学位論文要旨



No 121791
著者(漢字) 松田,晋弥
著者(英字)
著者(カナ) マツダ,シンヤ
標題(和) 南極周回長時間気球観測による低エネルギー宇宙線反陽子流束の測定
標題(洋) Measurement of cosmic-ray low-energy antiproton flux in a long-duration flight over Antarctica
報告番号 121791
報告番号 甲21791
学位授与日 2006.09.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第4906号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,俊則
 東京大学 助教授 森山,茂栄
 東京大学 教授 横山,順一
 東京大学 教授 福島,正巳
 東京大学 教授 牧島,一夫
内容要旨 要旨を表示する

 気球搭載型の超伝導スペクトロメータを用いた過去9回のBESS実験では0.18-4.2GeVの運動エネルギー領域において精密な反陽子流束の測定を行ない、非常に高い精度で流束を決定してきた。宇宙線内の微小成分である反陽子は特に低エネルギー領域においてその測定が困難であるが、Golden等による初の観測以来、様々な実験による測定が行なわれ、宇宙線物理をより理解するための手がかりとして大きな注目を集めている。宇宙線内の反陽子の主な起源としては、一次宇宙線(陽子、ヘリウム等)と星間物質との衝突によって生成される二次反陽子成分があげられる。この二次起源流束は、一次宇宙線のスペクトラム及び反陽子生成における運動学的要因によって、2GeV付近にピークを持ち、その両側で急激に減少する特徴的な形を持つことが知られており、その流束を精密に測定することにより、銀河内での宇宙線の伝播過程を研究する上で非常に貴重なデータを与えることができる。一方で、超対称性粒子の対消滅や、ホーキングにより予言される原始ブラックホールの蒸発などによって、いわゆる一次起源の反陽子成分が生成される可能性も指摘されている。2GeV付近にピークを持つ二次起源の成分とは対照的にこれら一次起源では低エネルギー側まで平坦に延びるスペクトラムが予測されている。これらスペクトラムの形の違いから、一次起源の反陽子成分からの宇宙線反陽子スペクトラムへの寄与は、低エネルギー側でのスペクトラムの形状の変化という形で現われるはずである。98年までに得られたBESS実験によるスペクトラムは、二次起源モデルから予測されていた2GeV付近のピークを質量による粒子の同定という方法で初めて実証し、宇宙線の銀河伝播に関する理論モデルが基本的に妥当であり、宇宙線反陽子の主成分が二次起源であることを確証した。しかしながら、太陽風の宇宙線への影響が最も弱くなる前回の太陽活動極小期(1995+1997)における低エネルギー領域での測定では、得られたスペクトラムは二次起源モデルから予測されるものよりも若干平坦であり、上にあげた一次起源成分による寄与が示唆されたものの、結論を導くためには理論、実験ともに不定性が大きかった。

 また、低エネルギー側では反陽子流束は強く太陽活動の影響を受けるため、その影響の正確な理解が一次起源の探索には必要不可欠である。太陽系内の磁場は非常に複雑なパターンを持つが、これは太陽の自転及び磁極がその時点軸からずれており、太陽表面での磁場をその内部に凍結した太陽風が太陽系内に拡散していくことによって生ずる。この局所的な磁場内での荷電粒子の拡散および対流等による宇宙線のエネルギースペクトラムの変化を太陽変調(solar modulation)と呼ぶ。この太陽変調には電荷依存性があることが示唆されており、それを再現するモデルとして磁場中でのドリフトパターンを取りこんだモデル等が提唱されてきた。この電荷依存性を調べる上でのプローブとしては、電荷だけが違う粒子のスペクトラム比を長期間の太陽活動の中で測定することが理想的であり、ほぼ一年ごとに行なわれてきたBESS実験による反陽子/陽子スペクトラムの比は太陽変調の理解に非常に興味深いデータを与えている。特に1999及び2000年における測定では、11年の周期をもつ太陽磁極の反転の前後で単純な球対称モデルでは説明できない反陽子/陽子比の変化を捕え、ドリフトモデルの検証を可能とした。しかしながらより正確な議論のためには更なる高統計のデータを太陽活動の各段階、特に太陽活動の極小期間を含む長いスケールで測定し続ける必要があった。

 これら低エネルギー領域において究極的感度を持ち、統計量を飛躍的に向上させた宇宙線反陽子流束測定を目的として、南極での長時間気球飛翔実験が2001年より準備された(BESS-Polar実験)。南極における気球飛翔の利点は地磁気による運動量のカットオフが非常に低いこと、及び10日を越える観測実験が可能なことである。本論文ではこのBESS-Polar実験の概要と2004年に南極にて行なわれた第一回フライト及び測定された宇宙線反陽子流束、さらに太陽変調の電荷依存に対する理論モデルとの比較について論じている。

