学位論文要旨



No 121768
著者(漢字) 市橋,明典
著者(英字)
著者(カナ) イチハシ,アキノリ
標題(和) 「ポエジー」或いは現代における交感の不可能性 : 『内的体験』におけるジョルジュ・バタイユの「詩的表象」について
標題(洋)
報告番号 121768
報告番号 甲21768
学位授与日 2006.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第557号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 塚本,昌則
 東京大学 教授 塩川,徹也
 東京大学 教授 月村,辰雄
 東京大学 教授 中地,義和
 東京大学 教授 湯浅,博雄
内容要旨 要旨を表示する

 近代より西洋では、キリスト教が社会的な影響力を失うなか、人間存在が行なうコミュニカションが益々薄弱なものとして実感され、それに伴って人々が精神の拠り所としていた伝統的な共同体のなかでの様々な分裂が生じた。このような「近代性(モデルニテ)の問題」を論ずる思想の系譜としては、一方においてはその問題を考える上で形而上学からの思想的な脱却を図りながらも、結果として理性と主体を思考の中心に置く「理性哲学」の考察方法を継承したヘーゲルやハイデガーに代表される思想系譜が挙げられる。そして他方では、「理性哲学」の思考方法からは完全に離反し、主に美学の分野でドイツ・ロマン派によって探究され、また理論の面でニーチェが初期の探究において発展させた美学的なアプローチや、後に到っては様々な非哲学的な視点に依拠する考察を展開した思想の系譜が挙げられる。両思想系譜とも、それぞれ独自に、近代から発生したコミュニカションの問題の解決を図った。

 そうしたなか、ハバーマスなどは「近代性の問題」を論ずる美学的な探究の重要な理論及び表象の分野における探究の幾つかが、ニーチェの後継者を自任し、「20世紀の最も進んだ前衛芸術」であったシュルレアリスムとの関係を己の創造の糧としてきたフランスの作家・思想家ジョルジュ・バタイユの思想と表象においてあらわれたことを暗に示した。本研究では、現代社会における人間存在のコミュニカション及び共同体の新たな可能性を目指すバタイユの探究が、彼にとって最終的には詩的表象の本質をあらわすことになるポエジーの概念及び思想に結実したとみて、この思想家がそれらを展開することを通して近・現代思想の世界において如何なる役割を果たしたかを考察した。

 本論の「第一部」では、バタイユが生涯を通じて論じようとしたコミュニカションの発生及び新たな形での共同体形成の可能性が、ある不特定な時代ではなく、20世紀という決まった時代において求められるものであるとして、比較的早い時期からその可能性を表象の領域で追究することになった彼の論理及び主張の内容乃至その変遷について検証した。この思想家は、理性的な思想、なかでもヘーゲルの哲学における人間の「存在開示」のプロセスがとりわけ言説に依拠して論じられることによる弊害をとりあげ、その上で、理性の原則と「計画」には還元できない部分である、存在にとってのコミュニカションの瞬間としての聖なるものを発生させる必要性を説いた。なかでも論文「聖なるもの」で展開されている主張は、従来宗教の領域に属していた聖なるものの現象を、近・現代芸術の創造意志にインスピレーションをもたらしてきた根源的な現象であると位置付け、コミュニカション探究の論理を次第に芸術や文学の創造活動、つまり表象の領域に移そうとする意図を示し、そこで語られる存在論を言葉の分野に密接に関わらせてゆく。バタイユは、論文「ヘーゲル、死と供犠」で示したように、アレクサンドル・コジェーヴによって解説されたヘーゲルの哲学が、人間の「存在開示」のプロセスにとっては欠かせない「死」の実態を真っ向から受けとめるには役不足であるとみなした芸術、文学や神秘主義などといった 詩的領域の産物で、しかも話し言葉のような自由奔放な性質の「力なき美」であるポエジーこそが、人々のコミュニカションを可能にし、人間存在の目標とされる境地としての「至高性」に導いてくれると考えていた。

 社会における宗教の影響力が低下するに伴い、近代からとって代わった「理性哲学」が「可能なものの限界」に退くがゆえに、それが行なう「存在開示」の体験やコミュニカションの成立には限界があることをバタイユは『内的体験』で指摘した。一方で彼は、神秘主義的な領域で「不可能なもの」をあらわし、その「存在開示の体験」を人間存在に擬似的に体験させることができる表象形態として、理性的な原則には従わずに感性に直接うったえる話し言葉の属性を有し、時には「思考の死」の効果をテクストでもたらし、演劇の形態に倣った、20世紀におけるコミュニカションを可能にする表象を模索した。

