学位論文要旨



No 121770
著者(漢字) 大野,斉子
著者(英字)
著者(カナ) オオノ,トキコ
標題(和) N.V.ゴーゴリの異本論 : 1840年代から1910年代におけるゴーゴリ作品の受容の分析
標題(洋)
報告番号 121770
報告番号 甲21770
学位授与日 2006.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第559号
研究科 人文社会系研究科
専攻 欧米系文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金澤,美知子
 東京大学 教授 長谷見,一雄
 東京大学 教授 沼野,充義
 東京大学 教授 浦,雅春
 一橋大学 教授 坂内,徳明
内容要旨 要旨を表示する

 この論文は文学作品がどのようにして社会に普及し、長い間に古典として定着したのか、そのプロセスとシステムを研究するものである。論考にあたって題材に選んだのは19世紀前半のゴーゴリの作品である。その理由はゴーゴリの作品が19世紀を通じて様々な異本として再生産されてきたこと、そして異本と受容層に他の作家に比べて際だった多様性を見せていることにある。しかし本論はゴーゴリ作品の受容の歴史というよりも、文学作品の大衆化と古典化のメカニズムを考察することに主眼をおいているため、ゴーゴリ作品の分析はそのより普遍的な問いのケーススタディとして位置づけている。

 作品の普及と古典化は、作品の研究だけでは解明できない。作品研究と集団的な受容の研究では、その個別性と集団的な受容の変化を扱う際の論理が異なるためである。この論文では、その個別性と集団の変化の両方を論じるための理論的な枠組みとしてシステム論に多くを負っている。これは受容のプロセスで生じる個々の変化と、集団的な受容との連関を見いだす上で有効に機能する。そればかりでなく作品の受容のプロセスにみられる不確実性、時間の経過、一貫性のなさなどノイズとして排除されかねないことを説明する論理をその中に含んでおり、受容の個別の事例を一つのシステムの中でとらえることを可能にする。

 この研究が異本の研究であることはこのことと深く関わっている。異本は個別の読み方や時代ごとの流行の産物である一方、それを異本群としてみたときには社会のシステムや、文学作品を介した集団的なコミュニケーションの変化を表すものだからである。異本論を通じて、本を読めない大衆の間でゴーゴリの作品がよく知られていたのはなぜかという疑問、あるいは多様なメディアにゴーゴリ作品が使われたのはなぜかといった様々な問題に対する考察が可能となる。

 この論文では1840年代から20世紀初頭までを研究の対象時期として定めている。ゴーゴリ作品がどのように大衆化し、古典として受け入れられたかを論じるため、論の大半はゴーゴリ以後を扱っている。20世紀初頭を区切りとしたのは、このときまでにゴーゴリの受容に大衆化と古典化を示す構造的な変化が生じているためである。

 しかしこれは通史ではない。全体を通じて本論文はゴーゴリ作品の異本が産出されるシステムや、受容の仕方の変化を軸としてテーマごとに論考を行っている。第一部では異本とは何かについて、一つの出版物を題材に詳細に論じる。第二部では、社会的な文脈による作品の読み方の変化と、それが後に受容の再生産に果たす役割について論じる。第三部では個別の文学作品が文化的遺産として構築される際に異本が果たす役割を論じる。

第一部

 第一部では、1840年代のゴーゴリ作品の異本、『ゴーゴリの作品『死せる魂』からの100枚の絵』を取り上げ、異本とは何かについて論じる。

 『100枚の絵』が制作された時期は、ゴーゴリが読者の無理解と誤読に苦しんだ時代にあたる。『100枚の絵』はこうした誤読の産物の一つなのである。しかし『100枚の絵』は1840年代の人々の営為と出版文化の発展の上に成立したイラストアルバムであり、異本の傑作であった。

 『100枚の絵』は、木口木版画という1840年代のロシアにおける最新の印刷技術で作られたアルバムである。ロシアの木口木版画つき出版物は、外国の出版文化の影響を受け、さらにロシアの知識人社会における思想や文学と結びつくことによって急速にそのスタイルを発展させた。しかしこのスタイルは10年もたたないうちに衰退し、それとともに『100枚の絵』も出版を中断したまま立ち消えとなってしまう。

 こうした木口木版画付き出版物の新しいスタイルの盛衰には、当時の出版状況と社会情勢が深く関わっていた。ここでは社会のネットワークの変化という視点からスタイルの盛衰を1840年代の知識人社会との関わりにおいて論じる。そして『100枚の絵』ゴーゴリ作品の読み方や表現を分析し、この異本がゴーゴリ作品をもとにしたこの時代の新たな創作であったことを論じる。

