学位論文要旨



No 121769
著者(漢字) 小椋,彩
著者(英字)
著者(カナ) オグラ,ヒカル
標題(和) 「書く人」の肖像 : アレクセイ・レーミゾフの文字の王国
標題(洋)
報告番号 121769
報告番号 甲21769
学位授与日 2006.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第558号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷見,一雄
 東京大学 教授 金澤,美知子
 東京大学 教授 沼野,充義
 東京大学 教授 西中村,浩
 北海道大学 教授 望月,哲男
内容要旨 要旨を表示する

 作家/画家アレクセイ・レーミゾフにおける「書く/描く」という行為自体の本質性に着目、これを「書く人」と位置づけ、グノーシスとの関連からレーミゾフにとっての執筆の意味、「自己像」、創造について検討する。

I 「民衆の神話の再創造」再考:『ポーソロニ』とそれに続くもの

 アファナーシエフ、ヴェセロフスキイら民俗学者の研究に依拠したレーミゾフの「フォークロア的作品」を評して、「民俗学的資料の剽窃」とする新聞記事が現れたのは1909年6月のことだった。この剽窃疑惑に端を発して書かれたレーミゾフの公開書簡「編集部への手紙」は、「名誉回復」というよりも、作家が初めて創作方法を語った一種の「声明文」と見なしうる。この手紙に象徴派の巨匠ヴャチェスラフ・イヴァーノフの影響が顕著であることはこれまで幾度となく指摘されてきた。「編集部への手紙」には、芸術家の仕事が、「民衆」と「知識人」を媒介するロマン主義的なものとして提示され、神話的な童話『ポーソロニ』は、童話の「受容者」である3歳の愛娘と、革新的理論家としての「神話創造者」イヴァーノフに捧げられた。しかし創作においてレーミゾフが実際に範を得ているのは「民俗学者」であり、こうした「理論」と「実践」の乖離は、作家としてのレーミゾフの複雑で矛盾した自己像の形成に関与している。

 その一方で、世界の不条理に対する理解をレーミゾフはグノーシス、およびグノーシスに由来するボゴミール教の教説に見出し、これをアポクリファ集『リモナーリ』に投影した。「冒涜」であるとのイヴァーノフの抗議に従って改稿されたものの、変更は本質的ではなく、その後も、『リモナーリ』のヴァリアントは執筆され続けた。レーミゾフ自身の美学に照らしたグノーシスに由来する堕天使=サタナエルの形象は「復活しない」キリストと表裏を成し、ここにレーミゾフの出自に対する罪悪感、および「作家」という呼称への違和感が投影されている。

 レーミゾフが「編集部への手紙」で強調し、実際に堅持した「注釈の重視」は、注釈によって示される「出典の正確さ」よりも、むしろ「出典を訴求することの不可能性」を示唆している。レーミゾフのテクストは「作者不詳」のアポクリファの生成をなぞっており、この意味で彼は作家ではなく語り手、つまり「創造者」を騙る「異端」として自己を規定することになる。

II 『鳴り止まないタンバリン』、「原典」と「ヴァリアント」について

 ゴーゴリ、ドストエフスキイの系譜に連なる「小官吏」ものとしてくくられてきた中編小説『鳴り止まないタンバリン』(1910)は、「改作」あるいは「ヴァリアント」に関する問題を内包している。この小説中の一挿話は、「聖書の冒涜」として発禁になったプーシキンの物語詩『ガヴリイリアーダ』をパロディ化したものである。このことから、多面的でアイデンティティーの崩壊した主人公ストラチラートフがレーミゾフ自身やプーシキンでもあり、「小官吏」の清書作業が、「芸術家」の執筆の営為に重ねあわされていることの示唆が得られる。しかしこの物語に何よりも読み取るべきはストラチラートフという形象の多面性ではなく、「ヴァリアント」に関するレーミゾフの態度そのものである。発禁の詩をパロディとして取り込むことで、レーミゾフは検閲に代表されるあらゆる権威的構図のパロディ化を図ったのであるが、それは取りも直さず、「パロディ」のパロディ化、すなわち硬直した歴史的源泉主義や、その対極を成すロマン主義的な独創性神話への挑戦でもあった。そしてレーミゾフがそうした挑戦の拠り所としたものこそ、聖像画の「コピー」と、自ら追い求めて止まなかった義人・ニコラの「ヴァリアント」が示唆する、民衆の自由な想像/創造力だった。

