、結果として特定官職の特定家系による独占的状況が一般的であった。一方で、彼らはコーカサス系という出自にばかりとらわれていたわけでは決してない。いったん栄達したゴラーム家系は、王朝の貴人として、ゴラームのみならず他の有力官人とも姻戚関係を結び、あるいは任地の現地有力者と政治的・経済的に多様な関係を取り結びながら、その影響力を王朝社会のあらゆる局面に拡げていったのである。

 したがって、この新たな支配体制は、実際にはシャーが絶対権力をふるって全てを決定する体制でも、ゴラームなど一部の集団が組織的に国家権力を独占する体制でもなかった。むしろ、ゴラームの支配の実態からは、「血統」や「職歴」といった様々な縁故関係で結びついた個人が支配権力の生み出す富の配分を受けるべく活動し、こうした複雑なコネクションの最上部に有力官人が君臨するという構図が透けて見える。そこでは、シャーは、様々な縁故・利害関係で結びついた人間集団のバランスの上に乗り、自らを頂点とするピラミッド型の支配形式ではあるが、その最大の権力の源は調停者としての役割であったと推測される。

 以上のように、アッバース一世期以降の新たな統治体制は、「シャーの下僕」による「中央集権的」支配から連想されるような、強い団結力を誇る特定の集団による独裁的な支配では決してなかった。

 従来の奴隷軍人イメージと大きく異なるサファヴィー朝のゴラーム集団であるが、これを王朝がその組織的構築において失敗したと容易に結論づけることはできない。実際には国内統治に関して、ゴラームによる支配は大きな抵抗もなく定着していった。ゴラーム集団が外部に対して閉じられた強固な組織力を誇る一枚岩の利益集団ではなかった点は、むしろ、その支配を具体化する上で、有効に機能していた。ゴラームによる支配が、王朝社会で比較的容易に受け入れられた背景には、アッバース一世の断固とした態度以上に、このゴラームの「柔軟さ」が大きな意味を持ったと考えられる。

 その一方、こうした「柔らかい」ゴラーム制度は、サファヴィー朝崩壊まで、明確なリクルート体制を確立しなかったため、コーカサス地域包摂とコーカサス人の統合が王朝にとり常に大きな課題であった。また、アッバースの政策は大きな矛盾を内包していた。「異境」や「異人」性の再生産の不可逆性である。例えば、コーカサスにおける土着勢力と新たに殖民した部族の勢力均衡策は、宮廷中核部分へのコーカサス住民取り込みが過度に過ぎた場合、双方でともにバランスが崩れる恐れがあった。すなわち、フロンティアが異境性を失うような事態を招きかねなかったのである。

 ゴラームは、サファヴィー朝の官人としての顔と、コーカサス出身集団のリーダーとしての二つの顔を持っていた。この二重の緊張が、ゴラーム・リクルートの一つの誘因として働いていたと考えられるが、こうした「異人」性を掬い上げる装置としてのゴラームは、常にコーカサス地域内部の「不安定性」をその活力の担保とせざるを得なかった。

 しかし、二重のアイデンティティーのもと、サファヴィー朝宮廷エリートとして取り込まれたコーカサス出身者は、宮廷との直接の結びつきをより強める一方、次第に自意識に目覚めていった。特に17世紀後半から18世紀初頭にかけて、グルジア人は、サファヴィー朝文化の大きな影響を受けつつもグルジア史編纂など「自国」意識に目覚めていった。また、政治的にも同じ正教国家ロシアに接近するなど、その遠心力を強めていったのである。宮廷中枢と深く結びついた「辺境」コーカサス情勢における不確定要素の増大は、サファヴィー朝中央の不安定さをも助長することになった。中央に組み込まれた「辺境」エリートは、王朝滅亡の最後の局面では、ついにコーカサスから動こうとはしなかった。一世紀の時を経て、中央集権化で取り込まれた辺境は、王朝を再び活性化させる力とはならず、解体する遠心力の一部と化したと結論付けることができるのである。

 以上のように、本稿では、ゴラームの活動を追うことにより、サファヴィー朝によるコーカサス・フロンティア地域包摂と、コーカサス人統合の歴史的意味を明らかにした。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、16世紀初頭から18世紀前半にかけて、イラン高原とその周辺を統治したサファヴィー朝政権下で、政治的、軍事的に強い影響力を有した「ゴラーム」と呼ばれる一団の人々の起源、実態、特徴を、ペルシア語、グルジア語、それにヨーロッパ諸語の史料を駆使して解明した文献学的研究である。また、王朝政府がその支配機構にゴラームを導入した背景、経過や結末について分析した政治史、制度史の分野の論文としても重要な意義を持っている。

 サファヴィー朝時代の後期(17世紀以後)に、宮廷や地方統治の場で活躍するゴラームについては、従来からその実態解明の重要性が指摘されながら、本格的な研究がなされていなかった。その最大の理由は、サファヴィー朝宮廷の言語であるペルシア語で記された断片的な史料を読むだけでは、ゴラーム集団の具体的な姿を把握することが困難だったからである。本論文の価値は、ゴラームの出身地であるグルジア、アルメニアやチェルケスなどコーカサス地方の言語のうち、とりわけ多くの情報を含むグルジア語の史料を活用し、さらに新発見のペルシア語史料も用いて、この壁を完全に突き崩した点にある。

 ゴラームが、すでに16世紀の半ば過ぎには、サファヴィー朝宮廷で政治的影響力を持つようになっていたこと、彼らが戦争捕虜として宮廷に送られたのではないこと、ゴラームが従来知られていた以上に多様な文武の官職に就いていたこと、「ゴラーム」という語が必ずしもコーカサス系の人々だけを指したのではないこと、ゴラームは一枚岩の硬い団結を誇る集団ではなかったことなど、本論文が明らかにした事実は、主にヨーロッパ諸語の史料を用いて論じられた通説(その最新のものは、2004年に英語で出版されたババーイー他著『王の奴隷:サファヴィー朝イランの新エリート』)の多くを覆した。特に、グルジア語史料に拠って主要なゴラームの四家系を復元し、グルジア王家や貴族の出身であるゴラームが、元来の地縁と血縁の絆を保ちながらサファヴィー朝に仕えていたことを明らかにした点は、イラン史のみならず西アジア史研究全般に対して大きな意味を持っている。ゴラームはしばしば「奴隷」と翻訳され、地縁や血縁を絶ち個人として君主に仕える「奴隷軍人」の一例とされてきたが、本論文によって、「奴隷軍人」という形での安易な一般化が有する問題点が明らかになったからである。

 社会科学的な理論化を意識するあまりか、「異人」「周縁」など厳密な定義を要する術語が不用意に用いられ、概念化や論理構造が不十分なままでの議論もときにみられる。しかし、本論文が全体として高度な学術的内容を備え、16-18世紀のイラン高原やグルジアの政治史、制度史研究への重要な貢献であることは間違いない。審査委員会は、全員一致で本論文が博士(文学)の学位を授与するに値するものであるとの結論に達した。

UTokyo Repositoryリンク