第二部

 第二部では1860年代以降、ゴーゴリ作品の受容において生じた新たな局面について論じる。

 1850年代から1860年代の前半まで、ゴーゴリ作品は知識人の間では依然として高い関心と人気を保っていたものの、出版数は少なく、作品の社会的な受容に活力は見出されなかった。しかし1870年代以降、再びゴーゴリ作品への人気は高まり、作品の出版が増加し始める。この変化をもたらしたものは何か。そして人気を回復した後のゴーゴリ作品の受容には、1840年代と比較してどのような変化が見られるのか。

 1860年代にはその後のゴーゴリ作品の受容に影響を与える転機が訪れた。

 まず、表現形式の点でゴーゴリ作品からの独立性の高いイラストが制作された。このイラストはその後再版を重ね、様々な形で複製された。さらに、1860年代の教育改革のなかでゴーゴリ作品を啓蒙的な文学作品とする読み替えが行われた。この読み替えは啓蒙という方針を共有する1870年代以降の出版業界に受け継がれ、ゴーゴリ作品のリバイバルの出発点となった。

 この二つの出来事は、その後、1870年代以降のゴーゴリ作品の大衆化において重要な要素となっていった。1870年代以降、原作から独立した異本や複製としてのイラストの受容がゴーゴリ作品の受容の形態を変え、ゴーゴリ作品の大衆化を進めた。ボクレフスキイのイラストの受容を追うことによって、異本やこうしたイラストがゴーゴリ作品の受容に新たな局面をもたらしたことがわかる。

 また教育改革におけるゴーゴリ作品の読み替えは、1870年代以降、読者を開拓しようとするメディアの拡大志向と結びつき、啓蒙を目的としたゴーゴリ作品本の増加をもたらした。このことは、ゴーゴリ作品の読み方に新たな文脈を与えたばかりでなく、子供やナロードを含む読者の拡大へとつながった。

 さらに、イラストや教育改革におけるゴーゴリ作品の読みの変化を受け継いだ1870年代以降の出版界がどのように読者を拡大し、ゴーゴリ作品を広めたかについて雑誌『ニーヴァ』や移動派を例に挙げて論じた。

 『ニーヴァ』は20世紀初頭にはロシア中に読者をもつ巨大なメディアに成長した。この『ニーヴァ』の成長を促したのは教育改革をつうじてロシア各地で増加した学校の存在であった。また移動展覧派はゴーゴリ作品を含むロシア文学を題材にした絵画を携えてロシアを巡り、芸術に触れる機会のない地方の住人を観客層として取り込んだ。

 こうした『ニーヴァ』や移動派が構築した巨大なネットワークの重なりが、1870年代以降、ゴーゴリ作品が大衆化し、ロシアの人々の共有財産に変わる基盤にあったことを論じた。

第三部

 1870年代以後、ゴーゴリ作品を題材に取り上げたメディアの種類は増加の一途をたどり、膨大な数の異本が作られた。それを通じてゴーゴリ作品の受容には変化が現れた。20世紀初頭までの間にゴーゴリ作品は文化的な遺産として構築を進めたのである。

 これは集団的な受容の変化であると同時に、メディアの制作に関わる人々や、受容者の読みに関わる変化でもあった。第三部ではこの両方の局面を扱うことを可能にするものとして、この期間に制作された様々な異本を取り上げ、異本がもたらした長期的な変化について考察した。それを通じてゴーゴリ作品が文化的遺産として構築される際に異本が果たした役割について論じた。

 まず悪書・良書問題や、異本の受容の実態について分析し、同時代の枠組みでは捉えきれなかった異本の生命力について論じた。

 また冊子体ではない広義の異本も取り上げ、1870年代から20世紀初頭に異本とオリジナルの関係に生じた変化について論じた。異本において、記号の抽出や断片化などの形でオリジナルからの分離が生じ、異本はオリジナル以上の規模で受容された。オリジナルと異本の境界は様々な局面で侵犯され、このことが新たな異本の制作と受容を進める原理として共有された。このことこそが、1870年代以降、異本を大量に生み出す原動力であった。

 さらに、以上のようにしてゴーゴリ作品が集団的に創作され、再生産される仕組みについて論じた。大衆化を経てゴーゴリ作品の異本の制作と受容に決定的な変化が生じた。それはゴーゴリ作品が個々の小説ではなく、もっと大きな物語として存在し始めたという変化である。

 そこには、集団的創作が行われ、ゴーゴリ作品の再生産を継続する何らかのシステムが存在していたのではないか。だとすればゴーゴリ作品を多様なメディアの中で生き続けるものに変えたシステムとはどのようなものなのか。これについて、集団的創作のメカニズム、メディアの発達、コミュニケーションの三点から論じた。