III 『書かれたロシア』、あるいは本について

 レーミゾフが「新しい叙述の形式」であるとした『書かれたロシア』(1922)には、手紙や銘文、聖書の写しや数式、日記、占いの言葉など、「書面」のあらゆる形が蒐集、提示されている。本の計画は私的アーカイヴでの古文書整理の仕事にヒントを得て生まれた。「私物についての思い出」を複数の人間に共有させることで、レーミゾフは個と集団を融合させる。蒐集された古文書の引用(とその引用の模倣)は、始まりと終わりが欠如した、それぞれが不完全な「断片」でありながら、書き継がれてそこに存在するという可視的な物質性のうちに、記憶や精神性といった不可視な価値を宿す。「書く」という行為は忘却への抵抗にほかならず、『書かれたロシア』はこの意味で集団的な記憶についての書であるが、それと同時に、「本の本質」について私たちに思索を促す。レーミゾフの認識において「世界」は本に含まれるのではなく、紙片のうえ、文字のなかに、現出する「可能性」のみを有する。その可能性を追うことがレーミゾフにとっての「書くこと」であり、したがって描かれるべき「ロシア」も、調和的な「本」としてのある全体ではなく、追放される旧教徒が携える福音の切れ端、焼失の危機にある無用の破片として表象される。この風変わりな「作品」が一貫性のない備忘録としてあくまでもある総括を拒否していることに注意を向けるならば、これがレーミゾフの掲げた「民衆の神話の再創造」のモデルであることに私たちは気が付く。