 低エネルギー宇宙線反陽子への感度を高め、南極での長期間飛翔の要求を満たすため、BESS-Polar実験では新たに超伝導スペクトロメータが開発された。シンプルな円筒構造といった基本的設定概念は従来のBESS実験から継承する一方、測定可能な反陽子のエネルギーの下限を100MeVにまで下げるために測定器内の物質量の徹底的な削減及び新たな測定器の搭載が行なわれ、南極での気球に対応するために総重量の軽減も図られた。図1にBESS-Polar測定器の断面図を示す。BESS-Polar測定器は超薄肉超伝導ソレノイド、3つのドリフトチェンバーからなる中央飛跡検出器、粒子の飛行時間(TOF)を測定するシンチレーションカウンターホドスコープ、シリカエアロジェルチェレンコフカウンター、超伝導ソレノイドのボア内下部に搭載されたMiddle-TOFカウンターから構成される。Middle-TOFカウンターは64本のシンチレーションバーからなる測定器で、下側のTOFカウンターと同様にトリガーシステムに組み込むことにより本来であれば超伝導ソレノイド下部の物質量を通過できないような極低エネルギー領域の粒子に対してもトリガ感度を保つことができる。また長期間の実験に対応するため液体ヘリウムの保存槽を拡張し、電力の供給源も従来の一次電池による方法に代り、測定器全周を囲む太陽電池による電源システムが開発された。更に、長期間の実験中に中央飛跡内のガスが劣化するのを防止するため、BESS実験としては初めて飛翔中のガス循環システムが開発された。このシステムの採用にあたって各ドリフトチェンバのガスは従来のAr-CO2混合ガスから上空にてより容易に取扱うことのできるCo2単体のガスへと変更された。これらの改良によって、BESS-Polar測定器はトリガーを発行するのに必要な粒子の通過物質量が従来の18g/cm2から5g/cm2へと飛躍的に減少し、また約10日間の飛翔実験が可能となった。

 BESS-Polar測定器を用いた第一回の気球飛翔実験は2004年12月13日午後6時58分(現地時間)、南極のWilliams Filedの打上場からの気球の打上げにより実施された。気球は打上げ後数時間で高度37kmに到達し、その後8日17時間に渡って安定した飛翔を続け、一切のイベント選別なしに約9億の宇宙線イベントの観測に成功した。図2にBESS-Polar 2004気球飛翔実験の軌跡を示す。測定器は12月22日にパラシュートによって着地し、氷上での約一週間の回収作業の後全ての測定器要素を無事回収することに成功した。8日を越える測定の間、超伝導マグネット及び各測定器はほぼ順調に動作したが、TOFカウンターの光電子増倍管に生じた突発的な過剰電流により44本中18本の光電子増倍管の使用を中止した。これにともなってトリガーモードの変更が迅速に行なわれたが、約4割の立体角が失われた。また片側の光電子増倍管を失ったTOFカウンターに関しては、本来自身で求められるTOFカウンター内でのZ方向(超伝導マグネット軸方向)の情報が失われてしまうが、中央飛跡検出器からの情報を用いることによって補正を行なった。結果としてTOFシステム全体の分解能は本来の性能と比べて+20psecの200psecとなった。収集された9億の宇宙線イベントはただちに解析され、TOFの問題によって一部の立体角を失い、また予定していた10日よりも若干観測時間が短かったものの、大気頂上での運動エネルギー1.0GeV以下に従来のTOFシステムを用いた質量同定により約400の反陽子を同定することに成功した。これは従来の1日分のフライトデータの約4倍の統計量にあたり、反陽子流束における最大の不定性であった統計誤差を約半分に減少することが可能となった。図3に、質量同定によって識別された反陽子候補を速度の逆数を運動量に対してプロットしたものを示す。他の粒子と反陽子がバンドによってはっきりと識別されているのがわかる。またMTOFを用いた解析も別個に行なわれ従来のBESS実験では持ち得なかった0.1GeVまでの低エネルギー領域での反陽子の同定に成功している。これらの反陽子候補から流束が求められ、結果が図4に前回の太陽活動極小期に得られたデータ(BESS95+BESS97)とともに示されている。

