学位論文要旨



No 121775
著者(漢字) 庄司,智孝
著者(英字)
著者(カナ) ショウジ,トモタカ
標題(和) 第1次インドシナ戦争の終結とベトナムの軍事・外交政策 : 戦争終結からジュネーブ会議まで
標題(洋)
報告番号 121775
報告番号 甲21775
学位授与日 2006.09.20
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第681号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 山影,進
 東京大学 教授 田中,明彦
 早稲田大学 教授 白石,昌也
内容要旨 要旨を表示する

 本研究の目的は、第1次インドシナ戦争の末期からジュネーブ会議までの時期におけるベトナム民主共和国の軍事・外交政策を分析することにより、同国にとってこの戦争の終結がいかなる意味を持ったかを検討することにある。序論として、ベトナム現代史研究、中越関係史研究、国際関係史研究、ジュネーブ会議研究、米英仏中ソの外交史研究、アジア冷戦史研究の各分野における先行研究を整理した。そして先行研究の整理に基づき、本研究の課題を次の5つに設定した。第1に、ベトナム民族解放運動史の通史的観点から、第1次インドシナ戦争の末期からジュネーブ会議へいたる時期のベトナム民主共和国の動向、そしてジュネーブ会議での同国の交渉過程を明らかにすること、第2に、当該時期のベトナム民主共和国と中国の関係、特にジュネーブ会議での両国の関係を再評価すること、第3に、第1次インドシナ戦争からジュネーブ会議にいたる一連の過程において、ベトナム民主共和国がラオス・カンボジアとどのように関わってきたかを考察すること、第4に、従来大国の視点から語られてきたジュネーブ会議について、ベトナム民主共和国に議論の中心を移すことによって新たな会議像を構築すること、そして第5に、アジアにおける民族解放運動と冷戦の関係は多様であったという問題意識に基づき、インドシナ、そしてベトナム・ラオス・カンボジアそれぞれの場合の民族解放運動と冷戦の関係につき、第1次インドシナ戦争末期からジュネーブ会議の時期の分析をてがかりに考察すること、である。

 第1章では、まず第1次インドシナ戦争末期からジュネーブ会議の時期の前段階として、第1次インドシナ戦争の開戦、そして戦争中期の状況を考察した(第1節)。ここでは1950年から本格化する中国のベトナム民主共和国に対する軍事支援を軸に、ベトミン軍の戦争遂行の状況を分析した。次に第2次世界大戦の終結後に本格化するラオス・カンボジアの民族解放運動とベトミン軍の関係を論じた(第2節)。ベトミン軍の支援する抗戦勢力と王国政府の並立状況にあったラオスとカンボジアでは、ベトナムとは異なる民族解放運動の状況が現出していたことが第2節で留意すべき点である。続いて戦争末期にベトナム民主共和国がベトミン軍のディエンビエンフー攻略を決定するまでの過程を扱った(第3節)。ベトミン軍のディエンビエンフー攻略の決定は、フランス軍のナヴァール計画の遂行に対応した帰結であったことを示すことが本節の主眼である。最後に、ベトナム民主共和国が休戦交渉を受諾する過程を追った(第4節)。中ソが推進する緊張緩和政策を受けて休戦交渉を受け入れた時、ベトナム民主共和国は「戦いつつ協議する」という新たな方針に転換し、これがジュネーブ会議での同国の指針となった。

 第2章は、ジュネーブ会議の開催に至るまでの経緯と会議における軍事境界線画定交渉、そしてベトナム民主共和国の、ジュネーブ会議開催に際しての対応と軍事境界線画定交渉の過程を扱った。会議の開催前から開催当初にかけて、ベトナム民主共和国はベトミン軍とフランス軍がベトナムにおけるそれぞれの占領地域を微調整することによって双方の軍の集結地域を定め、停戦を実現しようとした。しかし、中ソは会議の開催以前からすでに境界線によってベトナムを南北に分割する構想を有しており、この方針に沿ってベトナム民主共和国を説得した。さらに会議において軍事問題と政治問題を一括して討議するか、あるいは軍事問題を先議するかという点について東西両陣営の意見が対立し、議論は意見の共通項としての軍事問題の先議、さらにはベトミン軍とフランス軍の集結地域を設定するためにベトナムを南北に分ける軍事境界線を設定する議論に収束していった。会議の開始から約3週間後の5月下旬、ベトナム民主共和国はベトナムにおける軍事境界線の設定を提案した。ベトナム民主共和国、フランス双方が軍事境界線を容認した後は、境界線を北緯何度に設定するかという問題が争点となった。軍事境界線の設定はまず越仏の軍事代表会議で話し合われた。軍事代表会議は7月上旬まで続いたが、軍事境界線の設定位置について、ベトナム民主共和国側の13度とフランス側の18度という意見の対立は解消することはなかった。そのため再度この問題は外交代表団の交渉にゆだねられることになった。中国の柳州で行われた周恩来とホー・チ・ミンの会談後、ベトナム民主共和国にとって、境界線を16度とすることまでは譲歩の範囲内であった。その後各国の代表による集団・個別交渉を経て、7月20日に軍事境界線を北緯17度とすることで関係各国は最終的に合意した。

