学位論文要旨



No 121782
著者(漢字) 今井,猛
著者(英字)
著者(カナ) イマイ,タケシ
標題(和) 嗅神経細胞の軸索投射位置決定におけるcAMPシグナルの役割
標題(洋) Roles of G Protein-Mediated cAMP Signals in Positioning Glomeruli in the Mouse Olfactory Bulb
報告番号 121782
報告番号 甲21782
学位授与日 2006.09.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4917号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多羽田,哲也
 東京大学 教授 坂野,仁
 東京大学 教授 森,憲作
 東京大学 助教授 榎森,康文
 東京大学 助教授 東原,和成
内容要旨 要旨を表示する

 哺乳類の嗅覚系は、数十万種類もの匂い物質を識別できると言われているが、その匂い物質を受容する分子的実体は、約1,000種類存在する嗅覚受容体(Odorant Receptor; OR)である。ORは7回膜貫通型受容体であり、嗅上皮の嗅繊毛に発現して、様々な匂い物質と結合する。嗅上皮に存在する個々の嗅神経細胞は、約1,000種類のOR遺伝子のうち、ただ1種類のみを、しかもmono-allelicに発現している。また、同一のORを発現する嗅神経細胞は、嗅上皮上では散在しているにも拘らず、その投射先である大脳の嗅球においては、一対の「糸球」と呼ばれる構造に軸索を収束させる。この結果、嗅上皮上の1,000種類の嗅神経細胞によって認識された匂い分子の結合情報は、嗅球上では1,000種類の糸球の発火パターンという2次元情報に変換されることになる。

 このように、単一の嗅神経細胞に1種類のORのみが発現するという「1細胞-1受容体ルール」と、同種のORを発現する嗅神経細胞が特定の糸球に軸索を収斂させるという「1糸球-1受容体ルール」が、末梢嗅覚系を形成する上での基礎となっている。ここで興味深いのは、これらのルールを保障する分子機構に関して、いずれもORタンパク質そのものが関与しているらしい、ということである。前者に関しては、OR遺伝子のコーディング領域のみを欠失させるなどして、ORタンパク質ができないようにすると、その変異型遺伝子を発現する嗅神経細胞では、別のOR遺伝子が共発現するようになり、単一遺伝子発現が崩れることが知られている。従って、抗原受容体遺伝子における対立遺伝子排除の機構と同様、ORタンパク産物からの抑制性シグナルが更なるOR遺伝子の発現を抑えるという、ネガティブフィードバックの機構が単一遺伝子発現を保障しているのではないかと言われている。また、後者については、OR遺伝子のコーディング領域を改変し、ORのアミノ酸配列や発現量を変化させると、その変異型遺伝子を発現する嗅神経細胞は、本来の投射位置とは異なる場所に軸索を投射させることが観察されている。従って、ORタンパク質は軸索投射位置決定にも重要な役割を果たすと考えられているが、その分子機構については不明である。

 ORが匂い物質を認識する際には、ORは3量体Gタンパク質G(olf)を活性化し、さらにIII型アデニル酸シクラーゼの活性化、CNGチャンネルの開口を経て膜電位の脱分極を惹き起こすと考えられている。実際、CNGチャンネルの必須サブユニットであるCNGA2のノックアウトマウスにおいては、ほぼ完全に匂い物質に対する電気生理学的な応答が失われ、行動学的にも匂い物質を認識できなくなる。しかしながら、このCNGA2ノックアウトマウスにおいては、「1細胞-1受容体ルール」も「1糸球-1受容体ルール」もほぼ完全に守られていることが判っている。従って、OR遺伝子の単一発現と軸索投射にはCNGチャンネルを介した匂い刺激依存的な活動電位は必要ないと考えられている。CNGチャンネルを介さないcAMPシグナルや、GS/G(olf)以外の3量体Gタンパク質、それ以外の分子が関与している可能性がある。

