学位論文要旨



No 121771
著者(漢字) 武石,典史
著者(英字)
著者(カナ) タケイシ,ノリフミ
標題(和) 近代東京における私立中学校の社会史的研究 : 上京・立身出世・近代化
標題(洋)
報告番号 121771
報告番号 甲21771
学位授与日 2006.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 廣田,照幸
 東京大学 教授 苅谷,剛彦
 東京大学 教授 土方,苑子
 東京大学 教授 三谷,博
 東京大学 助教授 野島,陽子
内容要旨 要旨を表示する

 本研究は、東京府の私立中学校の諸側面の分析をとおして、上京入学という地理的な移動が日本の近代化においてどのような役割を果たしていたのかを論じるものである。従来、近代化の文脈で焦点が当てられる移動とは社会的地位の移動に限られており、地理的な移動と近代化を架橋するという試みはほとんどなされてこなかった。

 これまでの学歴主義形成や立身出世主義を分析する枠組みにおいて論じられる中学校段階での上京は、学校体系の確立やそれに伴う立身出世規範の変容を強調する一つの要素というレベルにとどまっており、個人レベルでの立身出世を達成するための手段としてしか語られてこなかった。本研究では、東京の求心力という分析視角のもと、東京の中学校および地方の中学校の双方の動向を検討する。上京を個人レベルではなく総体としてとらえることによって、近代化過程における役割が解明できると考えられる。

 第I部では、中学校教育における東京・地方間格差がどのようなものであったのか、そしてそれが受験準備のための上京とどう関係していたのか、を課題とした。

 第一章では、近代日本の中学校のカリキュラムと高等教育機関の入試で求められた知識を西欧諸国および中国の状況と比較しながら検討し、それらの特徴をあきらかにしたうえで、その特徴が近代日本の中等教育にいかなる影響をおよぼしたのかを考察した。西欧各国や中国では古典の知識が尊重され、近代学が軽視されていたのに対し、日本の中等教育は近代学を基軸にし、高等教育の入試においてもその比重を高め制度化していった。とはいえ、伝統的学問の規範が色濃く残るなかで近代教育がスタートしたため、そして世界的にみて、時代を先取りする形での近代学重視だったこともあって、近代学を十分に学べない地域が多数生じてしまうなど、中等教育は地方間格差を孕みつつ展開することとなった

 第二章では、近代東京における中等教育の動向をふまえながら、いかなる教育機関が私立中学校へと転身していったのか、そしてどういった少年たちがそうした教育機関で学んでいたのか、さらには私立学校が中学校化していく過程を検討した。東京ではかなり早い時期に、学問の趨勢が「伝統学」から「近代学」へと移行したこともあって、近代学知の寡占状態を形成する。野心に燃えた地方の少年たちは近代学知を求めて上京し、高等諸学校の受験に備えた。近代日本において長らく続く「学歴主義と結びついた立身出世主義」は、近代学知が受験知となり、その取得が明確に立身出世を左右するようになった明治20年代前後を起点とするが、予備校的私立学校は近代学知のストックという有利さを抱えつつ、中学校に転身し、その求心力を一層強めた形で明治30年代を迎えるのである。

 第三章では、予備校的な私立中学校を経て進学した者たちの出身地等を分析し、こうした学校が変容していくなかでその利用層にどういった動きがみられたのか、そして学校内部にどのような変化が生じていたのかを論じた。予備校的な学校が、ごく一般的な東京の私立中学校へと変容していく背景では、予備校として利用していた地方出身層の離脱があったが、これは「受験準備のための上京」という行動様式の自明性の喪失を意味する。かつては東京において得やすいと考えられていた受験知=近代学知が各地の中学校でも習得できるようになった、という変化が、上京の減少―受験準備の場としての東京の求心力の低下―という形で表れたのである。予備校的私立中学校が都市部の一般的な中学校に姿を変えていく過程は、明治初期より東京に集中していた受験知=近代学知が全国の中学校に浸透し、平準化していくプロセスだった。

 第II部では、正規の学歴ルートから一旦はドロップアウトした半途退学者の上京の社会的意味を、全国レベルでの中学校半途退学の諸側面の分析をふまえたうえで、私立中学校の機能という視座から解明することを課題とした。

 第四章では、明治から昭和初期にかけての半途退学の状況を数量的に分析しつつ、中学校の性格の変容過程を検討し、半途退学の意味および半途退学者の心情について考察した。中学校制度が始動するも、入学者のほとんどが中途で退学するという状態が一向に改まらず、明治20年代末期以降もその度合いは弱まりつつあったものの大量の半途退学者が排出されていた。半途退学があまりに日常的でありそのリスクと無縁の者のほうが少なかったためか、半途退学になってもアスピレーションを完全に冷却することは難しかった。明治末期頃から半途退学者排出をも辞さない中学校の姿勢が温情的なものに変化していくと同時に、旧中間層の教育意識の高まり、中学校増設による実質的な学資負担の軽減なども重なり卒業率が上昇、退学率は減少していく。これに伴って、かつては一般的であった半途退学に負の価値が付されるようになった。

 第五章では、近代東京における私立中学校の機能の変遷を、その入学をめぐる諸動向と入学者の経歴を分析することをとおしてあきらかにした。明治30年代の私立中学校では、入学者の大半が第二学年以上への入学者によって占められており、しかも輩出される卒業生にも第一学年入学者が極めて少なかった。入学者の経歴は、他の中学校からの転校生、各種学校等からの転入など多様であり、入学の動機は短期間での卒業証書取得や飛び級、はたまた公立中学校を退学になり受けいれてくれる学校がたまたま私立中学校だったというものであった。明治後期の私立中学校は小学校との接続よりも、多種多様な中等教育機関とのそれの方が強かったが、これは同時期の中学校が、大量の半途退学者を排出していたのに対し、私立中学校は半途退学者のみならず、中学校就学の経歴を持たない者をも積極的に受け入れていたからである。こうした私立中学校の機能もあって、東京は「敗者復活戦の場」といった観があったが、私立中学校の認可剥奪をちらつかせた文部省の強硬の方針のもと機能は弱化していき、大正中期になると私立中学校は小学校と完全に接続した。