 第3章では、ジュネーブ会議におけるラオスとカンボジアの休戦交渉を分析した。会議の開始当初から、東西両陣営はラオス・カンボジアに関する2つの論点をめぐって対立した。1つは、パテート・ラーオ、クメール・イサラクというラオス・カンボジアの抗戦勢力をジュネーブ会議へ招請するか否かという問題であり、もう1つは、インドシナ3国の休戦協定の議論を一括して行うか、あるいはベトナムとラオス・カンボジアの問題を分離して協議するか、という点であった。2つの論点の根底にはいずれも、ベトミン軍とラオス・カンボジアにおける民族解放運動の関係についての、東西両陣営の意見の対立があった。そして議論の推移に従い、東西両陣営の意見対立の構図は、ベトナム民主共和国のラオス・カンボジアとの関係性と、中ソを含む他会議参加国のインドシナ観との相違の構図へと変容していった。6月中旬になると、会議の決裂を恐れた中国が積極的に動き出した。中国はベトナムとラオス・カンボジアの状況は異なっていることを前提とした解決策をとるようになった。こうした中国の動きに対して、ベトナム民主共和国はその方針を受け入れつつも、自らの主張を実現する方法を同時に模索した。ベトナム・ラオス・カンボジアに関する各休戦協定の内容の差異が生じた原因は、各国の抗戦勢力と旧植民地政府に通じる政府との関係が各国によって異なっていたためであった。

 最後に本研究の結論として、次の5つをあげた。第1に、第1次インドシナ戦争末期に、中ソの意向もあり、ベトナム民主共和国は話し合いによる戦争の終結を受け入れた。このとき徹底抗戦は「戦いつつ協議する」方針へと転換された。そうしたなか、ナヴァール作戦を受けたベトミン軍の軍事作戦、そして53年初めから本格化した土地改革は、徹底抗戦から「戦いつつ協議する」方針への転換に応じてその意味が変化した。ディエンビエンフーの戦いは徹底抗戦の代替として象徴化され、その戦勝は徹底抗戦の勝利としての意味をもった。第2に、ジュネーブ会議時の軍事境界線問題、ラオス・カンボジア問題の解決にあたって、ホー・チ・ミン、ヴォー・グエン・ザップ、ファム・ヴァン・ドン、タ・クアン・ビューら政策決定と交渉に関わった者たちの意見は微妙に異なっていた可能性がある。そうした観点から、当時のベトナム民主共和国の中国に対する見方について、ベトナム民主共和国政府指導部内の認識も多様であった可能性を考慮する必要がある。第3に、ジュネーブにおいて、ベトナム民主共和国は民族解放と国民国家の問題について自らの論理矛盾に直面した。そのため同国はジュネーブの後、ラオス・カンボジアの抗戦勢力への一層の支援と革命党としての組織の強化によって、その問題を乗り越えようとした。第4に、ジュネーブ会議は東西両陣営の対立という側面と同時に、解決法と解決の論理の次元では「ベトナム民主共和国と中ソを含む他参加国の対立」という図式が成立していた。ジュネーブ会議でのベトナム民主共和国の妥協について、「大国主導」という視点のほかにも、同国自身が外交交渉の場で他国を巻き込み事態を打開する「技術」があったのかという点を指摘することができる。そして第5に、第1次インドシナ戦争における冷戦と民族解放運動の関係を、特に冷戦は民族解放運動を阻害したのかという点から考察すると、少なくとも阻害するのみではなく、促進した面もあったといえる。

審査要旨 要旨を表示する

 庄司智孝君の論文「第1次インドシナ戦争の終結とベトナムの軍事・外交政策−戦争末期からジュネーブ会議まで」は、第1次インドシナ戦争の末期からジュネーブ会議までの時期におけるベトナム民主共和国の軍事・外交政策を分析したものである。

 まず序論において問題の設定と、先行研究の整理が行われている。ここでは、従来、大国外交の観点からの研究が多かったジュネーブ会議について、北緯17度線での軍事境界線の設定、およびラオス・カンボジア問題を軸に、ベトナム民主共和国の側からの検討を行う点に、本論文の独創性があることが提示されている。