 「第二部」では、「言葉が犠牲になる供犠」といわれ、ポエジーが由来し、生々しい生贄の儀式のイマージュによって象徴され、「生の過剰性」をあらわし、死の現象に対して人間存在が抱く「不安」を反映する「存在開示」のプロセスとしての供犠の実態を捉え、それが演劇的な効果に依拠している部分が多いことを確認した。さらに、原典との照合により、供犠の根底にある論理が、『精神現象学』の一部、なかでも共同体内の人間存在の結びつき及びコミュニカションを強化する上で芸術、特に讃歌や詩などの「言葉を介した芸術」の優位についてヘーゲルが語っている章「B 芸術宗教」の論理に異を唱えることで形づくられたことをみた。また、それに対抗するようにしてバタイユが、「意味を持つ言説」に対して、言葉の秩序を根底から崩し、有用性の原則から完全に逃れ、話し言葉の「率直性」と「親密性」を特徴とすると同時に、「不可能」であり、既知のものから「未知のもの」へと導くポエジー概念の創造につながる己の思想を発展させたことを確認した。

 こうした思想を反映する「供犠的な表象」を実践に移して著されたテクストが『不可能なもの』であり、著者は作品で「不可能なもの」を体現し、通常の論理を中断する「暴力性」を特徴とするエクリチュールを用い、さらに、人間存在を「未知なるもの」及び「思考の死」に遭遇させ、「知性」に基づく原則がテクストの論理の上で進行することを喰い止め、しかもポエジーの「溢れんばかりの詩的な豊かさ」をあらわす表象形態及び思想を、『フェードル』などに見出された演劇の効果を分析することによって編み出そうとした。

 本研究ではバタイユがポエジーの探求を進めた動機やその背景をさらに究明し、この作家がヘーゲル哲学の存在論に反撥するためだけにポエジー論及び表象を打ち立てたのではなく、探究の根底には、シュルレアリスムと接触する以前から、「理性の支配」より巧妙に逃れることができ、ポエジーの豊かさ及び「生の過剰性」をあらわす中世文学のポエティックな性質への憧憬があり、それを自分の思想及びエクリチュールの基盤の一つにしたことを証明した。同じ傾向は、ポエジーの「不可能なエクリチュール」をテクスト自体が体現し、中世文学のパロディーとみなされる『不可能なもの』での「鼠の物語」における語り手の「聖性探求」にあらわれている。さらにバタイユは、言葉が「不定形」であることに対する拘りを示すと同時に、中世の詩であるファトラジーなどが特徴とする、理性の原則から巧妙に逃れ得るエクリチュールの「不可能性」と「暴力性」に関心を示し、そこからエクリチュールにおける独自の技巧を形成する上で少なからず影響を受けた可能性があることをみた。また、『松毬の眼』などの初期の作品が示すように、実際にバタイユは、ギリシャ神話、特に死の現象に関わる表象形態としての神話の性質を検証することにより、「社会学研究会」の論文であらわされている「恋人たちの共同体」にみられるように、コミュニカションの主体を最小の単位にとどめることを考え、『内的体験』における個別的な「体験」の構想を模索していたことを確認した。

 目指されるポエジーの性質を基礎とするエクリチュールをあらわす思想は、『内的体験』のテクストで具体的な形をとって現れるが、さらにそれに対する認識を深めるべく、バタイユの文体を形成するイタリック体、反復技法、撞着語法、「空白」や「静寂」の技巧の使用方法について考え、技法がテクストで実際に展開されるなかで如何なる効果をもたらしているかを明らかにした。

 つづいて「第三部」では『内的体験』自体の検証に移り、まずは「刑苦」の部を集中的に分析することにより、同書全体を構成する各章の内容やそれらの形式が、標榜されるポエジーの思想をあらわすために連動して機能していることを確認した。そして表象の流れのなかでバタイユが、詩人ランボーや、近・現代社会において宗教の影響力が低下するなか表象の役割について語ったキルケゴールなどの知識人の思想について論じていることから、同書がそれらのテーマによって貫かれているとする確信を得るに到った。表象に関するその思想は常に存在論と一体となっているが、バタイユはそうしたなか、『内的体験』において、理性哲学による「近代性批判」の基礎をなす言説に依存する「主体を中心とする思考」に反撥し、存在主体を、「荒々しい存在の本質をなす『自己』」と、「『知識』に影響される『私』」に分けて考えた。彼は、20世紀に生きる人間存在がコミュニカションを行なう必要があるなか、「自己」が「私」に変化することなく「ポエティックな実在」が他者における別の「ポエティックな実在」に働きかける構図を、「観劇」の装置に喩えながら、ポエジーの思想に基づく自分の存在論で説明した。