 第一に多様なメディアでゴーゴリ作品の集団的創作がおこなわれ、異本が作られることによってゴーゴリの典型が生まれ、それが更なる異本の産出を可能にすることを論じた。第二にイラストと言葉を組み合わせるなど、メディアそのもの表現力の発達がゴーゴリ作品の異本を豊かにし、ゴーゴリ作品に適する形態のメディアが異本として作られることを論じた。第三にゴーゴリ作品の異本の産出が新たなコミュニケーションを生み出すことについて論じた。

 さらに、以上で論じた異本論について、実例による検証を行った。20世紀初頭までにゴーゴリ作品を古典として確立し、大衆化してきた異本の産出システムは、その後の時代にどのように働いたのだろうか。

 これを検証する上で、映画『死せる魂』を取り上げた。映画は出版物でこそないが、広義の異本であり、その新しさ故にゴーゴリ作品の異本の新たな時代における展開を提示するものである。

 映画『死せる魂』は19世紀の多くの異本が作り上げた『死せる魂』の典型をもとした、集団的創作の一つである。この映画にはそれまでの様々なジャンルのメディアで制作されてきた『死せる魂』の異本の要素が新たなメディアに流れ込んだことを見て取ることができる。

 映画『死せる魂』は新たなメディアゆえに、技術や表現における困難を抱えていた。しかしそれまでの異本による典型をもとに新たなメディアならではの表現を実現した。そしてこれ以後のゴーゴリ作品をもとにした映画とともに新たなコミュニケーションの場を構築していった。

審査要旨 要旨を表示する

 大野斉子氏の論文「N.V. ゴーゴリの異本論―1840年代から1910年代におけるゴーゴリ作品の受容の分析」は、19世紀半ばから20世紀初頭のロシアにおけるゴーゴリ作品の受容を考察し、合わせて文学テクストが普及し、定着していくプロセスを明らかにしようとしたものである。

 ニコライ・ゴーゴリ(1809-1852) の作品は生存中から20世紀に至るまで、本来の文字テクストだけでなく、版画集、教育・娯楽目的の簡易化された読み物、演劇、映画等、様々な形態で出版されてきた。大野氏の論文はこれらの出版物を広義の「異本」と捉え、「異本」の存在はゴーゴリ作品がロシア社会に普及するに際して大きく貢献したと、指摘する。

 本論文は序、結論と本論三部から構成されている。まず本論第一部では、1840年代に『ゴーゴリの作品『死せる魂』からの100枚の絵』がどのような経緯で制作され、受容されたかが明らかにされている。当時のロシア木口木版画の最新技術が生み出した傑作『100枚の絵』はこの作品をロシア社会に送り出した知識層の文化と密接な関係を有しており、その発展及び衰退と運命をともにしたのであった。第二部では1860年代ロシアのゴーゴリ作品の出版状況が考察されている。大きな変化は、(1)もとの文字テクストからの独立性の高いイラストが制作されたこと、(2)ゴーゴリ作品を教育的な視点から積極的に読み替えようとする試みが目立ったこと、であった。特に教育改革実施下で、ゴーゴリ作品の読み替えは読者開拓を目指した諸メディアと結びつき、「ゴーゴリ本」の増加をもたらした。大野氏はこうした1860年代ロシア出版界の動向を雑誌『ニーヴァ』と「移動展覧派」を具体例に分析してみせる。第三部では1870年代から20世紀初頭までにゴーゴリ関連メディアの種類と量が増加し、膨大な数の異本が出現したことが取り上げられる。この現象が集団的創作のメカニズム、メディアの発達、コミュニケーションの役割の三点から分析され、同時代の文化の枠組みでは捉えきれなかったゴーゴリの「異本」の意味が明らかにされていく。

 本論文はゴーゴリの文学をロシア近代文学の古典としてア・プリオリに認めるのではなく、彼の作品がどのようにしてロシア社会に普及し、読者に古典として認知されるに至ったかを明らかにしようとした極めて意欲的な仕事である。また、普及のプロセスを「異本」の役割を手掛かりに解明しようとした点も斬新で評価できるであろう。

 審査の過程では、<読者の嗜好の変化やメディアによる読み替え行為をゴーゴリ作品の内容との関連の中で明らかにする作業も必要ではないか>との意見が出された。しかしこの指摘は本論文の本質的な欠点を意味するものではなく、むしろ大野氏の研究に対する期待の大きさを示すものであったと言える。以上のような評価に基づき、審査委員会は全員一致で、本論文が博士(文学)の学位に充分値するものであるとの結論に至った。

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