No | 121781 | |
著者(漢字) | 富岡,征大 | |
著者(英字) | ||
著者(カナ) | トミオカ,マサヒロ | |
標題(和) | 線虫の化学走性学習におけるインスリン/PI 3キナーゼ シグナル伝達経路の機能の遺伝学的解析 | |
標題(洋) | Genetic analysis of the function of insulin/PI 3-kinase pathway in the regulation of salt chemotaxis learning in the nematode Caenorhabditis elegans | |
報告番号 | 121781 | |
報告番号 | 甲21781 | |
学位授与日 | 2006.09.22 | |
学位種別 | 課程博士 | |
学位種類 | 博士(理学) | |
学位記番号 | 博理第4916号 | |
研究科 | 理学系研究科 | |
専攻 | 生物化学専攻 | |
論文審査委員 | ||
内容要旨 | インスリンは筋肉、脂肪細胞、肝臓などのインスリン受容体に作用し、代謝、細胞増殖、遺伝子発現などを制御するシグナル伝達を引き起こすことが広く知られている。一方、インスリンやインスリン受容体は脳においても発現し、また、インスリンは末梢から脳内に入ることが知られている。近年、インスリンシグナル伝達経路がヒト、マウス、ラットなどにおける記憶学習に関与することが示唆されているが、これらの知見は断片的なものであり生体内における記憶学習を制御するインスリン経路の作用メカニズムはまだ確立されていない。 線虫Caenorhabditis elegansにおいてもインスリン様シグナル伝達経路が存在し、耐性幼虫形成、代謝、寿命などを制御することが知られている。これらの制御において、インスリン受容体ホモログDAF-2の下流で、AGE-1(PI3キナーゼ)、PDK-1(ホスホイノシチド依存性キナーゼ)、AKT-1/2(Akt/PKB)よりなるキナーゼカスケードがDAF-16(FOXO型転写因子)を負に制御するシグナル伝達が働く(図1)。当研究室によりdaf-2の機能低下型変異体は線虫における行動可塑性現象に欠損を示すことが明らかとなり、インスリン様シグナル伝達経路が線虫における学習行動に関与する可能性が示唆されている。線虫は遺伝学的操作が容易なことに加え、少数の神経細胞からなる単純な神経系を持つことから、学習行動を分子レベルまたは神経回路レベルで解析する上で有用なモデル生物である。私は、この単純なモデル生物である線虫を用いて学習行動に関与するインスリン様シグナル伝達経路の制御メカニズムの解析を行った。 線虫はNaClなどの水溶性物質に対して誘引行動を示す。一方、線虫を一定時間NaClに曝すとNaClに対する走性は誘引から忌避へと変化する。この現象は餌が豊富にある条件下では成立しないことから、「飢餓」と「水溶性物質」の2つの情報の統合が行動可塑性に必要であることが推定される(以下では、この現象を化学走性学習と呼ぶ)。上述の通りdaf-2変異体は化学走性学習に著しい欠損を示す。すなわち、daf-2変異体は飢餓条件下でNaClに曝した後も依然としてNaClに対して誘引行動を示し、条件付けによる化学走性の可塑的変化を殆んど示さない。耐性幼虫形成などの制御においてdaf-2の下流で機能するシグナル伝達因子の変異体において化学走性学習を調べたところ、age-1、pdk-1、akt-1の機能低下型変異体においてdaf-2変異体と同様の学習欠損が見られた。従って、化学走性学習においてもdaf-2の下流でage-1/pdk-1/akt-1よりなるPI3キナーゼシグナル伝達経路が働く可能性が示唆された。一方、daf-2変異体の学習欠損はdaf-16の機能喪失型変異により抑圧されないことから、化学走性学習においてはdaf-2が制御するシグナルカスケードにはdaf-16非依存の経路が存在する可能性が示唆された。 C.elegansのゲノム上でインスリンと相同なペプチドをコードする遺伝子が約40種類予測されている。その中で、DAF-28は耐性幼虫形成や寿命制御においてDAF-2の主なリガンドの1つであることが示唆されている。