 そこで本研究では、ORに依存して生じる軸索投射の分子機構について、シグナル伝達という観点から検討することにした。まず最初に、3量体Gタンパク質を介したシグナルの関与について検討するため、I7というORについて、Gタンパク質と共役できない点変異体を作製し、これを発現するトランスジェニックマウスを作製した。ORにはType-A GPCRsによく保存されたDRYモチーフと呼ばれるトリペプチドモチーフが存在する。ロドプシンやα(1B)-アドレナリン受容体、バソプレシンV2受容体では、このモチーフの電荷残基D、Rを入れ替えるとGタンパク質との共役が損なわれることが判っていたため、I7にも同様の変異を導入した。実際にGタンパク質の活性化が損なわれていることは、トランスジェニックマウスの嗅神経細胞を用いたカルシウムイメージングによって確認した。野生型I7(I7(WT))を発現する嗅神経細胞はI7のリガンドであるオクタナールに応答を示したのに対して、変異型17(17(RDY))を発現する嗅神経細胞はオクタナールに全く応答を示さなかった。

 この変異型OR、I7(RDY)を発現する嗅神経細胞でOR遺伝子の単一発現が守られているかどうかを検討するため、蛍光免疫組織化学/蛍光in situハイブリダイゼーション共染色と単一細胞RT-PCRを行った。その結果、コーディング領域をCre組み換え酵素遺伝子に置き換えた欠失型トランスジーン(Cre)発現細胞では、内在性OR遺伝子の共発現が高頻度で見られたのに対し、I7(WT)やI7(RDY)の発現細胞では共発現はほとんど見られなかった。従って、I7(RDY)ではOR遺伝子の単一発現には異常がないと考えられた。単一発現を保障するための抑制性シグナルは、Gタンパク質以外のシグナル分子を介している可能性がある。

 次に、I7(RDY)を発現する嗅神経細胞の軸索投射について検討した。嗅球のホールマウントを観察したところ、I7(RDY)を発現する嗅神経細胞の軸索は、I7(WT)に比べると嗅球前側にのみ見出され、しかも収斂しづらくなっていることが判明した。また、嗅球の切片を作製して解析したところ、I7(RDY)発現細胞の軸索は、嗅球の糸球層には全く見出されず、2次神経細胞とはシナプスを形成していないことが判った。

 この結果は、ORが何らかのGタンパク質にシグナルを伝えることによって軸索投射の制御を行っていることを示唆している。発現解析の結果から、このGタンパク質の候補の1つとしてGSが考えられたので、I7(RDY)とともに恒常活性化型G(Sα) caG(Sα)を共発現させることを試みた。I7(RDY)の下流にIRES-caG(Sα)を挿入することで、このトランスジーン(I7(RDY)-caG(Sα))を発現する嗅神経細胞では、ORとしてはI7(RDY)を発現していながら、GSシグナルを回復させることができる。その結果、このトランスジェニックマウスでは、正常に軸索投射・収斂が起こり、軸索は2次神経細胞とシナプス形成できることが判明した。この結果から、ORがGSタイプのGタンパク質(GSないしG(olf))にシグナルを伝えることが軸索投射に必要であることが示唆された。

 更に、このGS/G(olf)シグナルが軸索投射先の位置決めに関与している可能性について検討するため、caG(Sα)をI7(WT)と共発現させ、軸索投射について解析した。コントロールとして、Cre組み換え酵素をI7(WT)と共発現させた場合には投射位置にほとんど変化がなかったのに対して、caG(Sα)を共発現させた場合には、投射位置は嗅球においてより後側にシフトすることが判明した。この場合、軸索の収斂・糸球形成には異常は見られなかった。また、同じcaG(Sα)をI7(RDY)と共発現させた場合、I7(WT)と共発現させた場合では、後者の方が後側に軸索を投射した。

 GS/G(olf)はアデニル酸シクラーゼを活性化し、cAMPの産生を促すが、cAMPは多くの場合、protein kinase A (PKA)を介して細胞内シグナルの制御を行うと考えられている。そこで、次に、ドミナントネガティブ型PKA(dnPKA)をI7(WT)と共発現させ、cAMPシグナルを弱くした場合の軸索投射について検討した。その結果、caG(Sα)の場合とは逆に、軸索投射位置は嗅球前側にシフトすることが判明した。糸球構造の形成およびシナプス形成に異常は認められなかったが、軸索末端の位置はI7(RDY)とよく一致していた。