 バタイユはさらに、「未知なる性質」を持つポエジーのあらゆる可能性を把握するべく、最後の「余談」の章では、『失われた時を求めて』のなかでポエジーの性質として描かれる「再認」が「知識」と深く結びついていると捉え、コミュニカションの発生を司るポエジーへの表象主体自身による「所有」の主張を批判した。こうしたテーマについて考えることで、『内的体験』のテクスト自体が、全体として「近代性の問題」における表象の役割についての課題をあらわしていると捉えた。

 「第四部」ではハバーマスが主に語る「近代性批判」の課題、特に「近代性の問題」に対する美学的なアプローチと「プラクシスの哲学」においてバタイユが果たした役割について検証した。

 主に『内的体験』の内容を分析した本研究によって、著者が辿った詩的表象に関する思想の行程、その意味と意義を認識し、この思想家が「供犠的な表象」及びポエジーの思想に関する探究を行なうことによって、20世紀という、自らが身を置いていた時代のなかで人間存在のコミュニカションを成立させ、共同体を強化し、表象の上で理性及び言説的な要素に対して徹底して抵抗する意志をあらわし、ポエジーの「過剰性」並びに豊かさを具現する思想を展開したことを確認した。このことから、バタイユが、ポエジーという独自の思想を表わすことにより、表象の領域において、理性哲学の原則から脱し、前衛芸術としてのシュルレアリスムの根本理念が目指した以上の「近代性の問題」に関する美学的な探究を進展させた思想家として、文学及び思想の歴史のなかで位置づけられるべきであるとする結論に達した。

審査要旨 要旨を表示する

 20世紀フランス文学を代表する作家ジョルジュ・バタイユは、一個の体系に固定しがたい独自の思索を展開した。しかし、その多様な執筆活動の核に「聖なるもの」、バタイユの用語では「至高性」をめぐる考察があったことは間違いない。その意味で、神なき世界における神秘体験をめぐって書かかれた『内的体験』(43)は、バタイユ思想を読み解く鍵と言ってもいいだろう。

 本論文「「ポエジー」或いは現代における交感の不可能性―『内的体験』におけるジョルジュ・バタイユの「詩的表象」について―」は、断章で書かれたこの難解な書物に焦点を当て、近代批判と供犠的表象という視点から、その核心となる思想を詳細に検討したものである。孤独に切り離された存在同士のあいだで、どのようにして「交感」は可能となるのか? 現代において、「聖なるもの」はいかにして可能なのか? こうした根源的な問いに、バタイユが『内的体験』においていかに答えようとしたかを明らかにすることが本論文の狙いである。全体は四部から構成され、『内的体験』にいたるまでのバタイユの執筆活動(第一部と第二部)、『内的体験』の分析(第三部)、『内的体験』が近代においてもつ意義(第四部)が論じられている。

 『内的体験』の前史では、論者はコジェーヴの講義を通したヘーゲル体験の重要性を強調し(第一部)、同時にシュルレアリスムとの出会いと訣別を通して、バタイユが具体的にどのような文学世界を目指したかを詳細に追求した(第二部)。『内的体験』の分析では、バタイユの「ポエジー」が、全一者となろうとしながら、結局は死の不安と恍惚に身をゆだねざるを得ないという、近代における個人のあり方を「演劇的」に表象するものであるという見方を提示、バタイユがそのプロセスを「過剰」「消尽」「供犠」といった概念によって究明していることを詳細に検討した。『内的体験』そのものについては膨大な先行研究があるが、そのエクリチュールの核心に「ポエジー」という概念を見出し、近代における思想史的意義を問う研究は緒についたばかりである。論者はそれらの研究を十分に咀嚼したうえで、「ポエジー」の実践を通して垣間見える「至高性」の意義を多面的かつ総合的に解明した。その上で、バタイユの「ポエジー」が、近代を支配する「モノ化」「道具化」の原理に対立するものであり、そこに思想家としてのバタイユの意義があると指摘する。明晰でありながら、確定された体系とはならないバタイユの思索を検討するうえで、重要な論点が提示されたと言えるだろう。

「ポエジー」が贈与論と深く関わっていることを見落としている点、「表象」というキーワードがキリスト教の文脈のなかで持った意味を看過している点など、十分な分析がなされなかった論点がいくつかある。また、表現の不十分さ、訳語の不適切さなどがあるが、文学、哲学、宗教学、経済学にまたがるバタイユの全活動を、「ポエジー」という視点から包括的に捕らえる可能性を示し、その概念が同時代の思想潮流とどのように関連していたかを明らかにした点で、本論文はきわめて有意義な研究である。さらに、どの章においても、論者の積年の研究成果が発揮され、密度の高い情報が盛り込まれている。以上から、審査委員会は、本論文が博士(文学)の学位に相当するものと判断する。

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