しかし、daf-28変異体は正常な化学走性学習を示した。一方、ヒトインスリンと最も相同性の高いインスリン様ペプチドをコードするins-1の変異体は耐性幼虫形成、寿命制御ともに正常であるが、化学走性学習に顕著な欠損を示した。更に、ins-1変異はage-1機能喪失型変異体の学習欠損を増強しないことから、ins-1とage-1は同経路で機能することが示唆された。以上の結果より、化学走性学習においてINS-1はDAF-2の主なリガンドとして働き、異なる生命現象では異なるリガンドによりインスリン様シグナル伝達経路が制御されている可能性が示唆された。 daf-18はPI3キナーゼの逆反応を触媒する酵素であるPTENのホモログをコードしており、daf-18変異体ではPI3キナーゼの主な生成物であるPI(3,4,5)P3の量が上昇している。daf-18の機能低下型もしくは機能喪失型変異体はNaClに対する化学走性の顕著な低下を示した。daf-18変異体の化学走性欠損はdaf-2,age-1,akt-1の変異により抑圧され、逆に、daf-2やage-1の変異体の学習欠損はdaf-18変異により抑圧された。従って、daf-2/age-1経路とdaf-18の拮抗する活性により化学走性の強さや方向性が制御されることが示唆された。一方、age-1(null)とdaf-18(null)の2重機能喪失型変異体は顕著な学習欠損を示すことから、daf-2/age-1経路は化学走性学習の制御において重要な働きをしていると考えられる。 化学走性学習においてインスリン様シグナル伝達経路が機能する時期を調べるために、ins-1変異体の時期特異的レスキュー実験を行った。ins-1変異体にins-1 cDNAを成虫期のみにおいて発現させることによりその学習欠損がレスキューされた。従って、INS-1は成虫期において機能することが示唆された。同様の時期特異的レスキュー実験をdaf-18変異体においても行ったところ、daf-18変異体の化学走性欠損も成虫期におけるdaf-18の発現によりレスキューされた。以上の結果より、インスリン様シグナル伝達経路とDAF-18はともに神経発生の完了した成虫期において機能することが示唆された。 化学走性学習においてインスリン様シグナル伝達経路が機能する細胞を調べるために、インスリン様シグナル伝達経路の変異体における細胞特異的レスキュー実験を行った。age-1変異体の学習欠損は、主たる水溶性物質受容性の感覚神経であるASE神経においてage-1 cDNAを発現させることにより完全にレスキューされた。一方、その他の水溶性物質受容性の感覚神経や、一群の介在神経、腸などにおける発現では学習欠損はレスキューされなかった。従って、化学走性学習においてage-1は主にASE感覚神経において機能することが示唆された。ASE神経は左右対称な位置にあるASERとASELの2種類の神経よりなる。これらの神経は細胞の形態や連結する神経回路は似ているが、受容する化学物質の相違など、いくつかの異なる機能を持つことが明らかになってきている。化学走性学習においてage-1がASERとASELで異なる機能を持つ可能性を調べるために、ASERもしくはASEL神経に特異的に発現を誘導するプロモーターを用いて、age-1変異体の細胞特異的レスキュー実験を行った。その結果、age-1をASER神経において発現させることにより、age-1変異体の学習欠損は完全にレスキューされた。一方、age-1のASEL神経における発現によっては学習欠損はレスキューされなかった。従って、age-1はASE神経の中でもASER神経において主に機能することが示唆された。daf-18変異体の化学走性欠損もASER神経におけるdaf-18の発現により完全にレスキューされ、ASEL神経におけるdaf-18の発現によってはレスキューされなかった。従って、DAF-18もAGE-1と同様にASER感覚神経において主に機能することが示唆された。 INS-1::Venus融合タンパク質はASER神経を含む多くの介在神経からの入力を受けるAIA介在神経において強い発現が見られた。更に、INS-1::VenusはAIA介在神経のプレシナプス部位に局在が見られた。