IV レーミゾフの「文字」と「画」:「書く」ことと「描く」ことについての言説をめぐって

 レーミゾフの創作においてジャンルの模索がいかに重要な位置を占めるかは、彼の作品がしばしばジャンル分けが「不可能」であるという逆説によっても示される。『書かれたロシア』でレーミゾフが見せた断片の蒐集と非因果的な配置とは、そのクロノロジカルな統一性の破壊によって、それ自体が「年代記」のパロディでもあることを示している。しかし、時間的経緯に沿った伝統的な叙述の否定は、作家の全創作において同質なわけではない。フォークロア改作や中世ロシア文学からの引用という手法に加えて、亡命後には、作家は自分自身の「人生」により多くを取材するようになる。回想や夢、エッセイ風の記述は史実と混在して記述され、テクストの複雑さは増していく。この結果、レーミゾフのテクストには、ある断片的挿話が、別の版や著作の中にしばしば重複して収録されることになった。これはレーミゾフが頻繁に創作に登場させてきた「書く者」という形象を自分自身と重ね合わせることになる。レーミゾフはこうして、自らが「書く」ことを繰り返す、「書く者」の形象と重なっていく。したがってレーミゾフの新しいジャンルの創出には「書く行為」そのものが直結していた。「書く者」が主人公である『写字生―カラスの羽ペン』(1949)からはレーミゾフの印刷に対する否定的スタンスや「文字」への執着を読み取ることができる。カリグラフィーの名手かつ独創的な画家レーミゾフにとって、文字と画とは「書く/描く」という行為によってつながっており、行為に備わる身体性が、「現実」という3次元的抑圧からの解放、自由な「夢」の世界や「無意識的」状態を開示する。そのテクストが、因果律や時間秩序を拒否して、全体性に反対する非一貫性、非線状性、反書物性に向かったこともまた、「書く」という実際的行為の当然の帰結だった。「作者」と「作家」と「書く人」との非同一性を鋭く意識していたレーミゾフは、「独創」という非生産的な主張がただ芸術家の虚しい孤立しか生まないことを確信していた。「書く/描く」ことは、祖国や母語と引き離された亡命地の作家にとって、拘束から解放される唯一の切実な手段となる。しかし一方で、「剪り取られた眼には隙間はない」と言うように、どんなに書いても書き尽くされない「何か」を、レーミゾフは無視することはできない。レーミゾフの幻想性とは、「剪りとられた眼で」作家が見ているという多元的世界を、読者に「体験」させようとする作家の、「求心」しながらも「拡散」させる、矛盾した語りの構造そのものに由来し、書きながら分岐する作家の複数的主体を読者はいたるところで発見する。しかし起源=至高神にはなれない「造物主デミウルゴス」として自己を規定してきたレーミゾフも、結局、創造の可能性を否定してはいなかった。「蜘蛛の巣」状のレーミゾフの文学テクストは、視覚と有機的に結びながら、私たちに彼の多元的世界の一端を開示している。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文で取り上げられたロシアの作家アレクセイ・レーミゾフ(1877-1957)は,ロシア革命以前に発表された,象徴主義の技法を散文に取り入れた一連の写実主義的小説およびフォークロア的作品によって,すでに一定の文壇的地位を獲得していた。しかし1922年の亡命後も活発な創作活動を続けていたにもかかわらず,旧ソ連時代にはその成果は過小評価され,細々とロシア国外で研究が続けられるにとどまっていた。現在この時期の作品の復権・再評価・出版が急速に進む状況下で書かれた本論文において,小椋氏は,ロシア革命以前と亡命以後のレーミゾフの作品を統一的に理解するための一貫した視点を,「書く人」という魅力的なイメージに収斂させて提出しようとした。

 序章において現在までの研究状況が簡潔的確に示された後,第1章において,初期の代表作であるフォークロア的作品群が取り上げられる。小椋氏はこの作品が受けた「剽窃疑惑」に対する作者の弁明の分析から出発して,レーミゾフの「作家」ではなく「再話者」を志向する矛盾した「非ロマン主義的」「非創造者的」「個性」に注目する。続く第2章ではやはり初期の,ゴーゴリ,ドストエフスキイの系譜に属する写実的な小説が取り上げられる。この系譜の小説に現れる「筆耕」のイメージ,この作品に現れる発禁処分を受けたため「筆写」を通じて密かに読まれていたプーシキンの詩作品の挿話に特に注目することによって,作品の背景に一人の作者ではなく民衆全員に物語が共有されていた時代の豊かな民衆的想像力があることが明らかにされる。

 蒐集され一見無秩序に配列された古文書の引用からなる亡命期初期の特異な作品『書かれたロシア』を分析した第3章では,この作品が「集団的な記憶の書」であると同時に「民衆の神話の再創造」のモデルでもあるとされる。亡命期後期に書かれた,中世の写字生を主人公とする連作集『写字生――カラスの羽ペン』を主に論じた第4章では,初期から一貫して描かれてきた「書く人」という形象がここでは能書家でもあった作者自身と重ね合わせられ,印刷に対する不信,文字そのものへの執着,「書く」という行為の重視がそこに読み取れるとされる。

 審査では先行研究が少なく,難解をもって鳴るレーミゾフのテクストを粘り強く読み解き,「近代以降の個人主義を否定する」「主人公の個人的運命を語るような伝統的な小説に代わる新たな形式」を終生模索したとする作家像を説得的に提示し得た点が何よりも高く評価された。「民衆」等の用語のやや安易な使用,やや緊密さを欠いた構成,誤解の散見するテクスト解釈等々の欠点も指摘されたものの,本論文がもたらした功績は審査委員会が一致して認めるところであった。

 以上により,本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位授与に値するものとの結論に達した。

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