 第1章は、第1次インドシナ戦争の経過を、ベトナム民主共和国の側から概観、検討している。ここでは、戦争末期の1953年秋に、中ソの意向もあって、ベトナム民主共和国は、それまでの徹底抗戦から、「戦いつつ協議する」方針、すなわち話し合いによる戦争終結を受け入れる方針へと転換したこと、この外交方針にそって、フランスのナヴァール作戦に対抗する軍事作戦、国内での土地改革の意味づけも変化したことが、指摘されている。

 第2章は、ジュネーブ会議におけるベトナムの軍事境界線画定交渉の経緯を分析している。ここでは、以下のようなことが指摘されている。ベトナム民主共和国は、会議開催当初は、占領地の微調整による停戦の実現を構想していたが、中ソは境界線によってベトナムを南北に分断する構想を会議前からもち、ベトナム民主共和国を説得した。5月の下旬になってベトナム民主共和国も、軍事境界線の設定を容認するが、この問題を協議したフランスとの軍事代表会議では、13度線を主張するベトナムと、18度線を主張するフランスの意見が対立した。7月の3日から5日にかけて柳州で行われた周恩来とホー・チ・ミンの会談で、周から軍事境界線が17度線に設定される可能性が示唆されたが、この時点では、アメリカの介入を回避するために交渉をまとめなければならないと判断したホー・チ・ミンらが許容できたのは、16度線での境界線設定だった。最終的には、ジュネーブ会議の場で、周がベトナム民主共和国代表のファム・ヴァン・ドンを説得し、7月19日の越中ソ代表者会議で17度線案をのむことが確認された。

 第3章は、ジュネーブ会議におけるラオスとカンボジアの休戦交渉が分析されている。ここでは、以下のことが指摘されている。ベトナム民主共和国は、インドシナ三国の民族解放運動の状況は同一であるという認識のもとに、ラオスとカンボジアの抗戦勢力のジュネーブ会議への参加と、インドシナ三国の休戦協定の議論を一括して行うことを主張したが、この主張は、同盟国たる中国やソ連からの十分な支持を得られず、6月中旬以降、交渉決裂を懸念した中国が、ベトナム問題と、ラオス・カンボジア問題の区別を受け入れて、ベトナム民主共和国がジュネーブ会議の場で自らの立場を貫くことはできなくなった。

 結論では、以上のような分析をふまえた上で、1979年の中越戦争時に提起された、中国の圧力によりベトナム民主共和国が過度の妥協を強いられたという、ジュネーブ会議観に対する批判がなされて、ジュネーブ会議の結果に関しベトナムに不満が残ったのは事実にせよ、その多くは交渉の場での力の限界を反映していた、軍事境界線やラオス・カンボジア問題に関してのベトナムの指導者間には意見の相違があったと見られ、当時中国の説得をすべての指導者が一様に「圧力」と受け止めたわけでない、会議では東西両陣営の対立とともに、問題の解決法と解決の論理では、ベトナム民主共和国が他の参加者と意見を異にする局面も見られた、などの指摘がなされている。

 本研究の最大の意義は、冷戦体制の崩壊以降に公開された資料や、長い間外国人研究者が利用できなかったベトナムの文献を活用して、ジュネーブ会議の経過、特にベトナム民主共和国が北緯17度線における軍事境界線の設定に合意する経緯、および同国のジュネーブ会議の場でのラオス・カンボジア問題への対応を、実証的に示した点にある。ベトナム民主共和国を中心にすえた、堅実な外交史研究のジュネーブ会議論としては、先駆的な成果である。

 ベトナム戦争の末期から中越戦争時期にかけて、ベトナム研究では、ジュネーブ会議の経緯を、中国からのベトナム民主共和国に対する圧力に力点を置いてとらえる歴史像が広がったが、本論文のこうした理解への挑戦的な姿勢も評価できる点である。

 ただし審査では、いくつかの問題点や今後の課題も指摘された。それは、(1)情勢認識の客観性という視点を入れるのであれば、1954年当時のアメリカの介入の可能性や、第一次インドシナ戦争末期のベトナムにとっての中国の援助の大きさなどが示されるべきだった、(2)ベトナムが、ディンビエンフーの戦いとジュネーブ会議をどのように関連づけていたのか、説明が論理的でない、(3)中国の指導者のほうがベトナムの指導者よりも、アメリカの介入の危険性を重視していたというのは事実か、事実であればなぜなのか、(4)当時のソ連、中国、ベトナムの党の関係の見取り図、ベトナムの政策決定におけるジュネーブと国内指導部の関係が堀り下げられていない、といった重要な論点についてもっと深い分析ができるのではないかという指摘である。

 こうした問題点や今後に残された課題はあるが、それは本論文の基本的な意義を否定するものではないと審査委員会は判断した。したがって、本委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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