ins-1変異体にAIA介在神経を含む一群の神経においてins-1を発現させることによりその学習欠損がレスキューされた。一方、化学物質受容性の感覚神経や、AIA以外の一群の介在神経、腸などにおけるins-1の発現によっては学習欠損はレスキューされなかった。従って、ins-1のAIA介在神経における発現は化学走性学習に重要であると考えられる。AIA介在神経の化学走性学習における必要性を調べるためにAIA介在神経をレーザー照射により除去し、化学走性学習への影響を調べた。その結果、AIA介在神経を除去した線虫は顕著な学習欠損を示した。従って、AIA介在神経とおそらくAIA介在神経からのINS-1の分泌が化学走性学習に必要であることが示唆された。 以上の解析より、「化学走性学習においてAIA介在神経より放出されたINS-1ペプチドがASER感覚神経におけるDAF-2受容体に作用し、下流のAGE-1 PI3キナーゼによるシグナル伝達経路を活性化することで化学走性の強さや方向性を制御する」という線虫の学習行動におけるインスリン様シグナル伝達経路の制御モデル(図2)が示唆された。 図1 線虫において耐性幼虫形成、脂質代謝、寿命などを制御するインスリン様シグナル伝達経路 図2 線虫の化学走性学習におけるインスリン様シグナル伝達経路の制御モデル | |
審査要旨 | 本論文は序、方法、結果、考察と今後の展望よりなる。結果の第1章では、線虫C.エレガンスにおいてみられる行動可塑性(化学走性学習)について過去に報告されている同様の現象との比較を交えて述べられている。第2章では、インスリン/PI3キナーゼシグナル伝達経路やDAF-18(PTENホモログ)の化学走性学習における機能についての遺伝学的解析の結果が述べられている。論文提出者はこの解析により、化学走性学習において、インスリン/PI3キナーゼ経路とDAF-18の活性のバランスが化学走性の強さや方向性を制御していることを明らかにしている。第3章では化学走性学習においてインスリン/PI3キナーゼ経路が働く時期の解析について述べられている。論文提出者は、この解析によりインスリン/PI3キナーゼ経路が神経発生の完了した時期に働くことを明らかにしている。第4章では化学走性学習においてインスリン/PI3キナーゼ経路が働く細胞についての解析結果が述べられている。論文提出者は、この解析によりDAF-2(インスリン受容体ホモログ)やAGE-1(PI3キナーゼホモログ)が水溶性物質を受容する感覚神経であるASER神経において働くこと、INS-1(インスリン様分子)が感覚神経からの入力を受けるAIA介在神経において働くことを明らかにしている。第5章では、構造的に左右対称なASERとASEL感覚神経が、行動可塑性の制御において異なる機能を持つことが示されている。第6章ではインスリン/PI3キナーゼ経路を構成する分子の細胞内局在についての解析結果が述べられている。論文提出者は、この解析によりINS-1がAIA介在神経において、神経情報伝達物質や神経修飾物質などの放出が起こるプレシナプス部位に局在することを明らかにしている。 本論文により、線虫の行動可塑性におけるインスリン/PI3キナーゼ経路の制御機構が明らかにされた。インスリン/PI3キナーゼ経路は種を通じて保存されているが、このシグナル伝達経路が行動可塑性を直接制御することを示したのは全生物種を通じて初めての報告である。更に、本論文はインスリン/PI3キナーゼ経路の構成因子の機能細胞を明らかにし、限られた神経回路内でこのシグナル伝達経路が働くことを明らかにしている。インスリンが、生体内で限られた神経細胞に作用するという結果は初めての報告であり、意義のある発見であるといえる。したがって、本論文は学位論文として十分な内容を含んでいると判断された。 なお、本論文は、安達健、鈴木啓史、國友博文、飯野雄一、William R Schaferとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって研究を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。 | |
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