 以上の結果から、OR-GS/G(olf)シグナルが嗅神経細胞の正常な軸索投射に必要であること、更にORから入力されるcAMPシグナルの強さが、嗅球前後軸方向の軸索投射位置を規定している可能性が示唆された。これまでORの違いがどのようにして軸索投射位置の違いに反映されているのかについては全く未解明であったが、本研究の結果は、cAMPシグナルの強さが軸索投射位置を規定する重要パラメーターであるということを示唆している。嗅覚系における軸索投射様式が視覚系やその他の感覚系と大きく異なるのは、軸索投射に際して位置情報の再編成が起こるという点である。脳の高度な演算能力を保証する上では、このような位置情報の再編成は重要な意味を持つと考えられる。今後、cAMPシグナルの支配を受ける分子群の解析を通し、多様で複雑な神経回路網の形成を制御する分子メカニズムが明らかにされると期待される。

[図1] GSシグナルは嗅神経細胞の軸索投射に必要である。

3量体Gタンパク質と共役できない変異型OR、I7(RDY)を発現する嗅神経細胞は、正常に軸索投射できず、糸球形成に至らない。これに対し、恒常活性化型GS(caG(Sα))を17(RDY)と共発現させると、その発現細胞の軸索はI7(WT)と同様に収斂し.糸球を形成できるようになる。(A)ホールマウント蛍光写真(軸索マーカーのCFP/YFP)。スケールは500μm。A,前側;D,背側(B)嗅球切片。点線は糸球層の境界を示す。スケールは250μm。

[図2] cAMPシグナルの増減に伴う軸索投射位置の変化。

野生型OR、I7(WT)とともにcaG(Sα)ないしドミナントネガティブ型PKA (dnPKA)を共発現させると、発現細胞の軸索投射位置はそれぞれ後側、前側にシフトする。

[図3] モデル

OR-cAMPシグナルの強さによって嗅神経細胞の軸索投射位置が規定されていると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は5章からなる。第1章はイントロダクションであり、マウス嗅覚系における軸索投射の研究について、これまでに報告されている成果と残されていた問題点について適切にまとめられている。マウス嗅覚系では、非常に特異な軸索投射様式が知られている。この軸索投射のプロセスには嗅覚受容体(OR)が関与していることが知られていたが、ORが匂い分子を検出する際に必要なシグナル分子は軸索投射には関与しないことが報告されており、ORに依存した軸索投射の分子機構は不明であった。ここでは、ORとシグナル伝達に関する問題点を指摘し、シグナル伝達を研究することの重要性について述べられている。

 第2章では本研究の実験結果について述べられている。そのうち、第1節ではGタンパク質と共役できない変異型ORを発現するトランスジェニックマウスの作製・解析を行った。その結果、変異型ORを発現する嗅神経細胞においては、OR遺伝子の単一発現は守られているにも拘らず、軸索が正常に投射できず、2次神経細胞とのシナプス形成が見られないことが判明した。第2節では、軸索投射に関与し得るGタンパク質の同定を試み、Gsがその候補として同定された。そこで、変異型OR遺伝子とともに恒常滑性化型Gsを共発現させると、軸索の収斂およびシナプス形成が回復することを見出した。さらに、野生型ORを発現する嗅神経細胞において恒常活性化型Gsを共発現させると軸索投射位置が後方にシフトすることから、Gsは軸索投射に必要であるのみならず、軸索投射位置の決定においても重要な役割を果たしていることを見出している。第3節では更に、PKA、CREBといった下流のシグナル分子の役割について検討している。PKAのドミナントネガティブ変異体を発現させると投射位置は前方化すること、CREBのドミナントネガティブ型変異体を発現させると軸索投射が損なわれることを示している。第3章の考察では、ORから入力されるcAMPシグナルの強弱に応じて前後軸方向の軸索投射位置が決まっているというモデルを提唱している。第4章は実験方法、第5章は引用文献となっている。

 これまでORの違いがどのようにして投射位置の違いに反映されているのかについては全く未解明であったが、本研究の結果は、ORから入力されるcAMPシグナルの強さが軸索投射位置を規定する重要なパラメーターであることを示唆している。嗅覚系の軸索投射において特徴的なのは、軸索投射に際して位置情報の再編成が起こるという点である。このような回路の再編成は、中枢神経系における高度な演算能力を保証する上で重要なものであると考えられる。従って、本研究の成果は、中枢神経系の回路形成メカニズムを理解する上で大変意義深いと考えられる。

 なお、本論文第2章は、坂野仁・鈴木操との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験の計画、遂行、分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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