 第III部では、受験知をめぐる上京および半途退学者の上京の量的な動向によって、私立中学校の支持層がどのように変化したのかを分析したうえで、私立中学校の性格を検討することを課題とした。

 第六章では、明治30年以降における私立中学校入学者の出身地、父兄職業といった属性を分析し、私立中学校利用層の実態を検討した。明治から昭和にかけて、東京の私立中学校入学者・卒業者ともに大きく増加しているが、これは単なる量的変化ではなく、「地方の旧中間層」に代わる、新たな私立中学校の支持基盤としての「東京の新中間層」の台頭という質的転換でもあった。こうして進行した私立中学校の「東京化」は近代日本において社会移動の媒介の契機となっていた地理的移動の衰退の表れといえ、もはや私立中学校が地方の中学校教育を代替する必要がなくなったという新時代の到来でもあったのである。

 第七章では、大正中後期から昭和初期にかけての東京府における中学校入学難をめぐる諸相を分析し、それが私立中学校にどういった影響をおよぼしたのかを考察した。入学難の社会問題化は、府立のみならず私立中学校でさえも東京の少年によって満たされる時代が到来したことによって生じたものであり、この解決策として私立中学校の質向上を目指そうとする動きが活発化した。こうした志向性の勃興は、私立中学校が東京府民の私立中学校として認知され定着していたことの表れでもあったのである

 西洋からの文明移植という形での近代化を企図した日本にとって、導入したテクノロジーを運用する人材をいかに輩出するかが重要となった。学校、特に高等教育機関が、西洋の制度や技術の輸入の窓口としての役割を担っていくことになったように、近代化を推進する人材として最も期待されていたのは、近代学を教授する高等諸学校で学んだ者たちだった。明治10年代後半以降、合理性、効率性の観点から人材の教育・選抜における中等教育の比重を高められ、中等教育の動向も近代化の進行をこれまで以上に左右することになった。しかし、社会変革があまりに急だったため、そして明治維新以前に「中学」という概念がなかったこともあって、スムーズに中等教育が機能しはじめたわけではなかった。明治日本の指導者が「社会の現状」よりも「目標とする社会」を優先させる枠組みのもと、急激な変化を伴う「上からの近代化」を推進したため、「ギャップ」や「フリクション」が生じてしまったのである。

 「現状」が「目標」に追いつくまでの間、上京という地理的移動がギャップやフリクションを和らげる働きをしていたのである。上京は個人のレベルでは紛れもなく「立身出世主義」的な行動様式であったが、総体としてみれば、急速な近代化の成功に寄与するものであった。野心を抱いた少年の東京へと向かう一歩一歩が、日本と西洋諸国との差を一歩一歩詰めていたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、明治期の東京に叢生した私立中学校及びその入学者の分析を通して、上京という地理的移動の様態がどのように変化していったのかを検討しつつ、近代化の中で私立中学校が果たした社会的機能を明らかにしている。

 第I部では、東京の私立中学校が有していた、「受験のための知」の提供という役割が検討されている。まず、近代化過程における中等教育カリキュラムの比較を通して、旧来の伝統的な知の体系と断絶したカリキュラムを採用していったことが、日本の特徴として描き出されている。そこには、伝統知/近代知の断絶・格差が存在した。そして、地方から集まる青少年に対してそうした知のギャップを埋め、高等教育機関への進学を準備させる場として私立中学校が登場してきた過程が考察されている。

 第II部では、東京の私立中学校が有していた、全国の中学校の半途退学者の受け皿という役割とその推移とが検討されている。明治期の中学校の卒業率は低く、おびただしい半途退学者の一部は上京して、東京の私立中学校に「敗者復活戦の場」を求めていた。本論文では、大量な入学者の経歴データを分析することで、いつごろ、どのように、半途退学者の受け皿機能がなくなっていったのかが明らかにされている。

 第III部では、一方では、私立中学校入学者の属性の分析を通して、他方では、大正期〜昭和期の東京府における中学校入学難問題の検討を通して、東京の私立中学校が、地方の旧中間層出身者への教育機会を提供する役割を喪失し、地元東京の新中間層の子弟の受け皿になっていった過程が明らかにされている。

 従来の研究では公立学校を中心にした視点が強く、近代化のある段階までの人材の選抜や育成に関して、東京の私立中学校が果たしてきた役割は重要であったにもかかわらず、十分に検討されてきてはいなかった。本論文はその空白を埋めるとともに、知のギャップや地理的移動など、これまでの研究では弱かった視点から近代日本の中等教育の実証分析を行った点で、きわめて斬新なものといえる。また、非常に貴重な実証的知見を含んだ大量の学籍簿データの量的な分析や、自伝や新聞、雑誌などを広く渉猟した丹念な質的考察などによって、当時の上京者の就学や生活の様子を鮮やかに描き出すことに成功している。分析の軸になるべき理論的な枠組みがやや弱い点や、無試験入学や補助金のような諸制度に関する政治過程的な視点からの考察が乏しい点など、いくつか限界はある。しかしながら、中等教育の社会史的考察としてすぐれているとともに、近代日本における教育機会と社会変動の関連について、新しい知見を提供する研究である。博士(教育学)の学位を授与するにふさわしい論文といえる。

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