 図4には様々な二次起源モデルによる理論計算も示されているが、それらと比べて低エネルギー領域での反陽子スペクトラムの形状の変化は明らかには見られなかった。しかしながら、第一回の気球飛翔実験が行なわれた2004年は、2006-2007に予測されている太陽活動の極小期への過渡期間であり、宇宙線反陽子への太陽風の影響が依然強いため、このデータのみから一次起源成分の可能性を排除することはできない。そのスペクトラムの形の違いから、一次起源による成分は二次起源のものよりも大きく太陽風の影響を受け、結果として二次起源成分のスペクトラムに埋もれてしまうことが考えられるからである。より詳細な議論のためには次回太陽活動極小期における、より精密な宇宙線反陽子測定が必要である。

 一方、図5に2004年に得られた反陽子、陽子の比と、近年Moskalenkoによって行なわれた太陽変調のドリフトモデルから予測される理論計算との比較を示す。ドリフトモデルにおいて、太陽変調の影響を特徴付ける主な変数は、HCS(helipspheric current sheet)の天頂角(α)であり図中実線はそれぞれα=15°-45°での理論曲線である。本実験により得られた結果からはα〜20°が良い再現性を見せており、この値はそれぞれ陽子、反陽子、また独立な他実験Wilcox Neutron Monitorによる観測とも矛盾しておらず、Moskalenkoによるモデルの低エネルギー領域での妥当性が検証された。一方で高エネルギー領域での陽子スペクトラムは理論よりも低い値をみせ、更なる理論モデル検証が求められる。

 BESS-Polar 2004気球飛翔実験によって、南極における長期間の宇宙線反陽子観測技術が確立され、その測定領域は従来より更に低エネルギー側に拡張されるとともに実験の不定性の大きな要因であった統計量も約4倍の向上を実現した。これらは宇宙線の銀河内伝播モデルや宇宙線反陽子の一次起源探索、及び太陽変調の電荷依存性の理解に対して非常にユニークで貴重な情報を与える。また、今回の実験成果をもとに、次回太陽活動極小期における第二回目の気球飛翔実験が計画されている。極めて高い統計精度の精密な観測が行なわれ、低エネルギー領域の反陽子の起源伝播について、さらに明確な知見がもたらされると期待している。

図1:BESS-Polar測定器

図2:BESS-Polar2004飛翔軌跡

図3:低エネルギー反陽子の質量による同定。

図4:得られた宇宙線反陽子のエネルギースペクトラム。過去に行なわれた電磁スペクトロメータを使った実験の結果及び二次起源モデルによる理論計算を共に示す。統計量は約4倍に向上している。

図5:反陽子/陽子のスペクトラムの比。実線はMoskalenkoによるドリフトモデルに基づいた理論計算(図の下より天頂角5°,15°,25°,35°,45°)。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、BESS-Polar実験により宇宙線反陽子の低エネルギー領域スペクトラムの測定を行ったものであり、8章から成っている。第1章は、低エネルギー宇宙線反陽子のスペクトラム測定についてその意義を述べ、BESS-Polar実験以前の状況についてまとめている。第2章でBESS-Pobr実験装置の詳細を記述し、第3章では実際に行われた南極での長時間気球フライトについて報告している。第4章において、大量に得られたデータから低エネルギー反陽子が選別され、その流束の絶対値が様々な系統誤差とともに第5章で求められている。第6章では得られた結果について詳細に検討がなされ、第7章でその結果の示す意味について議論を行い、将来の展望を示して、第8章で全体をまとめている。

 BESS-Polar実験においては、これまでの実験に比べ、実験装置の物質量を減らしてより低いエネルギーまで測定を可能とし、また、電力消費量を減らし、液体ヘリウムの貯蔵量を増やして10日以上にわたる南極周回の長期気球フライトを可能とした。残念ながら気象状況によりフライトは8日間で終わり、TOFカウンタの光電子増倍管の問題のため有効なデータ量が減ってしまったが、それでもなお、低エネルギーにおいてこれまでで最も精度の良い測定となった。統計誤差の改善とともに、系統誤差の検討もより詳細、慎重に行われた。0.1GeVという低エネルギーで良い精度の測定が出来た事により、2007年頃の太陽活動極小期に同様の気球フライトを行えば、超対称性粒子の対消滅などから来る一次起源の反陽子成分に対して十分な感度があることを実証したことになる。二次起源成分については、太陽変調のドリフトモデルの検証となる新たなデータを提供した。このように、本論文で行われた研究は、世界的に見てもまったくユニークな新しい測定データを提供するものであり、博士論文として十分な学術的意義をもっている。

 なお、本論文の内容はBESS-Polar実験グループによる共同研究であるが、宇宙線反陽子流束の導出とその結果に関する洞察は、論文提出者が主体となって解析を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

 したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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